第三話:カリスマ、大正を駆ける

久遠寺の屋敷での暮らしにも、少しずつ慣れてきた。朝は鳥のさえずりで目覚め、タエが運んでくれる湯で顔を洗い、湯気を立てる味噌汁をすする。その味噌汁の香りは、どこか懐かしく、令和の朝食とは違う、土の匂いや素朴な温かさがあった。夜は、電灯の代わりに柔らかなガス灯の光の下、古い書物をめくる。本の紙質はざらつき、インクの匂いが微かに鼻腔をくすぐる。スマートフォンも、テレビも、SNSもない世界。情報といえば、久遠寺に出入りする人々や、タエが時折持ってきてくれる新聞から得るのみだ。新聞の活字は大きく、墨の匂いがし、紙面からは当時の社会の息吹が伝わってくる。

久遠寺家は、想像以上に大きな存在だった。タエの話や、屋敷に届けられる書類の山を見ていると、彼らが手掛ける事業の多岐にわたることが分かる。銀行、貿易、それに新しい工業製品…そのどれもが、当時の最先端をいくものばかりだ。この帝都において、久遠寺財閥の名は、確固たる信頼と影響力を持っていた。その威容は、令和を生きる一女子高生には計り知れないほどで、まるで歴史の教科書から抜け出してきたかのようだ。

「(すごいなぁ…本当に、こんなお屋敷に住んでる人たちが、今の日本にもいたんだ…)」

凛は、広大な庭園の池に泳ぐ錦鯉を眺めながら、感嘆のため息をついた。鯉の鱗は陽光を浴びてきらめき、その優雅な泳ぎは、久遠寺家の揺るぎない地位を象徴しているかのようだった。しかし、そんな感嘆も束の間、凛は久遠寺家を覆う、ある変化に気づき始めた。それは、屋敷全体に漂う、張り詰めたような空気だった。庭師たちが無言で庭の手入れをし、女中たちは足音を立てずに忙しなく立ち働く。大人たちの話し声が、以前にも増してひそやかになり、その顔には心配の色が浮かんでいることが多い。特に、暁人の様子が明らかに違う。

以前は、時折診療所を訪れては、どこか探るような、それでいて冷ややかな視線を凛に向けていた暁人だが、最近は姿を見せることさえ稀になった。彼の足音が屋敷に響くこともなく、凛の部屋の近くを通ることもない。たとえ顔を合わせても、その表情は疲労と重圧に歪んでおり、以前のような凛とした余裕は微塵も感じられない。その蒼白な顔には、深い隈が刻まれ、その瞳からは生気が失われているようだった。執務室に籠もりきりで、食事もろくに取っていないと、タエが心配そうに言っていた。夜遅くまで書斎の明かりがついているのを、凛は何度か目撃していた。

「何か…大変なことでも起きているんですか?」

意を決して、凛はタエに尋ねてみた。タエは、普段の朗らかな笑顔を消し、一瞬口ごもった後、寂しそうに微笑んだ。その微笑みは、悲しみを隠すように薄く、凛の胸を締め付けた。

「ええ…実は、財産の一部で、少々難しい問題が起きておりまして…。若旦那様は、その対応に追われていらっしゃるのです」

タエは詳しいことを話そうとしなかったが、断片的に漏れ聞こえてくる大人たちの会話や、暁人の張り詰めた様子から、それが「少々難しい問題」などというレベルではないことを、凛は察した。久遠寺家を支える大黒柱である暁人の顔から笑顔が消え去っていることが、何よりも事態の深刻さを物語っていた。どうやら、久遠寺財閥の事業の一つが、大きな危機に瀕しているらしい。屋敷全体に漂う重苦しい空気は、この危機感を反映しているかのようだった。

漏れ聞こえる会話と、凛のひらめき

ある日の午後、凛が縁側で日向ぼっこをしていると、風に乗って、奥の書斎から暁人と、どこかの会社の重役らしき人物が、険しい顔つきで話し込んでいる声が聞こえてきた。縁側からは、手入れの行き届いた庭園が広がり、季節の花々が咲き誇っている。しかし、その美しい景色とは裏腹に、聞こえてくる会話は非常に重苦しいものだった。

「…今回の新商品、まったく評判が芳しくない上に、競合他社が類似品を安価で出してきおった。このままでは、これまでの投資が全て無駄になるどころか、久遠寺の名にも傷がつきかねん…!」

