幻術師の泡沫花嫁
染井由乃
序章 令嬢と黒猫
第一話
「さあ、
夕暮れに染まる花々の上に、ぽた、とどす黒い赤が散る。それは雨のように次々と降り注いで、色とりどりの春の花々を深紅一色に染め上げていた。
彼の脇腹から血が流れているのだ。そこには彼の薄い体を貫いてしまうほどの刃渡りの短刀が突き刺さっていた。
苦痛に呻く、彼の声を春風が攫っていく。髪がふわりと浮き上がって、先ほど彼がくれた花冠がずり落ちてきた。
「ほら、ほら泣いてみせろ! 今にも死んでしまうぞ!」
嗜虐の色を隠さずに、父は笑っていた。どくどくと、心臓の音だけは確かに大きく早くなっているのに、まるで蝋でも塗られたかのように顔が引き攣ってうまく動かない。ぴくぴくとくちびるだけが抗うようにわずかに震えていた。
時の流れが淀んでいく。澱のように凝り固まって、目の前の光景をやけに緩やかに見せていた。
夕暮れの薄暗さの中でも、彼の瞳だけは透き通るように光っていた。どんな空の色よりも澄み渡る薄水色が、恨むようにわたしを見ている。
「お嬢、さま……」
恨み言を呟くような重苦しい声で、彼は薄く笑ってみせた。
「――許さない……絶対に」
再び風が吹き抜けて、同時にずるりと彼の体は花畑の中に落ちていった。彼を捕らえていた父は興味を失ったように、あっさりと彼の命を奪った短刀を放り投げる。
「なんだ、つまらんな」
いい稼ぎになると思ったのに、と残念そうに嘆いて、父はわたしを一瞥することもなく姿を消した。彼の体は、気づけば名前も知らぬ父の従者たちが引きずっていってしまった。
残されたのは、血まみれの短剣とわたしだけ。夕焼けに伸びる影も、たったひとつだけだった。
◇
わたしも一緒に、死んでしまえたらよかったのに。
あの夢を見た直後は必ずその後悔とともに目を覚ます。頬を伝った涙が、布団に落ちてきらきらと光っていた。
寝転んだままその一粒を手にとって朝日にかざす。それは、白く歪んだかたちをした真珠だった。つるりとした表面が陽の光を虹色に変えて輝いている。憎らしいほどに、美しいものだ。
今日も、朝が来てしまった。みずみずしい空気とは裏腹に、心はずんと沈んでいる。重だるい体を無理やり起こせば、ぱらぱらと真珠が散った。
どうせ後で女中たちが拾い集めにくるのだろう。できれば視界にも入れたくないそれらを払い落として、朝の支度を始めた。
冷たい水で顔を洗って、かろうじて体の大きさに合わせただけの擦りきれた着物を纏い、縁側から外へ出る。暦の上では冬の終わりが近づいてきたとはいえ、朝の寒さがまだ厳しい。たちまち赤く染まった指先を白い息で温めた。そのまま指先を擦りあわせながら、庭の隅に生えた細い樹を目指す。今から七年ほど前に自分で植えた、まだ小さな桜の木だ。
「おはよう、たま」
木の根もとにしゃがみ込んで、ぼこぼことした幹を撫でる。この木の下には、かつてわたしが大切にしていた「たま」たちが眠っているのだ。こうして目覚めていちばんに挨拶にくるのが、数少ないわたしの日課のひとつだった。
「今朝は朝焼けが綺麗ね」
白い息がふわりと歪む。ざらざらの木の表面は凍てつくようで、温めた指先はすぐに再び赤くなってしまった。熱を閉じ込めるように指先を合わせて、そのまま静かに目を閉じる。
「……今日も、あなたの夢を見たわ」
正確には二代目の「たま」の夢だ。あの日から、ほとんど毎日繰り返している悪夢だった。
二代目の「たま」の遺体は、本当はこの桜の下には埋まっていない。「たま」はわたしの目の前で殺されたけれど、遺体は父の部下たちが片付けてしまったので、わたしの手もとには残らなかったのだ。
