第二話

『千花はいい子ね。かわいい子ね。旦那さまに似て賢いし、小鳥みたいに綺麗な声をしているわ』


 生前、母はそう言いながらよくわたしの頭を撫でてくれた。病がちだった母は、わたしを産んでから一日のほとんどを伏せって過ごすようになり、調子のいいときしか面会を許されなかった。


 母は決まってわたしを可愛がってくれたけれど、いつも憂いを帯びた目をしていた。「人魚の涙」を流す力を持って生まれてしまったわたしのことを、きっと案じていたのだと思う。ひょっとすると、父のあの残虐性にも薄々気づいていたのかもしれない。


 だからこそというべきか、母は一日でも長く生きようと努めていた。本家筋の母の目があれば、父も滅多なことはできないと踏んでいたのだろう。あらゆる薬を試し、いく人かの幻術師による治療も行った。おそらくそれは、母の命を一年か二年は延ばしたのではないかと思う。


 けれどどんなにすばらしい幻術でも死を乗り越えることはできない。死神は容赦なく母の命に鎌をかけていた。


 命が摘み取られるその日も、母はわたしの頭を撫でてくれた。あれが最後と知っていたら、決してそばを離れなかったのに、わたしは綺麗な蝶を追いかけて母の部屋から飛び出してしまったのだ。


『千花、あなたは泡になっちゃだめよ。幸せになるのよ』


 それが、母の最後の言葉だった。名残惜しくわたしの髪の先までも撫でていたあの細い白い指が忘れられない。


 買われた結婚の始まりの朝に、こんな夢を見るなんて。


 寂しくて、ぽろぽろと涙が出た。まぶた越しに光を感じるから朝が来たのだろうと思うのに、なかなか目を開けられない。後悔が残る思い出でも、数少ない母の記憶だ。それを夢で見られたのだから、現実に戻るのが惜しかった。


 涙が、こんこんと床に落ちていく音がする。そういえば昨日は涙を拾い集めたあと、疲れ果ててソファーに横になったのだ。どうやらそのまま朝まで眠ってしまったらしい。


 ふいに、さらりと髪を撫でられた気がした。ゆっくりとした仕草でくすぐるように撫でるその仕草は、母のものではない。兄さまでもない。


 ……誰?


 正体を知りたくて、瞼を震わせる。意識がはっきりしていくのと同時に、髪を撫でる感触は遠ざかっていった。


 重たい瞼を何度か瞬かせながら、あたりの様子を見渡す。まだ慣れない広い洋間には、みずみずしい朝日がさしていた。いつもは朝焼けの時間に起きるのだが、この明るさだと日の出から一刻は過ぎていそうだ。


 ソファーから落ちないように注意を払いながら体を起こすと、ぱらぱらと人魚の涙が落ちていった。朝の光の中でも、それは目に痛いほどの虹色の光を放っている。調和を乱す、憎らしい美しさだった。


「起きましたか」


 背後から低く澄んだ声が聞こえて、はっと振り返る。また一粒、人魚の涙が絨毯の上に落ちていった。


 どうやらいつの間にか、彼が部屋に来ていたらしい。昨日とは違い、いくらか楽そうな白いシャツ姿だった。飾り気のない服が、かえって彼本来の顔立ちのよさを引き立てている。すこしだけ、わたしの知っている昔の彼にも似ていた。


「あ……おはよう、ございます」


 ぎこちなく、ソファーの上で礼をする。昨日はつい昔の調子で敬語を使わなかったが、考えてみれば買われた身なのだ。これは契約結婚で、世間一般的な意味で妻になったわけでもないのだし、これからは彼を主人として敬わねばならないだろう。


