第二話:異邦人、帝都に惑う
鈍い痛みを額に感じながら、橘凛はゆっくりと意識を浮上させた。瞼を開くのが億劫で、そのまま微睡みに身を任せたい衝動に駆られる。しかし、昨夜の出来事が鮮烈に脳裏に蘇り、無理やり現実へと引き戻された。雷、衝撃、そしてあの青年――暁人から告げられた信じがたい言葉。「大正十年」。それは、紛れもない現実として、重くのしかかっていた。脳の奥で警鐘が鳴り響く。
身体を起こすと、やはり昨日と同じ、肌触りの良い木綿の寝間着のようなものをまとっている。部屋も変わらず、四畳半の質素な和室だ。障子越しに差し込む陽の光が、もう朝であると告げている。淡い光は、格子戸の影を畳の上に優しく落とし、部屋全体を静かで穏やかな空気で満たしていた。障子紙を通した光は、都会の無機質な照明とは全く違う、温かく柔らかな輝きを放っている。それは、まるで時間の流れそのものが、ゆったりと、慈しむように過ぎていくことを示しているかのようだった。
夢ではなかった。全身に広がる疲労感、額に残る鈍痛、そして何よりも、五感を刺激する全ての情報が、この現実を揺るぎないものとして突きつけてくる。
「…大正…十年…」
掠れた声で、改めてその年号を口にしてみる。西暦1921年。令和の日本から、100年以上も過去へタイムスリップしてしまった。まるで、人気漫画の設定のような、荒唐無稽な事態。しかし、鼻をくすぐる、薬草のような独特の匂い。畳と古い木材の、どこか懐かしいような香りが混じり合う。窓の外からは、車のけたたましいクラクションやエンジン音とは違う、人力車のものらしき微かな車輪のきしむ音や、時折聞こえる下駄の音。そして、何より、隣室から聞こえてくる、静かで丁寧な話し声。自分が知る現代の喧騒とは全く違う、「音」の風景がそこにあった。遠くで売り子の「甘いよ、甘いよ、飴玉はいかが!」という、かすれた声が聞こえるような気もした。全てが、凛の知る世界から切り離された、異質な現実だった。
(どうしよう…本当に、戻れないの…? マジで? これは、夢じゃないんだ…)
パニックになりそうな心を、深呼吸でどうにか落ち着かせる。インフルエンサーとして、常に予測不能な状況に遭遇し、どんな時でも冷静に対応する訓練はできている…はず。大丈夫、私ならできる。まずは、状況を整理しないと。思考の糸を必死に手繰り寄せる。
「おや、お目覚めですか」
控えめな声と共に障子が開いたのは、昨夜、凛を介抱してくれたタエだった。白い割烹着に袴姿は変わらず、きりりと結われた髪が彼女の生真面目さを物語る。凛に向ける眼差しは、まるで病み上がりの子供を見守るような温かさに満ちている。その優しい眼差しは、凛の張り詰めた神経を少しだけ緩ませた。
「はい…あの、昨日は、ありがとうございました」
凛は、精一杯丁寧に言葉を選んだ。現代のフランクな話し方が染み付いているが、この時代では失礼にあたる可能性がある。相手に不快感を与えないよう、細心の注意を払う。タエは、そんな凛のぎこちない様子に気づいたのか、ふふ、と優しく微笑んだ。その微笑みは、凛の張り詰めた心を少しだけ緩ませる。
「いいえ、大変でございましたね。ご気分はいかがですか? 熱ももうないようで安心いたしました」
「おかげさまで、頭の痛みも和らぎました。あの…本当に、私は道端で倒れていたんでしょうか?」
尋ねると、タエはこくりと頷いた。その動きは、一点の曇りもなく、真実を語っているようだった。
「ええ。昨夜の雷雨の中、久遠寺の若旦那様が、道端で行き倒れていらしたお嬢様をお見つけになり、診療所へお運びくださったのです。本当に、九死に一生を得られました。あのまま雨の中にいらっしゃれば、命も危なかったでしょう」
「そう、ですか…」
やはり、あの雷が原因なのだろう。だが、なぜタイムスリップなんていう現象が起きたのか、全く見当もつかない。そして、元の世界に戻る方法も。頭の中には無数の疑問符が浮かび上がるが、今はそれを口にする時ではないと本能的に察した。現代の常識が、この世界では通用しない。下手に話せば、それこそ精神を病んだと判断されかねない。
