第1話
ふり返れば、その一夜は、静かな闇にひそやかな熱を孕んでいた。
昭和十七年、六月の雨上がり。古びた町並みに、薄紅色の朝焼けが密やかに差し込む。
透はまだ、本当に自分が夢を見ているのか、それとも誰かの記憶の中に紛れ込んだだけなのか、はっきりとはわからなかった。
だが、打ち鳴らされる鐘の音や、空に浮かんだ薄い煙は、すべてが現実であることを証明してくれているようだった。
――そして、その日もまた、始まろうとしていた。
「透、おはよう。今日は早いね」
母の声が台所から響く。その響きはどこかくすぐったくて、ほんのりあたたかい。
あたりを漂うのは、麦焦がしの香り。
「おはよう……ございます」
覚束ない返事にも、母は微笑む。
周囲の家々では、ラジオ体操の軍歌が流れ始め、子供たちの走る足音が土を柔らかく叩いていた。
(これが、僕の日常になるんだろうか――)
その思いは、やがて高鳴る心臓の拍に溶けていく。
――朝食を終え、透は町の通学路を歩き出した。
道端では、近所の「正一」や、「千代子」たちが、楽しそうにじゃれあっている。
だが、どこか緊張走る言葉の端々や、時折風に運ばれる警笛の音が“非日常の影”を否応なしに意識させるのだった。
「透、あんた、昨日は変じゃなかったか?」
千代子が眉をひそめて訊ねる。
思わず胸がきゅっと締め付けられる。
「え? う、ううん、別に……」
「ほんと? なんか、夢でも見たみたいな顔してたよ」
千代子の不安げな視線をかわしながら、透は自分が“ここ”の人間になっていく感覚を恐ろしいほど鮮明に感じていた。
そのときだ――
通学路の向こうから、ひとりの配達人が駆けてきた。
「配達でーす! 今村透様、こちらにお届け物!」
薄い紙封筒と、小さな薄紅色のカード。
宛名は紛れもなく『今村透』と記されていた。
「え……僕に?」
配達人は透と千代子に満足げな笑みを見せ、去って行く。
不思議さに胸がざわつく。
薄紅色の封筒は、ほんのりと桜の香りがした。
授業中も、封筒の存在が気になってたまらない。
国語の教師が宮沢賢治の詩を朗読する声さえも、どこか遠く、薄紅館の影をまとったように感じられる。
(この招待状はなんなんだ。僕のことを知ってる人間なんて――)
放課後、透は小さな空き地の椅子に腰掛けて、封をそっと切った。
「――拝啓 今村透様
今宵、日暮れとともに館にて小さな集いを催します。
あなたの訪れを、心よりお待ち申し上げております。
薄紅館 女主人 紫乃より
追伸 どうか薄紅色のカードを携えてお越しください」
手紙は達筆で優雅な筆致。
その文字の端々から、不思議な温度が伝わってくる。
(やっぱり、あの館だ……!)
心臓が跳ねる。
未知の蠢動、期待と不安が高ぶり、透の胸を強く打った。
夕暮れが町を茜に染める。
戦時の町は、いつものように夜間外出の制限が始まる気配だった。
「なあ、透。今日は一緒に帰らない?」
正一が声をかけてくるも、透は曖昧に微笑んで返す。
「あ、ごめん。ちょっと……用事があって」
自分の背中を押すものは何なのか、自分でも分からなかった。
ただ、あの館の扉を叩かなくてはならない、という思いだけが消えなかった。
町の端、薄紅館の前へ――
日は傾き、館の蔦が夕陽に朱く染まる。
ふたたび、その屋敷の異様な存在感に胸がざわめく。
(本当に、招待されたんだ)
封筒とカードを握りしめ、透は重い門扉を静かに開けた。
館の玄関先、扉の陰には、すでに誰かが立っていた。
「お待ちしておりました――透様ですね?」
現れたのは、艶やかな和服を纏い、淡い薄紅色の口紅を引いた女性だった。
黒髪は夜のように光り、瞳はどこかすべてを見透かすような奥行きを湛えている。
「……あなたが、紫乃さん?」
女性は微笑み、深々とお辞儀をする。
「はい。ようこそ、薄紅館へ。 今宵は、特別な夜になりますわ」
その声は、どこか深淵から響いてくるようだった。
(“特別な夜”って……何が始まるんだろう)
まるで、現実と夢の境界をまたぐような心地。 透の胸は高鳴りっぱなしだった。
玄関の中に入ると、そこは全く別世界だった。
カランコロン、と廊下に響く下駄の音。
ほんのわずかに甘く、古びた洋酒のような香り。
何百年も前からここにいるかのような油彩画や、けたたましく鳴る柱時計――レトロな調度品が闇の中できらきらと輪郭を帯びている。
「さあ、奥のサロンへ。みなさま、そろそろお集まりですよ」
長い廊下を進みながら、透の目に無数のドアや、奇妙な彫刻、まるで心を吸い込むような鏡が次々と現れては消えていく。
“この館自体が生きている――”
そんな錯覚に囚われる。
サロンでは、もう四、五人の男女が待っていた。
大正風ドレスの少女。軍服の青年。やや陰のある老紳士。全員がどこかこの時代の「異端者」のような雰囲気を纏っている。
「こちら、今村透様。新しいお客様ですわ」
紫乃が紹介すると、サロンの空気がふっと緩んだ。
「初めまして。私は詩子――詩を書くのが好き」
ドレスの少女が微笑み、繊細な指先でレースの布を触る。
「僕は川瀬。えっと……まあ、その、ここには色々あって」
軍服の青年は目をそらしつつ、人懐っこい笑みを見せる。
老紳士は透をじっと見据え、意味深長な微笑みを唇の端に浮かべるだけだった。
(この館には、“普通じゃない人”が集められているのか……?)