「やめてください。今更お嬢さまに敬語なんて使われても、落ち着かないだけですから」


 彼はうんざりしたように告げると、床に落ちた人魚の涙を一粒拾い上げ、日の光にかざした。


 その姿を見て、慌てて机の上に置いた小箱を引き寄せる。鏡台の上に置いてあった薄水色の布張りの小箱で、金や銀の糸で細やかな花が刺繍されている美しい品だった。


 おそらくは装飾品をしまうための小箱だと思うのだが、昨夜かき集めた人魚の涙をしまう場所を探して、結局これを選んだのだ。


「あの……これ、差し上げるわ」


 わたしが敬語を使うのは好まないようだから、やむを得ず今まで通りの口調のまま、彼に小箱を差し出す。


 昨日とは違い手袋をつけていない彼の手が、それを受け取った。


 一瞬だけ触れあった指先を、大袈裟なほど意識してしまう。わたしの知らない、青年の手だった。


 彼は小箱をそっと開けると、かすかに息を詰まらせた。


「……どうして、こんなに」


 彼が期待していた以上の量を差し出せたのなら、あの寂しさも報われるような気がした。浅海家に散々傷つけられ、苦しんできた彼に、これ以上損はさせたくない。


「いや、おかしなことを聞いてしまいましたね。――こんなの、当然の結果なのに」


 そう告げた彼の表情は、どこか皮肉げに歪んでいた。


 彼の言葉からして、毎日これくらいの涙を流すことを求められているのだろう。やはり、効率的に泣ける方法を模索せねばならない。


「……これを、ぼくにくれるのですか?」


 わざわざそんなことを確認されるなんて思ってもみなかった。彼は律儀な性格らしい。


「ええ、もちろん」


 父は人魚の涙を手にすると見るからに喜んでいたものだが、彼はあまり嬉しくなさそうだ。彼の主たる目的はやはりわたしへの復讐であり、人魚の涙を売ってお金を稼ぐことはそれほど優先度が高いものではないのかもしれない。帝都に名を馳せる幻術師として、すでに満足するほどの財産を築いているのだろう。


「そうですか……。では、大切に使わせていただきます」


 彼はぱたりと小箱を閉じた。あたりにはまだ、夢を見ながら流した人魚の涙が散らばっている。


「ちょっと待って……床に落ちたぶんも、持っていって」


 わずかに乱れた浴衣を直しながら、ソファーから滑り降りようとしたところで、彼の手がそれを制した。代わりに彼がかがみ込んで、わたしを見上げるような姿勢になる。


 わたしが座って、彼が跪く。昔のわたしたちの高さで目が合って、どくりと心臓が揺れ動いた。


「どうかそのままで。……お嬢さまが床にかがむ姿なんて、見たくありませんから」


 彼は表情ひとつ変えずにそう言ってのけたかと思うと、黙々と落ちた人魚の涙を拾い始めた。彼を見下ろすことは慣れているはずなのに、昔とは違う大きな背中が気になって、なんだか落ちつかない。気持ちを紛らわせるように、わたしもソファーの座面に転がった人魚の涙を拾い集めた。


 いつものことだが、夢を見ながら流す涙はそう数が多くない。すべて集めても彼の片手の半分ほどにしかならなかった。彼はそれらも小箱に入れると、ぱたりと蓋を閉じた。


 彼が立ち上がる瞬間、ふっと至近距離で目があった。六年前よりも鮮烈さを増したような薄水色の瞳に、一瞬で囚われる。彼もほんのわずかな間だけ、戸惑ったように瞳を揺らがせた。


