第二話
◇
二代目の「たま」は、飼っていた黒猫のたまを父に殺されて泣きじゃくるわたしを慰めるために、兄さまが連れてきた黒髪の少年だった。
『なかなかたまと同じ毛並みと瞳の猫は見つからなくて。代わりに同じ色の少年を見つけたから、千花のために連れてきたんだよ。名もないようだし、たまと呼んで可愛がってやりなさい』
兄さまはお優しいがすこしだけ人とは違う感性を持っているようで、黒猫の代わりにわたしと年の変わらぬ少年をくれた。たまの毛並みによく似た黒髪と、珍しい水色の瞳を持っているからという理由で。
連れてこられた少年は痩せ細り、弱っていて、おそらくは餓死寸前だったのだろうと容易に推測できた。そこを、兄さまの従者に見つけられて、二代目の「たま」としてわたしに贈るために浅海家まで連れてこられたのだ。
『こんなの、たまじゃないわ』
当時まだ七歳だったわたしは、そう泣きじゃくってぼろぼろと「人魚の涙」をあたりに散らした。虚な表情をしていた少年は驚いたように綺麗な薄水色の瞳を見開いて、わたしを見ていた。
『ごめんね、千花。やっぱりこんなのではいけないね。兄さまを許しておくれ。きっと新しいのを探してくるから、もうすこし待っていてくれるかい』
兄さまはわたしの頭を撫でて、従者に何やら目配せをした。兄さまよりひとまわり年上の従者たちが、少年の腕を無理やり背後に引っ張って立たせる。まるで不要になったものを廃棄するような荒々しい仕草が不穏だった。
『……あの子はどうなるの?』
『千花がいらないなら捨てておくよ。大丈夫、きみが気にすることじゃない』
捨てておく、という言葉はいっそう不安を駆り立てた。兄さまが彼に何かをするとは思えないが、兄さまの優しさは時折、わたしだけに向けられるもののように感じることもある。名もなき少年に、兄さまはどんな対処をするのか予想がつかない。
『……やっぱり、いるわ。お目目の色がたまそっくりだもの』
少年の瞳の色を気に入ったのは事実だった。従者に腕を掴まれたままの少年のもとへ近づいて、そっと顔を覗き込んでいる。
女の子にも見間違うほど、可愛らしい顔立ちをしていた。澄み渡る青空を切り取ったような瞳に、どうしても目を奪われる。目尻はすっと緩やかに吊り上がっていて、確かに見ようによっては猫にも似ている気がした。
『腕を離してあげて。痛そうだわ』
兄の従者に頼み込めば、彼らはそっと少年を畳の上に下ろした。足を崩して座り込んだまま、警戒するようにわたしを見上げる少年の姿は、まさに拾われてきた猫のようだった。
『わたしは千花。あなたを、わたしのたまにしてあげるわ』
きっと、生まれながらにわたしは傲慢だったのだ。人間の少年に対して、そんなふうに言ってしまうなんて。幼さでは隠しきれない心根の悪さが露呈していたに違いない。
『……はい、千花お嬢さま』
少年はしばらく迷った末にわたしの手を取った。他にいく当てがなかったせいだろうけれど、それから五年間、父に殺されるまでずっと、彼はわたしの大切な「たま」だったのだ。
「――気の早い話ではありますが、今日からお嬢さまにはわたしの屋敷で生活していただきたいと考えております」
甘く柔らかな声がして、はっと我に帰る。
月雲家の当主は、姿勢を崩すこともなく、人好きのする笑みを浮かべて父に語りかけていた。
「それはもちろん、今日からこの娘はあなたのものですから」
父は上機嫌でふたつ返事をした。父は、この月雲家の当主が六年前に自らの手で刺した少年だとは夢にも思っていないらしい。
……わたしの、勘違いという線は捨てきれないけれど。
それにしては先ほど「千花お嬢さま」と呼んだときの彼の意味ありげな笑みが引っかかる。
「こんなに美しいお嬢さまを迎えることができるなんて光栄です。……我が家にお招きするのが楽しみだ」