言い知れぬ期待感と不安が渦巻く。
“謎の集い”が始まった。
薄紅色のベルベットカーテンが閉じ、明かりが淡く揺れる。
紫乃は静かに口を開いた。
「本日、この館には新たな客人がまいりました。すべての命には、過去と未来が宿ります。今宵、皆さまには“物語”の一端を分かち合っていただきます」
やわらかい音色とともに、サロンの奥から古いオルゴールが鳴り出す。
まるで招かれざる霊魂が、その音楽に集まりつつあるように――。
「さあ……今夜はどなたから始めましょう?」
詩子がそっと手を挙げ、机の上に小さな詩集をそっと置いた。
「私は、かつて戦争で失った弟の詩を……」
詩子が語り始めるや、サロンの空気が一変した。薄紅館の壁が“別の時代”を映し出すように、舞い散る桜の幻影がうっすらと浮かびあがる。
詩――それは戦火で失われた記憶と、希望のきらめき。
透はその声を、身じろぎもできず聴いていた。
足下の絨毯、窓ガラスに映る自分の顔。その輪郭さえ、少しずつ歪んでいく気がした。
次に語り手となった川瀬は、自分がこの館に招かれた経緯をぽつりぽつり語った。
「僕は、戦地から戻ってきて……全部が変わってしまった。なにもかもが、遠く感じる……でも、ここだけは、まだ“何か”が残ってる気がして……」
苦しげな表情の奥に、消えない怒りと哀しみ。仲間の死、自分への負い目、未来への恐れ――すべてを呑み込むような薄紅館。
透はふいに、自分が令和から来たことが恥ずかしいような、不思議な感覚に襲われる。
(僕だけが異質だ、と思っていたのに……この人たちも、それぞれ「失った時間」に囚われているんだ)
その後も次々と、館の住人たちが「過去」や「秘密」を分かち合っていく。
老紳士は、かつて美術商だった自分の話を語り――
「芸術は死なぬ。だが、時代も人も変わる。この館は、それを静かに見つめ続けてきたのですよ」
彼の言葉に微かな憧れと寂しさが滲み出る。
サロンの空気が曲がり、見えない誰かが部屋を覗く気配さえする。
気づけば夜も更け、サロンの窓より町を見下ろせば、戦時下の闇の中に、薄紅色の灯がぽつぽつと灯っていた。
紫乃がやさしく微笑み、透の肩にそっと手を置く。
「今村様、あなたにも“この館に招かれた理由”がございます。どうか、あなたご自身がまだ気づいていない“記憶”に、耳を澄ませてください」
その優しさの裏に、どこか底知れぬ不気味さが隠れている気がして、透は身をすくめた。
「……僕は、なぜここに?」
紫乃は答えず、ただ静かにサロンの奥を指差した。
そこには、金色のランプに照らされた一枚の大きな鏡――その鏡に映る自分の顔が、なぜか“泣いて”いるように見えた。
夜が深まる。宴も終わり、住人たちはそれぞれの部屋へと消えていく。
透は最後に、紫乃に呼び止められた。
「今村様。あなたにだけ、お見せしたいものがございます」
紫乃は地下への階段を開き、透を静かに誘う。
「館の本当の“秘密”に、今宵、ほんの少しだけ触れていただきます」
階段の奥からは、かすかに水のせせらぎと、甘い香が流れてくる。
透は胸を高鳴らせながら、薄紅色の館の闇へと、一歩を踏み出した――
それは、令和の常識も、昭和の日常も、すべてを呑みこむ“不思議の夜”の始まりだった。
いま、館のなかで静かに目を覚ます、数えきれぬほどの“記憶”と“秘密”と“奇跡”。
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