「……朝食のご用意ができております。支度が済んだら、食堂へ降りてきてください」


 ふい、と視線を逸らしながら、彼はどこかぶっきらぼうに告げた。数秒前まで目が合っていたのが嘘のような淡白さに、わたしも思わず視線を伏せる。


「ええ……わかったわ。ありがとう」


 本当は、昨夜食べたおにぎりのおかげで本当はあまりお腹が空いていなかったが、行かないという選択肢はきっと用意されていないのだろう。


 彼の足音が遠ざかると、代わりに近づいてくる軽い足音があった。どうやらあの双子の女中が朝の支度を手伝いに来てくれたようだ。


「奥さま、おはようございます」


 ぴたりと声を揃えて、すずさんとりんさんが挨拶をしてくれる。光沢のある、柔らかな檸檬色の着物を持っていた。


「おはようございます。あの……奥さまとは呼ばなくていいわ。彼も、それは嫌がるだろうから」


 復讐のために買ったわたしが使用人たちから彼の奥方として丁重に扱われているのは、彼の本意ではないだろう。


「それでは、何とお呼びいたしましょう?」


 すずさんかりんさんのどちらかが、わずかに小首を傾げた。片割れに比べると、彼女はどこかあどけなさが残る。


「名前でいいわ。千花と呼んでくれる?」


「かしこまりました、千花さま」


「他の者にもよく伝えておきます!」


 再び息を合わせて、ふたりは綺麗なお辞儀をした。わたしとそう歳は変わらないように見えるのに、所作は完璧だった。


「お着替えをご用意いたしました。わたくしどもでお手伝いいたします」


 手に持っていた淡い檸檬色の着物は、私の着替えだったようだ。肌を見せるのは躊躇われるが、着物を着替えるだけならば長襦袢姿になるだけだから問題ないだろう。彼女たちの好意を受け取ることにした。


「ありがとう。お願いするわ」


 姿見の前へ移動するためにソファーから立ち上がろうとしたとき、ふと、空の重箱が目に入った。そういえば、おにぎりのお礼をまだ言えていない。


「あの、昨日は遅かったのに夜食を用意してくれてありがとう。あんなにおいしいものを食べたのは久しぶりだったわ」


 すずさんとりんさんは、きょとんとした様子でお互いを見遣っていた。


「せっかくですが、わたくしではありません」


「わたしも……浴室にご案内してからは千花さまのお部屋に入っておりません」


「じゃあ、八重さんだったのかしら?」


 ふたりはやっぱり不思議そうに顔を見見あわせて、私に向き直った。


「八重は千花さまをお部屋にご案内したあとはすぐに休んだはずです」


「歳のせいか足腰がつらいようで、早めに休むのです」


「それじゃあ、水野さんか、瀬戸さんかしら……」


「彼らは台所には入りません」


「え……?」


 どくり、と心臓が跳ねる。それでは、心当たりはあとひとりしか残っていない。


 ……それだけは、ないと思うのだけれど。


 空の重箱が途端に気になって仕方がない。けれど、それ以上は考えないようにして無理やり顔を背けた。


 机の中央に飾られた鈴蘭が、朝日の中で痛いくらいに白く輝いていた。





 洋風の建物では、食事をする場所が決まっているらしい。案内された食堂は、外の光をたっぷりと取り入れる清々しい部屋だった。


「あ……」


 部屋に入った瞬間、新聞を広げる人影を目にして、息を呑む。純白の布がかけられた長机の端に、彼が座っていたのだ。


 彼はわたしの存在に気がついたのか新聞からちらりと顔を上げると、淡い檸檬色の着物を纏ったわたしの姿を一瞥した。


「やはり、千花お嬢さまにはそういう明るい色が似合いますね」


 幼いころは確かにこういう淡い黄色や桃色、薄い赤の着物を好んで着ていた。わたしがまだ着るものを選べた時代の話だ。


「あの……時間がかかってしまってごめんなさい」


 てっきり、食事はひとりでするのだと思っていた。彼がわたしなどと食卓を囲んでくれるとは思わなかったのだ。待っていてくれているのだとわかっていたら、もうすこし支度を急いだのに。


「構いません」


 彼は淡白にそう答えて、新聞を脇に置いた。それを合図とするように、八重さんとすずさんが食事を運んでくる。洋風の食堂だが、献立は和風のようだ。白いご飯とお味噌汁、青菜のおひたし、柔らかな紅色の焼き鮭が漆塗りのお盆の上に乗っている。お腹は空いていないつもりでいたが、お米と焼き魚の匂いを嗅ぐと食欲が湧いてきた。