「あの、一つだけ…お伺いしてもよろしいでしょうか」
凛は意を決して、最も重要な、そしてこの世界の人々にとって最も不自然な疑問を口にすることにした。それは、自分がこの世界で生き抜くための、最初で最大の布石になるはずだった。
「私…自分の名前以外の、何も思い出せないんです…どこから来て、何をしていたのか…本当に、何も…」
記憶喪失。現代なら大げさに聞こえるかもしれないが、この時代ならあり得るかもしれない、最もらしい言い訳だ。もちろん、嘘だ。だが、令和の日本から来た、などと言えば、それこそ狂人扱いされるだろう。現代の知識をひけらかせば、それもまた不自然だ。リスクを最小限に抑え、最も無難な選択をする。
タエは、凛の言葉を聞くと、一瞬驚いたような表情をしたが、すぐに憐れみを帯びた眼差しに変わった。その表情は、凛の演技を完全に信じていることを示していた。目の前の少女が背負うであろう苦難に、心から同情しているかのようだった。
「まあ…それは、大変なこと…。昨夜、お倒れになった衝撃で、お忘れになってしまったのでしょうか…」
「たぶん…そうかと…」
俯きながら、凛は芝居がかった声で答える。タエは優しく凛の肩を撫でた。その手つきは、本当に病人を気遣うそれだった。その温かさが、凛の凍てついた心を少しだけ溶かしていく。
「無理もないことです。どうぞ、今は何もお考えにならず、ゆっくりお休みください。久遠寺家で、責任を持ってお世話させていただきますから」
その言葉に、凛はホッと胸を撫で下ろす。当面の安全は確保されたようだ。久遠寺という、いかにも裕福そうな家で保護されるのであれば、飢え死にすることも、野垂れ死にすることもなさそうだ。しかし、同時に、全く身寄りのない異邦人として、この未知の世界で生きていかなければならないという現実を突きつけられた。その重みが、ずしりと心にのしかかる。未来が見えないことへの、漠然とした不安が募る。
大正時代順応生活
その日から、凛の「大正時代順応生活」が始まった。
久遠寺家は、麹町という土地柄にふさわしい、広大で立派な屋敷だった。黒々とした瓦屋根が連なり、手入れの行き届いた庭には松の木が堂々とそびえ立つ。白壁と木の温もりが調和した建物は、どこか歴史の重みを感じさせた。庭の池には錦鯉が優雅に泳ぎ、風に揺れる竹林がさわやかな音を立てる。都会の喧騒から隔絶された、静謐な空間がそこにはあった。
診療所はその敷地の一角にある、別棟のような造りだった。凛が通されたのは、奥まった客間だったが、それでも凛にとっては全てが新鮮で、驚きの連続だった。現代の合理性と機能性を追求した建築物とは異なり、久遠寺の屋敷は、一つ一つの素材にこだわり、細部にまで職人の技が光る、まさに芸術品だった。
まず、言葉遣い。タエは丁寧だが、日常会話の端々に現代では聞かない古風な言い回しが出てくる。「〜でございます」「〜なされませ」といった表現が当たり前に使われる。他の使用人らしき人々との会話も、現代の日本語とは微妙に違う抑揚や語彙がある。テレビもラジオもないため、彼女たちの会話が、この時代の情報源となる。耳を澄ませると、世間の出来事や、久遠寺家の内情が少しずつ聞こえてくる。それは、まるで断片的なパズルのピースを集めるような作業だった。
食事も全く違う。朝食は、白米に味噌汁、焼き魚、漬物といった日本の伝統的なもの。炊き立てのご飯からは湯気が立ち上り、味噌汁の香りが食欲をそそる。全てが土鍋で炊かれたかのように、ふっくらとして温かい。昼食や夕食には、煮物や和え物といった素朴ながら丁寧に作られた料理が並ぶ。出汁の優しい香りが広がり、旬の野菜が彩りを添える。時折、タエが「西洋料理でございますよ」と言って、カツレツやコロッケのようなものが食卓に出ることもあった。それは、凛が知るそれとは少し違う、この時代なりの「洋食」だった。もちろん、コンビニもファミレスも、デザートにスタバのフラペチーノもない。食事の時間は、家族や使用人たちが集まり、静かに食卓を囲むのが常だった。食事は、ただ栄養を摂るだけでなく、コミュニケーションの場でもあった。