代わりに、彼の命を奪った忌まわしい短刀を埋めた。あくまで一代目の「たま」の代わりとしてこの家にやってきた彼には持ち物らしい持ち物は何ひとつなく、奇しくもそれだけが彼の形見となってしまったのだ。
たま、どうかわたしを許さないでね。
口にするには傲慢な気がして、祈りのようなその言葉はいつも心の中で繰り返すにとどめている。
許さないでほしかった。もしも天がわたしのような者も見守っているのなら、早く罰を下してほしかった。
「こんなところにいたのか」
地を這うように低い声が、背後から投げかけられる。慈しみや親しみがいっさいこもらないその声に反射的にびくりと肩が跳ねた。
「……お父さま、おはようございます」
膝についた土埃を払い、立ち上がるとふらりと眩暈がした。
元々朝は弱いが、このところはろくな食事をとっていないせいで立ちくらみを起こすことが増えている。気分が異様に沈むのも、栄養が足りないせいなのかもしれない。
「相変わらず陰気な顔だ。お前の先祖はたいそうな美姫だったというのに……」
自分が美しくないことなんて知っている。父からの侮蔑の言葉にいちいち傷ついていられた時期はとうに過ぎ去っていた。
「だが、今日の『人魚の涙』はまずまずじゃないか」
父は、懐から絹でできた布袋を取り出してにいっと唇を歪めた。朝わたしがこぼしたそれを、女中に集めさせたのだろう。父がわたしに会いにくるときは、「人魚の涙」が目当てなのだとわかっていた。
「夢でも見たのか? あの黒猫の」
くつくつと含むような嗜虐的な笑い声が降り注ぐ。返す言葉も言葉を返す気力もなく、唇を引き結んで俯くことしかできない。
父の言う黒猫は、どちらのことを指しているのだろう。わたしが幼いころから飼っていた黒猫の「たま」か、それとも刺し殺された二代目の「たま」のことなのか。
どちらを指しているにせよ、悪趣味なことに変わりはなかった。そのどちらも、父の手によって命を奪われ、この桜の木の下で眠っているのだから。
ふいに、お腹に重い衝撃を受けたかと思うと、気づいたときには地面に転がっていた。父に蹴り飛ばされたのだ。ろくな反応も返さずに黙っていたのが悪かったのだろう。あるいは、わたしを泣かせることが目的かもしれないが。
ぶくぶくと太った父の手に、前髪を鷲掴みにされ無理やり顔を上げさせられる。頭皮がずきりと痛んで表情が引き攣った。
「どうした? 我慢せずに泣け。お前の価値なんて涙にしかないとわかっているだろう?」
望み通り泣いて、この暴力から解放されるものならばそうしている。だが、人間は慣れる生き物だ。わたしの涙を得るために繰り返された暴力は、皮肉にもわたしを痛みに耐性のある娘に育ててしまった。おかげで、ちょっとやそっとの痛みでは泣けなくなってしまったのだ。
「本当に、人形のようにつまらない娘だ」
吐き捨てるように父はそう言って、乱雑にわたしの頭を突き放した。咄嗟に地面に手をついて、なんとか体勢を保つ。冷たい砂の上で、手のひらの皮が擦りむけるのがわかった。
「ああ、そうだ。今日は帝都からお前に客人が来る」
「……え?」
この屋敷は、帝都から馬車で一日はかかる街にある。帝都からの客人は滅多に訪れなかった。「人魚の涙」を買いに来る商人たちは定期的に通っているようだが、彼らは父と商談を交わすだけで、わたしに直接会うことはない。ましてや女学校にもまともに通っていないわたしに、わざわざ屋敷を訪ねてくれるような友人などあるはずもなかった。
父は「人魚の涙」の価値を推し量るときと同じぎらりとした眼でわたしを見ていた。よくないまなざしだ。
「――喜べ、お前などをもらってくれるという奇特な男が現れたのだ」
言葉の意味を、すぐに噛み砕くことができなかった。父の声が、遠くの世界の音のように続く。
「お前の縁談が決まったのだよ、千花」