重役らしき男の声は、焦燥と苛立ちを含んでいた。その声に呼応するように、暁人の声もまた、疲労と責任の重さを感じさせた。

「承知しております。打開策を講じておりますが…」

新商品。評判が悪い。競合。投資。久遠寺の名誉。現代のビジネス用語と少し違うが、言っている内容は理解できた。どうやら、久遠寺が力を入れて開発した新しい工業製品か何かが、市場で失敗し、大きな損失を出し、会社の信用問題にまで発展しているようだ。凛の脳裏には、令和の時代で見た、数々の失敗したプロモーションの事例が瞬時に駆け巡った。

「(新商品…評判悪い…って、それ、マーケティング失敗してんじゃないの…? もったいない…)」

凛の心の中で、インフルエンサーとしての血が騒ぎ出した。インフルエンサーとして、常に最新のトレンドや、どうすれば消費者の心に響くかを考えてきた凛にとって、それは看過できない問題だった。どんなに良い商品でも、その魅力を伝えられなければ意味がない。現代では当たり前の「見せ方」「伝え方」が、この時代ではまだ確立されていないのかもしれない。彼女の頭の中では、すでに具体的なプロモーション戦略のアイデアが芽生え始めていた。

久遠寺家の人々は、凛を温かく保護してくれた。記憶を失った自分に居場所を与えてくれた恩がある。そして何より、暁人が苦悩する姿を見て、彼の力になりたい、と思った。あの、どこか冷ややかだったが、今は見る影もなく憔悴しきった暁人の姿が、凛の心を強く揺さぶった。

「(私に…何かできることって、あるのかな…?)」

自問自答を繰り返すうちに、凛の頭の中で、ある考えが形になり始めた。この時代のメディアは、新聞や雑誌が中心だ。そこに載る広告は、現代から見れば古臭く、商品の魅力が十分に伝わっていないように見える。ただ商品を羅列するだけの広告や、効果効能をひたすら並べ立てるだけの広告。それでは、人々の心には響かない。人々に何かを伝えたい、興味を持たせたい、と思わせる力。それは、まさに自分がインフルエンサーとして磨いてきたスキルではないか?

商品の見せ方。キャッチコピー。写真の撮り方。ターゲット層へのアピール。当時の媒体は違えど、核となる考え方は同じはずだ。凛の心は、久遠寺への恩義と、暁人を助けたいという純粋な気持ちで満たされていった。

「(やってみようかな…)」

しかし、すぐに不安が押し寄せる。記憶喪失の旅人という設定で、偉そうなことを言って、相手にしてもらえるだろうか?それに、この時代の、女性の出る幕ではない、という雰囲気。男性社会の風潮が色濃く、女性がビジネスの場で発言すること自体、異端視されるかもしれない。凛の胸には、期待と不安が入り混じっていた。

それでも、暁人の疲れた顔が脳裏に浮かぶたび、何かせずにはいられなくなった。彼の苦しみを少しでも和らげたい。その一心で、凛は自分の知識と経験を活かすことを決意した。

新商品の正体と、凛の具体的な戦略

タエに、それとなく例の新商品のことを聞いてみた。タエは、少し躊躇しながらも、その化粧品について語ってくれた。どうやら、それは女性向けの新しい化粧品らしい。

「欧米から入ってきた最新の技術を取り入れた、画期的な商品だと久遠寺では自信を持っていたようですが…」

タエの声は、どこか寂しげだった。

「蓋を開けてみれば全く売れず、消費者の間では『得体の知れない舶来物』『肌に悪いのではないか』といった噂まで流れているそうでございます…」

化粧品。女性向け。評判の悪さ。凛の頭の中で、全てのピースがカチリと音を立ててはまった。

「(これだ…!これなら、私のスキルが活かせるかもしれない…!)」

凛の中で、アイデアが泉のように湧き出した。現代のコスメのプロモーションは、ビジュアルが命だ。モデルを使ったイメージ広告、商品の成分や効果を分かりやすく説明する動画、そして、実際に使っている様子を見せるレビュー。この時代に動画はないが、写真や言葉でなら伝えられる!

