薄紅館と昭和レトロ

幽玄書庫

プロローグ

 ――ゴォン……ゴォン……。


 遠くの空で、重苦しい鐘の音が響いていた。


 耳をつんざくような空襲警報のサイレン。その音に胸をえぐられるような緊張感を覚えた瞬間、目の前の景色が暗闇に沈んだ。


 ……次に目を開けたとき、僕の世界は一変していた。



「と、透! 起きてるのかい!」


 誰かの声で目を覚ます。


 薄暗い天井。煤けた木組み。戸板の隙間から差し込む光は、白い埃と一緒に部屋をぼんやり照らしている。


 ――ここ、どこだ?


 寝起きの頭が混乱している。けれど、目の前に現れたのは、見知らぬ中年女性だった。割烹着を着た、どこか昭和の映画で見たような――。


「はやく起きなさい!お父さんがもうすぐ戻ってくるよ!」


 その口調は、怒りというよりも焦燥の色が濃い。僕――今村透は身体を起こし、状況を確かめようとした。


 痛む頭を押さえながら、まず布団の上にある自分の手を見つめる。


 ――これは確かに、“僕の”手だ。でも、どこか違和感があるのはなぜだろう?


 慣れない雰囲気。重たい空気。こちらを見つめる女性の真剣な眼差し。


「透?」


 促されて立ち上がると、やたらと身体が軽い。鏡台に映ったのは、灰色の学生服を着た17歳の少年――昭和風に整髪された、他人のような自分の姿。


 僕は確信した。


(ここは、僕の“知っている日本”じゃない……)



 家の外に出ると、さらに違和感は増していく。


 細い路地に並ぶ木造の家々。砂利道には昨夜の雨の名残りが小さな水たまりとなって点在していた。空気はどこか重く、遠くで爆撃機らしきエンジン音が鳴っている。


(夢か? それとも、何かの冗談……?)


 自分の持っていたはずのスマートフォンはどこにもない。代わりに、学生カバンには古びた教科書、鉛筆、そして見覚えのない小さなお守りが入っていた。


「透君、郵便局に行ってきてくれる? 配給券を……」


 隣に暮らすらしい少年が声をかけてくる。彼の名前は、どうやら「正一」らしい。頭のどこかに、その名前が自然に浮かんだのは不思議だ。


 僕は渋々ながらも、言われるままに家を出た。



 町の空気は重い。


 幼い子どもたちが竹槍の訓練ごっこをし、忙しなく荷物を運ぶ大人たちの顔には、どこかみな同じような疲弊の色が滲んでいる。時折、姿勢の良い青年たちが「召集令状」を携えて歩く姿が目を引いた。


 町の奥へ歩くほど、見たこともない光景が増えていく。


 焼け焦げた塀、歪んだ道路標識、瓦礫の山――。


(これが、“戦時中の日本”……? 本当に僕は、昭和に来ちまったのか?)


 焦燥と戸惑いで胸がざわつく。だが、回りの人々は僕の異変など気にもとめない。



 郵便局は、どこか洋風な装いの古い建物だった。


 掲示板に貼られたのは『本日の空襲注意報』『品物の配給日程』『行方不明者』……異様に現実味を持って目に焼き付く。


 順番待ちの列では、みな静かに自分の番を待っている。

 その空気に圧倒され、つい立ち尽くす。


 配給係の女性が「はい、次の方」と呼びかける。


 僕は震える手で配給券を差し出す。しかし、受付の女性は少し目を細めて、


「今村さん……ちょっと、痩せたんじゃない?」


 と心配そうに声をかけてくる。


「あ、はい……」


 自分が“今村透”として、この町で普通に生活していたことを、皮肉にも受付の女性の言葉で知る。


(もしかして、僕は……本当に“こっち”の人生を生きてたのか?)



 配給を受け取り、ふらふらと町を歩く。


 道沿いの壁には、「隣組 絆をたやさず」「火の用心」など、時代がかった標語ポスターがいくつも貼られていた。


 僕は、路地裏に佇むひときわ古めかしい洋館に目を留めた。


 蔦が這う壁、ひび割れたガラス窓。玄関の扉には、誰かが指でなぞったような「薄紅館」という文字が浮かんでいる。


 不思議と心をひかれた。


(何かが……僕を、呼んでる?)


 そのときだった。後ろから小さな声が響いた。


「兄ちゃん、お腹すいた……」


 振り返ると、竹刈り帽子の小さな女の子が立っていた。薄汚れた服の袖をぎゅっと握っている。


 「……これ、やるよ」


 僕は受け取ったばかりの配給パンを半分に割り、少女に差し出した。


 「ありがとう、兄ちゃん……でも、パンの匂い、なんだか……懐かしい」


 少女は涙をこぼすように微笑み、顔を上げた。その一瞬、少女の背後にかすかに揺れる“人影”が見えた気がした。


(気のせいか……?)


 戸惑いをぬぐえぬまま少女は走り去って行く。その後ろ姿が消えた路地の先から、ひやりと冷たい風が吹き抜けてきた。



 その夜。


 家に戻った僕は、布団の中で眠れずにいた。


 枕元に置かれた見覚えのない日記帳。恐る恐るページをめくると、「昭和十七年六月十日」の文字が目に飛び込んでくる。


(やっぱり……ここは、僕の知ってる昭和と同じ年号だ)


 胸の鼓動が高まる。


「……透、まだ起きてるのかい?」


 母親――先ほどの女性の声が、戸口越しにそっとかけられる。


「お父さん、明日には帰れるって。元気出しなさいね」


 その優しさが、なぜか胸にしみる。


(この人も、父さんも、本当なら“僕の知らない人たち”のはずなのに……)


 恐怖と懐かしさ、孤独と温もりがないまぜになって、僕は布団を深くかぶった。



 やがて、町のどこかで鐘の音が鳴り始めた。


 ――ゴォン……ゴォン……。


 遠い空には、ほんのり赤い炎が滲む。

何もかもが夢のようで、現実のようで――。


 僕はいつしか、自分が“戦火の町で生きる者”であるという、不思議な実感と覚悟を抱き始めていた。


 (僕は……この世界で、何を見つけるのだろうか)


 そう問いかけながら、静かな夜が過ぎていく。



 その夜の町の片隅――「薄紅館」では、どこからともなく古いオルゴールの音色が流れ始めていた。


 それは、不可思議で、怖ろしくもロマンチックな夏の夜の幕開けだった。


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