◇
桜花が舞い散るこの国には、古くから幻術と呼ばれる不思議な術がある。元は妖や化け物が持っていたもので、それは火を起こさずとも熱を得ることができ、消えぬ灯りを灯し、時には人の傷や病までもを治す奇跡の術だった。
この国の民であれば幻術の素養自体は誰もが持っていると言われるが、実際に使いこなせる者は一握りだ。千人に一人もいればいいほうだろう。彼らは幻術を使って船や建物を作ったり、街灯を灯したり、病を治したりすることを生業とし、敬意を込めて幻術師と呼ばれていた。
幻術師たちは、幻術を使いこなせない民のために、生活を豊かにする術具と呼ばれる物を開発した。それは幻術を使いこなせい一般市民であっても、簡単に幻術の恩恵にあずかることができる奇跡の品だった。家の中の灯り、水を汲み出すための動力、室内の温度の調整、調理器具――高級なものになると術具を使用した蓄音器や自動で動く木馬や揺籠、なんてものもあるらしい。
その術具の原動力となるものは大きくわけてふたつある。ひとつは幻術師自身の力だ。多くは術具の製作者がそのまま力を込めて商品とすることが多い。もちろん力は有限なので、動かなくなったらまた力を込めてもらわねばならない。
もうひとつは「幻石」と呼ばれるものだ。自然界にはまれに幻術の源となる力が宿った物が存在する。多くは石や宝石のかたちをしているために「幻石」と呼ばれるが、特別な方法で清められた雪解け水や一定の場所でのみ採取できる薬草なども「幻石」の仲間だ。
一般家庭の多くはこの幻石を用いて術具を使用している。一部の裕福な家には、術具に力を込めたり点検をしたりするお抱えの幻術師がいることもあるようだが、ほんの一握りだ。この国の技術を支えているのは幻術師の開発した術具と幻石だと言ってしまっても過言ではなかった。
幻石は宿っている力の大きさによって価格が大幅に変わってくる。家の中の灯りを三月つけておく程度の幻石であれば、平均的な家庭の一日分の給料もあればじゅうぶんに買えるが、室温の調整機や調理器具に使う幻石となると一気に跳ね上がって半月分くらいの給料は必要になる。術具自体も決して安いわけではないので、家の中をどれだけ術具で充実させることができるかはその家の経済力次第と言わざるを得なかった。
そんな幻石にも、稀に規格外の代物が存在する。それは長く生きた野生動物の角であったり、果てしない時間を眠り続けてきた琥珀であったりと例を挙げればきりがないのだが、共通しているのは、それらはその貴重さのために非常に高額な値段で取引される代物だということだった。
わたしの涙も、そのひとつだった。
わたしの生まれた
「人魚の涙」と呼ばれるその真珠は、非常に強力な力を宿した幻石でもある。一粒で帝都じゅうの灯りを一晩は保たせることができるほどの代物だそうだ。当然、売り払えば他の幻石とは比較にならないほどの高値がつく。
浅海家は、古くからその人魚の涙を売り払うことで裕福な生活をしてきた。とはいっても、力を持った娘がたまに流した涙を、信頼のできる取引相手にだけ密かに譲る程度だった。無理に娘を泣かせて、涙で必要以上に稼ごうとする当主はいなかった。――わたしの父が家督を継ぐまでは。
父は浅海家の分家の人間で、本家筋の母が亡くなったあとから本性をあらわにした。わたしを、お金を稼ぐための道具として使い始めたのだ。
涙を真珠に変える力とは言っても、実は感情がこもった涙でなければ、「人魚の涙」にはならない。あくびをしたあとだとか、目が乾いたときに流れるような生理的な涙は涙のままなのだ。逆に言えば感情さえこもっているのなら笑い涙でも悔し涙でも構わないのだが、お金を稼ぐことしか頭にない父が選んだのは非常に効率的で残虐な方法だった。暴力で、わたしを絶望させて涙を流させることにしたのだ。