凛は、自分の興奮を抑えきれず、タエに熱弁をふるい始めた。

「あの…タエさん。久遠寺様の新商品の件で、少し、お話ししたいことがあるのですが…」

勇気を出して、凛はタエに話しかけた。タエは不思議そうに首を傾げたが、凛の真剣な表情を見て、耳を傾けてくれた。凛は、自分が知っている「化粧品を魅力的に見せる方法」を、タエに説明した。

「例えば、新聞広告にただ商品を載せるだけじゃなくて、すごく綺麗な女の人が、その化粧品を使ってキラキラしてる写真とか、一緒に載せるんです!で、『これであなたも、このモデルさんのように美しくなれます』みたいな、夢を見させるような言葉を入れるんです!女性は、憧れとか、美しさへの願望があるから、そういう言葉に惹かれるんです!」

凛は身振り手振りで説明した。タエは、凛の言葉に引き込まれるように、真剣な表情で頷いていた。

「あとは、お店に商品を置くだけじゃなくて、実際に肌につけてもらう場所を作るとか、使い方を丁寧に教えてあげるとか。試供品を配るとか、体験会を開くとか、そういうのってすごく大事なんです!あとは、あの、雑誌とかにも、この化粧品を使うとどんなに素晴らしいかっていう記事を書いてもらうんです!編集部の人に頼んで、第三者の目から見た感想とか、特集記事とか組んでもらうんです!」

タエは、凛の話を聞きながら、目を丸くしていた。彼女の常識では考えられないような、斬新なアイデアの連続に、ただただ驚いているようだった。

「綺麗な女の人の写真…ですか。広告に人を載せる、というのは、確かに斬新な発想ですが…それに、雑誌に記事を書いてもらう…そのようなことは、あまり前例が…」

やはり、すぐに理解はしてもらえない。タエは、凛のアイデアを「面白い」とは言ってくれたものの、実行に移せるかは全く別の問題だという顔をしていた。その表情には、慣れないものへの戸惑いが明確に見て取れた。

「でも!きっと効果はあると思うんです!人は、綺麗なものとか、憧れるものに惹かれるから…この化粧品を使ったら、自分もこんなに美しくなれるって思わせることができれば、絶対に売れます!」

凛は必死で食い下がった。自分がこの時代で唯一、役に立てそうなこと。それは、インフルエンサーとして培った、人々の心を掴む力だ。このチャンスを逃すわけにはいかない。

暁人への直談判と、一筋の光

その日の夕食後、珍しく暁人が凛の部屋を訪れた。タエから話を聞いたのだろう。彼の顔には、疲労に加えて、明らかな困惑の色が浮かんでいた。その視線は、凛の顔をじっと見つめ、何かを測るような探るような光を宿していた。

「タエから聞いた。君が、あの化粧品の件で、何か考えがあるそうだな」

暁人の声は、低く、そして少しだけ苛立ちを含んでいるように聞こえた。凛は、ゴクリと唾を飲み込んだ。本番だ。

「はい…あの、図々しいとは思うのですが…少しだけ、お話しさせていただいてもよろしいでしょうか」

凛の言葉には、自然と畏まりがにじみ出た。暁人は、静かに頷いた。彼の視線は依然として凛を捉え、その瞳の奥には、疲労と、そしてわずかながらも好奇心のようなものが宿っているように見えた。凛は、震える声で、タエに話したのと同じことを、今度は暁人に向かって語り始めた。現代のマーケティング、プロモーションの考え方。ターゲット層へのアピール方法。視覚的な効果の重要性。言葉を選びながら、しかし熱意を込めて、自分が持てる知識の全てを伝えようとした。

暁人は、凛の話をただ黙って聞いていた。その表情からは、賛同とも否定とも取れない。ただ、その黒曜石のような瞳が、真っ直ぐに凛を捉えているのを感じた。その視線は鋭く、まるで凛の心の奥底を見透かそうとしているかのようだった。凛は、全身で彼の反応を伺っていた。

「…人を、広告に使う…雑誌に記事を…?そのような発想は、これまでなかったな」

暁人は、静かに呟いた。その声には、わずかに思案の色が混じっている。彼の知る、これまでの常識とはかけ離れたアイデアに、驚きと、しかしわずかな興味を抱いているようだった。