彼は柔らかな笑みを浮かべたままに、ちらりとわたしを一瞥した。澄み渡る空の色があまりに鮮やかで、目をちくりと刺されたような心地がする。向けられたまなざしの中に、快い感情は見つけられなかった。
……きっと、わたしに復讐しにきたのね。
彼を黒猫の代わりに飼って、彼を殺しかけた元凶となったわたしに。
理由など、それでじゅうぶんだった。縁談というかたちをとったのは、おそらく体裁を気にしてのことだろう。帝都で評判の幻術師が、若い娘を囲い虐げているなんて噂でも立ったら一大事だ。妻の位置に収めておくほうが何かと都合がいいに違いない。
「では、そろそろお暇することにいたします。術具を使った馬車でも、帝都までは時間がかかりますから」
「そうしてください」
縁談というよりは、商品の取引でもしているような調子だった。それはあながち間違いでもないのだろう。
わたしは高価な人魚の涙を生み出すお金儲けの道具で、彼にとっては復讐相手でしかないのだから。
◇
月雲家の馬車が、屋敷の目の前に停まっている。まとめる荷物も碌にないわたしは、絹の着物姿のまま彼とともに父と向かいあっていた。
「くれぐれも、月雲殿によく仕えるのだぞ、千花」
「……はい、お父さま」
縁談を知らされたときよりもさらに深く沈み込んだ心地で、決まりきった返事をする。父の目は、相変わらず「つまらない娘だ」と雄弁に語っていた。
「それでは、お嬢さまをお預かりいたします」
「はい、この度はありがとうございました、月雲殿」
やっぱり、父にとっては商品のやり取りでしかないらしい。祝言もまともにあげずに娘を送り出すことが、何よりもそれを物語っていた。
父にそれ以上伝える言葉もなく、軽く視線を伏せたまま、馬車へ向かう。
御者が扉を開け、先に彼が乗り込んだ。着物の裾が乱れないよう注意を払っていると、目の前に黒い手袋をつけた手が差し出された。
はっとして顔を上げる。彼が、馬車に乗り込むのを手伝おうとしてくれているのだ。
おずおずとその手に自らの手を重ねると、思ったよりも強い力で馬車の中に引き込まれた。そのままふわふわとした座面の上に、よろけるようにして腰を下ろす。扉はすぐに閉められた。
窓はあるものの、馬車の中はどこか薄暗い。密閉された空間で彼とふたりきりになり、途端に落ち着かない気持ちになった。
馬車は、まもなく走り出した。術具がついているせいか、わたしが知っているものよりも揺れが少なく、早い。これなら帝都まで半日もかからないだろう。
窓の外を眺めながらそんなふうに現実逃避していたが、彼のまなざしをひしひしと肌で感じた。何か、言わなければならない。
「その反応、やはりぼくを覚えておいでですね」
先に切り出したのは彼だった。先ほどまでと同様に柔らかい口調だったが、声のどこかに棘を感じる。彼の顔をまともに見られないまま、肩を縮めて俯いた。
「……ええ。覚えて、いるわ」
自分で思っている以上に緊張していたのか、口の中が渇ききっている。わたしの言葉の続きを待つような沈黙が流れて、何か言わなければという焦燥感に駆られた。
「その、生きていてよかった。本当に……」
他にもっとうまい言葉があったはずなのに、途切れ途切れにそんなことしか言えないわたしは愚かだ。心からの本音だが、これでは伝わらないだろう。
「生きていてよかった? ……よくもそんなことを安易に口にできますね」
ぎし、と座面が軋む音がしてはっとする。向かい側に座っていた彼が席を立ち、わたしの座る座面の背もたれに手をつくようにして距離を縮めたのだ。
彼からは、桜のような匂いがした。懐かしい香りだ。幼いころ、彼の頭を抱えるようにして一緒にお昼寝をした昼下がりが鮮やかに蘇った。
「ぼくは、あなたのせいで死にかけたんですよ。傷痕を確かめてみますか? ほら」