はじめは言葉の暴力から始まったように思うが、慣れてくるとすぐに物理的な暴力に移った。わたしが流した涙を他の者に奪われないように、父が直接殴ることが多かったように思う。それがよけいに悲しかった。
骨を折ったことは何度もあったし、背中や二の腕には火箸を押し当てられた痕もある。幼いころから飼っていた黒猫を目の前で殺されたときには、この国中の灯りを何日も灯しておけるくらいの涙を流した。
父はそうして得た「人魚の涙」をためらいなく売り払っては、贅沢に耽った。花街に通い詰めては湯水のようにお金を使い、意中の遊女の歓心を買おうと躍起になっていたのだ。
だが、暴力にも痛みにも、人は慣れていくものだ。この六年――二代目の「たま」を失ってから徐々に、わたしは涙を流すことが減っていった。殴られたら確かに痛いし、声を聞くだけでびくりと肩を跳ねさせるほどに父に怯えているが、もう、悲しくないのだ。これがわたしの日常で、母や「たま」たちがいたころの輝かしい日々に焦がれる気持ちもいつからか焼ききれてしまったから、心が揺れ動かなくなっていた。
収入源を失った父は焦っていた。今までわたしが流した涙があったからしばらくは今まで通りの生活を続けられたようだが、この二、三年は明らかに家計が傾いていた。もともと粗末だったわたしの食事は残飯のようになったし、着物もかろうじて肌を隠せるようなすりきれたものばかりになった。女中や下男の数も、十分の一くらいに減ったのではないだろうか。
それでも花街通いはやめていないようだから、ひょっとすると近いうちに借金だけが残されて、浅海家は爵位を返上しなければならなくなるかもしれない。
そうなれば父はわたしを許さないに違いない。きっと、家が没落した暁には殺されるか心中に巻き込まれるのだろうとぼんやりと考えていたし、それでいいと思っていた。
そんな状況だからこそ、わたしに縁談が来ることは予想していなかった。滅多に泣かなくなったとは言っても、「人魚の涙」を生み出す可能性のあるわたしを父が手放すとは思っていなかったのだ。
でも、そんな「いつか」の利益を待っていられるような余裕は、ついになくなってしまったのかもしれない。
「人魚の涙」を流す娘は、それは高く売れるはずだ。すくなくとも山のように積み上がったこの家の借金を返すくらいのお金は動くに違いなかった。
……わたしを殴るひとが、お父さまから『旦那さま』に代わるだけね。
数年ぶりに純絹の美しい着物を着せられても、心が躍るはずもない。ぱさぱさに乾ききった髪を引っ張られるようにして無理やりまとめられ、暗く蝋のように凝り固まった顔には不釣りあいの白と赤の花飾りをつけられた。薄く化粧を施せば、遠い記憶の中にしかない母の面影がわずかにあるような気がして、なんだか耐えられなくなってすぐにまつ毛を伏せた。
わたしの縁談相手は、帝都の幻術師であり青年実業家でもある
評判だけを聞けば、十八の娘を殴りそうにもない好青年だが、期待はしないほうがいいだろう。強い素養に恵まれた幻術師だというから、「人魚の涙」を使って術具の開発をしたり、自身の幻術を強化したりするに決まっている。ただ「人魚の涙」を売り払っていた父よりもたちが悪い可能性すらあった。
「お支度が整いました」
美しい深い緋の着物を着付けてくれた女中が、義務的に報告する。この家の使用人は皆、わたしを腫れ物のように扱っていた。下手に関わって父の怒りを買うことが恐ろしいのだろう。
姿見に映ったわたしは、憎らしいほど浅海家の令嬢にふさわしい装いだった。表情こそ凝り固まっているが、事情を知らぬ者が見れば、「慎ましやかで理知的なご令嬢ですこと」なんて薄ら寒い社交辞令で誤魔化せてしまうくらいには違和感がない。