「はい…あの、私の失った記憶の中に、そういうやり方が、あったような気がして…」

苦し紛れに「記憶喪失」の設定を使う。これが、この時代で自分のアイデアを押し通す唯一の方法だと、凛は思っていた。暁人の眉が、わずかにピクリと動いたのが見えた。彼は、凛の「記憶喪失」を疑っている。その疑念は、彼の瞳の奥に明確に見て取れた。しかし、同時に、彼女のアイデアの「何か」に、引っかかるものを感じているようだった。彼の表情は、複雑な感情で揺れ動いているかのようだった。

重い沈黙が流れる。凛は、生きた心地がしなかった。心臓の音が、自分の耳にも聞こえるほどに大きく脈打っていた。ここで一蹴されたら、もう何もできないかもしれない。この久遠寺での平穏な日々が、ただの寄生で終わってしまうかもしれない。そんな不安が、凛の胸を締め付けた。

やがて、暁人はゆっくりと口を開いた。その声は、重く、しかし決意を秘めているかのようだった。

「…君の言うことは、あまりに奇抜だ。これまで、我が久遠寺がとってきた手法とは全く異なる」

凛の胸に、落胆の色が広がる。やはり、だめか。自分のアイデアは、この時代では受け入れられないのか。そう思った瞬間、暁人の次の言葉が、凛の心を打ち抜いた。

「…しかし、現状を打破するためには、常識に囚われない考え方も必要かもしれん。…試してみる価値はあるか」

顔を上げると、暁人が真剣な眼差しで凛を見つめていた。その瞳には、疲労の色は残っているものの、微かな希望の光が宿っているようだった。彼は、凛の突飛なアイデアの中に、現状を打開する可能性を見出そうとしていた。

「本当ですか…!」

思わず、現代の口調が出てしまう。タエに窘められたばかりなのに。慌てて口元を押さえる凛を見て、暁人はわずかに目を細めた。その目元には、微かな笑みが浮かんでいるようにも見えた。彼の表情に、一瞬だけ以前のような余裕が戻ったかのようだった。

「ただし、だ。大きなことはできん。まずは、ごく一部で、君のアイデアを試してみる。成果が出なければ、そこで終わりだ」

厳しい条件だが、凛にとっては願ってもない機会だった。小さな一歩でも、踏み出せるのなら。

「ありがとうございます!精一杯、やらせていただきます!」

凛の顔には、喜びと決意が入り混じった笑顔が浮かんでいた。

大正浪漫を舞台に、インフルエンサーの挑戦が始まる

その日から、凛の新しい挑戦が始まった。久遠寺の危機を救うため、そして、この時代で自分の居場所を見つけるために。彼女は、インフルエンサーとして培った全てのスキルを、大正浪漫溢れる帝都で解放し始めたのだ。

まずは、新聞広告の図案を考えた。ただ商品を並べるのではなく、女性モデルを使ったイメージ広告。美しく着飾った女性が、まるで鏡に映る自分にうっとりしているような、そんな構図を思い描いた。そして、キャッチコピー。現代の簡潔で心に響く言葉遣いを参考に、「この美しさを、あなたにも」といった、夢と憧れを抱かせるような言葉を考案した。

次に、化粧品のボトルやパッケージデザインに意見を出した。これまでの素朴なデザインではなく、西洋の化粧品のような、洗練された、まるで宝石のようなデザインを提案した。女性が思わず手に取りたくなるような、所有すること自体に喜びを感じるような、そんなデザインだ。

そして――自らが、その化粧品の「顔」となることも提案した。

「私が、この化粧品を実際に使っているところを写真に撮って、広告に載せるのはどうでしょうか?記憶喪失の私が、この化粧品を使って、少しずつ元気になっていく…そんなストーリーも一緒に伝えられたら、きっと人々の心に響くと思うんです!」

凛の提案に、暁人は驚きの表情を隠せなかった。しかし、その瞳の奥には、確かに納得の色が浮かんでいた。

「SNSはないけど…大正時代のメディアを使って、バズらせてみせる…!」

凛の心は、熱い情熱に燃えていた。現代のカリスマインフルエンサーが、100年前の帝都を舞台に、知られざるマーケティング戦略を展開し始めた瞬間だった。それは、この時代の人々にとっては、あまりに奇抜で、あまりに鮮烈な光景として映るだろう。彼女の挑戦は、果たして久遠寺の危機を救い、そして、この大正浪漫の時代に、新たな風を巻き起こすことができるのだろうか。


(第四話に続く)

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