不意に右手を掴まれ、そのまま彼のシャツの下に導かれる。自分とは違って硬いお腹の感触に、指先が震えた。
やがて左の脇腹のあたりで、わたしの手を押し当てるように彼の手の力が強まる。
そこには、わたしの手のひらの長さほどの線状の傷があった。父が、短刀で彼を刺したときの傷だ。おそらく短刀を突き立てた後に、肉や内臓を裂くように刃を移動させたのだろう。
これだけの大怪我をして、よく生き延びたものだ。まず間違いなく、幻術による治療の賜物だろう。
「お嬢さまにも同じだけの痛みを与えたいと……ずっと願ってきたんですよ」
傷痕の上に導かれた手を、するりと握り込まれる。仕草だけを見れば、まるで恋人にするような振る舞いだ。
「さて、どうやって償っていただこうかな」
いたぶる獲物を手に入れた獣のように、彼は薄く微笑んだ。見たことのない嗜虐的なまなざしに、思わず震えながら視線を伏せる。
「どのようなことをしても……構わないわ。それで、償いになるのなら」
そのつもりで、この馬車に乗り込んだ。昔のように、お日さまの下で寄り添って眠る日が来るなんて思っていない。
繋いでいないほうの彼の手が、わたしの顎に伸びる、そのまま力を込められた無理やり顔をうわむかされた。薄水色の瞳と、強制的に視線が合う。
「迂闊な言葉ですね。……まあ、悪くない誘い文句ですが」
顎を支えていた彼の手が、滑るように頬に移動してくる。わたしの顔を覆うほどの大きな手の感触が怖くて仕方がなかった。けれど、耐えなければならない。
ぎゅう、と目をつぶって衝撃に備える。舌を噛まないように、硬く歯を食いしばった。
「ぼくが怖いですか」
ふ、と溶け込むような笑いとともに問いかけられる。涙はうまく流れなくなっても、殴られる前のこの瞬間は恐ろしくてたまらない。いちど殴られてしまえば痛みに堪えることに必死で、震えずに済むのだが。
ぎゅう、空いた手で着物を握りしめながら、こくりといちどだけ頷いてみせる。目をつぶっているせいで、彼がどんな反応をしているのかはわからない。惨めなわたしを見て、胸がすくような思いでいるだろうか。
「その反応……ひょっとして、ぼくがあなたを殴ると思っているんですか」
静かな声だった。出会ったときの虚ろな顔ばかりしていた彼の声とよく似ている。
顔は伏せたままに、そっとまつ毛を押し上げた。今朝まで素足同然で庭に出ていたわたしとは裏腹に、彼は磨き抜かれたきれいな黒い革靴を履いていた。
「ええ……だって、わたしを悲しい気持ちにさせないと、人魚の涙が手に入らないでしょう」
家を出る間際、父が「これで借金が帳消しになる」と上機嫌に呟いていた。つまりそれだけの莫大な額を彼は父に払ったのだ。わたしの涙をいくつ集めれば、彼はこの婚姻で元を取れるのだろう。
頬に触れていた彼の手が、するりと下ろされる。繋いでいた手も同時に解かれた。
「そうですね。ぼくはあなたを赦していない」
ああ、やはりそうなのだ。これは復讐のための結婚なのだ。
彼は莫大なお金でわたしを買って、復讐を果たす。わたしは今後流すすべての人魚の涙を、彼に捧げ続ける。
とても、夫婦と呼べるような関係ではない。復讐のための契約結婚、とでも言えばいいのだろうか。
覚悟していたことなのに、不思議と殴られたときよりも、火箸を押し付けられたときよりも心の奥が痛んで、目頭が熱くなるような気がした。
震えるわたしを睨みつけるように、彼の美しい薄水色のまなざしが突き刺さる。まるで、逃がさないとでも言わんばかりの鋭い瞳だった。
「――あなたはこれから死ぬまでずっと、ぼくのそばで償い続けるんですよ。千花お嬢さま」
彼は場に不釣りあいなほどの甘い声でそう告げて、わたしが知るどの瞬間よりも晴れやかに微笑んでいた。
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