こんな絹で織られた布ひとつで、わたしの傷は隠されてしまうのか。髪に結いつけた花ひとつで、恵まれた娘に見えてしまうのか。
向かう先のない小さな怒りが一瞬だけ湧き上がって、すぐに消えた。女中に案内されるがままに、客人が待つという母屋へ向かう。この二、三年はずっと離れに閉じ込められていたから、同じ敷地内の母屋に足を踏み入れるのも久しぶりだった。
離れから出る直前に、庭を振り返って細い桜の木を眺める。本来は婚約期間を置くだろうからこの離れに戻ってくると考えるべきなのだろうが、どうせまともな縁談ではないのだ。場合によってはこの瞬間が離れとの別れになる気がしていた。
……たま、連れて行けなくてごめんね。
せめてあの桜の木の枝のひとつでも持って行けなかったことが悔やまれた。
「お嬢さま、お急ぎください」
わたしを急かす女中の声に従って、静かにまつ毛を伏せる。
事情を説明したところで、父が待ってくれるはずがない。むしろ涙を流す好機かと考えて、わたしの目の前で桜の木を燃やすくらいはやってのけるかもしれない。
「ええ……行くわ」
売られていく家畜に心があればこんな気持ちなのだろうか。まだ冷たい春の風が、急かすようにわたしの背中を押していた。
二、三年ぶりに足を踏み入れる母屋はどれだけ見窄らしくなっているだろうかと思ったが、見栄っ張りな父らしく記憶の中とそう変わらないくらいに豪華な調度品で満ちていた。あの箪笥は、あの見事な絵画は、わたしの涙何粒ぶんだろう。考えてみるものの、虚しくなってすぐにやめた。
「千花」
俯きながら歩いていたが、名前を呼ばれのろのろと顔を上げた。気づけばわたしのすぐそばには、羽織を肩にかけた青年の姿がある。
「
藍兄さま。この浅海家で唯一わたしの味方であるひとだ。兄さまは父が妾として囲っていた女性の子で、わたしよりふたつ年上の異母兄にあたる。生まれつき体が悪く、滅多に屋敷の外に出られない生活をしていた。
兄さまだけは、わたしを「人魚の涙」を生み出す金儲けの道具ではなく、ただの妹として、人間として扱ってくれた。体が弱いために一緒にいられた時間は長くはないけれど、兄さまがいなければ生きることを諦めていたかもしれないと思う瞬間がいくつもある。
「話は聞いたよ。……突然のことで驚いているだろう」
「……ええ、でも、いいんです。どのお家に行ったところで、わたしの生活は変わらないでしょうから」
痩せ細った兄さまの指がそっと頬に触れる。昔は同じくらいの身長だったのに、いつからか兄さまを見上げるようになってしまった。
「綺麗だよ、千花。……病なんてなければ、とっくにきみをつれて逃げていたのに」
それはきっと、兄さまの本心なのだろう。最後に笑顔を見せておきたくて、無理やり口角を引き上げた。
「そのお言葉だけで、生きていけます。……もし、外出を許してくれるような旦那さまであったら、きっと兄さまに会いに来ます」
「いいや、父が生きている限り、こんな家には二度と近づくんじゃない。……ぼくがきみに会いにいくよ」
儚い約束だった。兄さまの体では、帝都に出かけるのもきっと難しい。わたしが外出することもまたきっと、「旦那さま」は許してくれないだろう。
別れの足音が、すぐそばまで近づいていた。
さようならは、言いたくなかった。兄さまの存在は、数少ないわたしの生きるよすがだ。
「では……また会う日までごきげんよう、藍兄さま」
「ああ。……体を捨ててでも、いつかきみに会いにいくよ」
細い腕がそっとわたしに差し出される。おずおずと一歩近づいて、そっと兄さまの胸に頭を預けた。