入浴も、現代のバスルームとは全く違う。五右衛門風呂ではないにせよ、一つ一つお湯を張って入る方式で、シャワーはない。湯殿は広々としており、檜の香りが漂う。湯船に浸かる時間は、凛にとって一日の疲れを癒す貴重なひとときだった。湯に浸かると、身体の芯から温まり、張り詰めていた心が緩むのを感じた。トイレも、水洗はあるようだが、和式が主流のようだ。全てが、凛の当たり前を覆していく。
何よりも凛を戸惑わせたのは、女性の立ち居振る舞いに対する無言の圧力だった。久遠寺家の女性たち(女将さんらしき人と、その娘だろうか)は、皆しっとりと落ち着いており、言葉遣いも物腰も優雅だ。まるで絵巻物から抜け出てきたような美しさがあった。着物の裾さばき、座る姿勢、お茶を淹れる手つき…全てが絵になる。凛のように、つい大きな声を出したり、無意識に現代的な仕草をしたりすると、タエがさりげなく窘める。
「お嬢様、女性はもっと慎ましく…」
「人前で、あまり大きな声で笑うものではございませんよ」
インフルエンサーとして、常に自分をアピールし、注目を集めることに慣れていた凛にとって、この「慎ましさ」や「奥ゆかしさ」を求められる環境は息苦しかった。自分の考えをはっきり述べたり、感情をストレートに表現したりすることが、まるで「はしたない」ことのように扱われる。女性が一人で自由に街を歩くことも、あまり一般的ではないようだ。行動が、著しく制限されているように感じられた。
(やばい、これ、普通の女子高生だったらメンタルやられてるって…! 私、インフルエンサーで良かった…?いや、全然良くないけど!むしろ、自由を知ってる分、余計に辛いかも…このままじゃ、マジで「記憶喪失」じゃなくて「精神崩壊」しちゃうって…!)
内心では悲鳴を上げながらも、凛は持ち前の適応力と、「記憶喪失」という設定を盾に、必死でこの時代の生活様式を学んでいった。タエは根気強く、この世界の常識や久遠寺家の慣習を教えてくれる。着物の着方、畳の上の歩き方、襖の開け閉めの仕方…全てが初めての経験だったが、凛は驚くほど早くそれを吸収していった。それは、まるで新しい役を演じているかのようだった。
タエの温かさは、異世界に放り出された凛にとって、唯一の救いだった。彼女は凛の無邪気さや、時折漏れ出る現代的な感性(例えば、食べ物の味付けに「もうちょっとパンチが欲しい」と言ってタエを困惑させたり、着物の柄合わせに現代のトレンドを持ち込もうとしたり)に驚きつつも、それを否定せず、むしろ面白がるように見守ってくれる。タエを見ていると、亡くなった祖母を思い出し、凛は少しずつタエに心を開いていった。彼女との会話は、凛がこの世界で唯一安らぎを感じられる時間だった。タエの存在は、まるで砂漠のオアシスのようだった。
暁人の影
一方、暁人は相変わらず、黒曜石のような目で凛を観察していた。彼の視線は鋭く、凛の「記憶喪失」を完全には信じていないのがありありとわかる。彼と顔を合わせるたびに、凛は内心ヒヤヒヤさせられた。彼の前では、些細な仕草も、言葉の選び方も、全てが試されているような錯覚に陥る。まるで、ガラス張りの部屋に閉じ込められているかのようだった。
「橘殿は、記憶を失くされたとのことだが…時折見せる、その…何と言うか、物怖じしない態度は、尋常ではないな」
ある日、暁人はタエにそう漏らしていた。凛は部屋の隅で、聞こえないふりをして耳を澄ませる。障子一枚隔てただけの空間で、二人の声がはっきりと聞こえた。
「そうでございますか? 私には、ただ無邪気な、可哀想なお嬢様にしか見えませんが…」
タエの温かい言葉に、凛は内心で感謝する。しかし、暁人の次の言葉で、背筋が凍った。
「無邪気…か。しかし、あの年の娘にしては、妙に腹が据わっているようにも見える。それに…あの時の、あの言葉…」
暁人は、凛が目覚めた時に発した、「東京なんですか? 何年、何月ですか?」という問いを思い出しているのだろう。あの質問は、確かに記憶喪失の人間が最初に発するものとしては不自然だった。普通なら、自分の名前や家族のことを尋ねるはずだ。
(やばい、この人、勘が鋭すぎる…! いつかボロが出ちゃう…!)