「お嫌いなものはありませんか? 千花さま」


 八重さんはにこにこと柔らかな笑みを浮かべながら、湯呑みを置いてくれた。中にはお茶が入っているようで、ふわふわと湯気が立っている。


 呼び名を改めてほしいとわたしが願ったことを、あのふたりはすでに他の使用人たちにも伝えてくれたのだろう。仕事の早さに驚いてしまった。


「ええ、ないわ。……こんなにちゃんとした朝ごはんは久しぶり」


 言ってから、しまったとおもった。名家から嫁いできた娘の発言にしてはきっと違和感があるだろう。現に八重さんはきょとんとした顔でわたしを見ていた。


「まあまあそんなに褒めてくださるなんて、可愛らしいお嬢さまですこと」


 八重さんは明るく笑い放つと、ぎこちなく礼をして食堂を去っていた。足腰を痛めているというのは本当のようだ。お辞儀をするのもやっとといった調子だった。


「あの男は」


 ふと、彼が脈絡もなく口を開いた。わずかに、声の端が震えている。


「どこまでもあなたを虐げていたのですね。ろくな食事も与えないほどに」


 捉えようによっては、怒っているようにも聞こえる声だった。なんだかまっすぐに彼を見られず、軽く俯いてしまう。


「その……仕方なかったの。わたしがだんだん人魚の涙を流せなくなって……お父さまを困らせてしまったから」


 それまでどおり潤沢に人魚の涙を提供していれば、食事はじゅうぶんに与えられたはずだ。家の役に立たない娘には、相応の境遇しか与えられない。当然と言えば当然だった。


「あの男が遊女に貢いでいなければ、浅海家は今まで通りに裕福に暮らせたはずです」


 彼は、どこまでわたしたちの事情を知っているのだろう。そんなことまで調べ上げているなんて思わなかった。


「もっとも、そのおかげで、ぼくは千花お嬢さまを手にいれることができたわけですが」


 彼はどこか満足そうに微笑み、わたしを横目で捉えた。知らない彼の表情にどきりとして、再び俯いてしまう。


「冷める前に食べてしまいましょう」


 彼が箸を取る気配を感じて、慌てて姿勢を正す。


「ええ……いただきます」


 手を合わせて何気なく告げれば、彼の視線を感じた。薄水色の瞳がじっとこちらを見つめている。


「……いただきます」


 彼は長らく忘れていた作法を思い出したとでもいうように、わたしに倣ってぎこちなく手を合わせた。


 炊き立てのお米は、ふっくらとして甘かった。鮭もほどよい塩加減だ。お味噌汁にはしじみの出汁を使っているようで、思わず頬が緩んでしまうほどおいしい。あっというまに飲み干してしまった。


 なにより、彼と同じ献立を食べられていることが嬉しかった。浅海家にいたころは、彼にはそれこそ冷めたお米と調理であまった魚の崩れた煮付けのような、粗末な食事しか提供されていなかったのだ。当時育ち盛りの彼には足りるはずもない。兄さまや使用人たちの目を盗んで、彼におかずをわけていたが、誰かに見つからないかとひやひやしていたせいでこんなふうに落ち着いて食事ができることなんてなかった。


 彼と同じ席について食べる食事が、こんなにおいしいだなんて。ついついいつもよりも箸が進んでしまい、あっというまに食べ終わってしまった。


 あんまり早くてはしたないと思われていないだろうか、とおずおずと彼の様子を伺えば、わずかに頬を綻ばせた彼と目があった。彼はとっくに食べ終えていたようで、どうやらずっとこちらを見ていたらしい。夢中で食事をしているところを見られていたと思うと、途端に気恥ずかしくなってきた。


「ごちそうさまでした。……すごく、おいしかったわ」


「そのようですね」


 笑うような柔らかな声だった。体の内側がぽかぽかとする。なんとなく、食事のせいだけではない気がしていた。


「……よければすこし歩きませんか。屋敷の中をご案内します」


 思っても見なかった提案に、はっと顔をあげる。


「あなたが……?」


 彼は帝都に名を馳せる幻術師だ。わたしに屋敷の中を案内する暇なんてあるのだろうか。


「お嫌ですか?」


「いいえ……!」


 慌てて首を横に振る。彼は席を立ってわたしのそばに歩み寄ると、そっと手を差し出してくれた。馬車の乗り降りのときと同じ仕草だ。


 昨日と違うのは、彼が手袋をしていない点だろうか。素手が触れあうことがなんとなく気恥ずかしくて、恐る恐る指先から彼の手のひらに預ける。


 指先は、すぐに彼の手に捕らえられてしまった。兄さまよりも力強く、お父さまより優しい手だ。


「どうぞこちらへ」


 彼の手に引かれるようにして、光のなかへ歩き出す。繋いだ手は、優しい熱を帯びていた。

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