薬っぽい香りに混じって、兄さまの匂いがした。外になんてろくに出ていないのに、兄さまからはお日さまの匂いがする。これが最後の抱擁になるかもしれないと思うと、目頭が熱くなった。
ぽたり、と一粒だけ涙がこぼれ落ちる。それは床に落ちる前に真珠に変わり、こんこんと音を立てて床を転がった。
女中が無言でそれを拾おうとしたが、手で制して自分で拾い上げる。女中の咎めるようなまなざしが突き刺さるが、引きたくなかった。
「あなたがお父さまにこれを集めるように言われているのはわかっているわ。でもお願い、今だけ見逃して。……兄さまに、わたしを思い出せるものを持っていていただきたいの」
女中はしばしの間わたしと兄さまを見比べてから、ふい、と視線を逸らした。何も言わないが、見なかったふりをすることにしてくれたらしい。
「ありがとう、心からの感謝を捧げるわ」
礼を述べ、兄さまに向き直る。歪んだかたちをした真珠を、そのままそっと兄さまの乾いた手のひらに握らせた。
「どうかこれをわたしと思っておそばに置いてください」
「千花……」
もういちど兄さまに微笑みかけて、くるりと踵を返す。
これ以上はきっと父が痺れを切らして怒鳴り込んでくるだろう。兄さまとの別れの瞬間を、台なしにされるのはごめんだった。
女中は気遣うようにちらりとわたしを一瞥してから、客間への先導を再開した。彼女のあとに続くようにして、長い廊下を黙々と進む。
客間が近づいてくると、いやに上機嫌な父の声が聞こえてきた。父は体が大きいので、声も他の人よりよく通る。あの声で怒鳴られると、恐ろしくて幼いころのわたしはそれだけで泣きじゃくっていたものだ。
時折間に挟まる相手の声は、青年らしく低く澄んだ声だった。響きにどこか甘さがある。この声になら、怒鳴られてもそれほど怯えずに済みそうだ。
「旦那さま、千花お嬢さまのご用意が整いました」
「おお、来たか来たか! 入りなさい、千花」
こんなにも朗らかな声で名前を呼ばれたのはいつぶりだろう。それこそ、母が生きていたとき以来ではないだろうか。
女中に襖を開けてもらい、客間に入室する。父の隣の空いた席に、そっと腰を下ろした。
「ご紹介いたします、月雲殿。これがわたしの娘の千花です」
父の紹介に合わせて、畳に指をついて深く礼をする。
「お目にかかれて光栄です、月雲さま。浅海千花と申します」
心のこもらない冷めた言葉は、つらつらと口をついて出た。長らく人に会っていなかったから礼儀作法が心配だったが、なんとか乗り越えたようだ。
ゆっくりと顔を上げながら、伺うように相手の様子を探る。父のように体の大きな人だったら殴られるときの衝撃が強いから嫌だと思っていたが、すらりとした手足をしていた。体自体は細身に見えるが、兄さまのように華奢な印象は受けない。質のいい、黒い洋装がよく似合っている。
「
襖越しに聞いた通り、柔らかく甘い声をしていた。だがどこか聞き覚えがあるように思えて、ざわりと心が波打つ。
相手の首のあたりで止めていた視線を、恐る恐る上に上げていく。
その顔を視界に収めた瞬間、確かに息が止まるのがわかった。
「こちらこそ、お目にかかれる日を楽しみにしておりました」
黒猫の毛並みのように艶のある黒髪、この国の人間にしては珍しい薄水色の瞳。
「っ……」
見間違えるほうが難しかった。心臓が、かつてないほど激しく暴れ出している。
……たま?
父に殺されたはずの彼が、どうして。
目の前の美しい青年は、息もできないようなわたしの様子を見て、どこか満足げに微笑んだ。
「これからどうぞよろしくお願いいたします。――千花お嬢さま」
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