凛は背中に冷たい汗を感じた。暁人は、ただのボンボンではない。久遠寺という巨大な財閥を背負う者の、鋭い観察眼と警戒心を持っている。彼の瞳は、まるで全てを見通すかのように、凛の嘘を見破ろうとしている。それは、まるで捕食者が獲物を観察するような、そんな冷酷さも感じさせた。
だが、彼と接するうちに、凛は彼の冷たい態度の裏に隠されたものにも気づき始めた。彼は常に忙しそうで、書斎には深夜まで明かりが灯っている。疲労の色を滲ませている時もある。タエの話によれば、久遠寺財閥は様々な事業を手がけており、暁人は若くしてその中心に立たされているらしい。その重圧は、想像に難くない。彼の涼やかな瞳の奥に、時折見せる憂いや疲弊の色は、凛の心をざわつかせた。それは、まるで自分と同じ、見えない重圧と戦っている人間の影を見ているかのようだった。現代のイケメンたちとは全く違う、彼から漂う知性と品格、そして孤独な影に、凛は少しずつ惹かれ始めていた。それは、理屈ではない、本能的な感情だった。彼の存在は、凛の心に、この異世界での小さな光を灯し始めていた。
絶望と希望
しかし、どんなにこの時代の生活に慣れようと、どんなに久遠寺の人々が優しくしてくれても、凛の心は常に元の世界への激しい郷愁に苛まれていた。夜になると、家族の顔、友達の声、賑やかな渋谷の街並み、そしてSNSのタイムラインが鮮明に脳裏に浮かび、枕を濡らした。自分がこれまで築き上げてきたキャリア、フォロワーとの繋がり、全てが幻だったかのように消えてしまった。この世界に馴染めば馴染むほど、元の世界との乖離が深まっていく。それは、深い悲しみを伴うものだった。
(スマホ…! スマホさえあれば…!もしかしたら、充電すれば、電波が…!)
スマートフォンがあれば、電波さえあれば、もしかしたら…という淡い期待を捨てきれない。タエが「硝子の板のようなもの」と言っていた自分のスマホは、どうなったのだろうか。久遠寺の誰かが、あの未知の物体を怪しみ、どこかに保管しているのだろうか。凛は、その行方が気になって仕方がなかった。
凛は、久遠寺家の中を密かに探索しようと試みた。広大な屋敷は、凛にとってまるで巨大な宝の地図のようだった。もしスマホが見つかれば、それを充電する方法を探し、電波を探す。もしかしたら、元の時代に戻る手がかりが見つかるかもしれない。雷に打たれた場所が、この時代でも特別な場所であれば…当時の落雷に関する噂話でもいい。何か、何か手がかりが欲しかった。藁にもすがる思いだった。
しかし、広大な久遠寺の屋敷は、迷路のようだった。廊下は複雑に絡み合い、部屋の数は数えきれないほどだ。使用人たちの目を盗んで動き回るのも至難の業だ。そして、一番の問題は、この時代には「電波」という概念すらないということ。人々は、遠く離れた場所とどのように連絡を取るのだろうか。手紙?電報?凛の知る通信手段は、ここでは全く通用しない。
(無理だ…どうすればいいの…どうしたら元の世界に戻れるの…?)
元の世界に戻る方法が全く見つからず、時だけが無情に過ぎていく現実に、凛は打ちひしがれた。この時代の生活にも少しずつ慣れ、久遠寺の人々との間に人間関係も築きつつある。だが、それは同時に、自分が元の世界からどんどん切り離されていくことを意味していた。まるで、深い沼にゆっくりと沈んでいくような感覚だった。
現代への激しい郷愁と、この時代で芽生えつつある暁人への淡い感情。そして、異邦人としてこの世界で生きていくことの不安と孤独。凛の心は、二つの時代の間で激しく揺れ動いていた。彼女の心は、まるで荒れる海に浮かぶ小舟のように、不安定だった。
そんな中、凛は偶然、久遠寺家を覆う暗い影に気づくことになる。それは、この巨大な財閥が抱える、事業の危機を示すものだった。彼女の知らぬ間に、久遠寺という巨大な船は、嵐の中を航海していたのだ。
(第三話に続く)
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