第20話「秋嵐の夜、研究棟が沈む」

 空が裂けるような雷鳴とともに、暴風が晴海市臨海部の構造物を軋ませていた。九月十八日、敬老の日の夜。テレビでは「台風14号が再び勢力を強め、四国沖を北東進中」と繰り返し報じられている。だが、街の片隅にあるとある秘密を知る者たちは、天気予報よりも深刻な問題に直面していた。

「今夜、研究棟の廃液タンクが満水になる。台風の影響で排水ポンプの電源が落ちたら、決壊は避けられない」

 声を潜めて言ったのは、佳奈子からの連絡を受け、現地に急行してきた和馬だ。彼はレスキューダイバーの資格を活かして、夜の海や沿岸の調査にも携わってきた。その和馬が顔をしかめるときは、本当にヤバい証拠がある時だった。

 彼のスマホには、研究棟から引き上げた排水管理マニュアルのPDFが映っている。文中には「排水処理不能時の最終対応」として、「外部排出弁の強制解放」なる文字があった。

「つまり、外に流すってこと? 有害物質を?」

 敬太が眉をひそめる。珍しく軽口を挟まない。横殴りの雨に濡れた前髪が額にはりついている。

「……ああ。放っておいたら、台風の増水と重なって、研究棟の地階ごと沈む。そして、廃液が海に出る」

 言葉の重さをかみしめるように、和馬は低く答えた。

 晴海港の南端に位置する〈ケイオス・インダストリー〉の臨海研究棟は、海面から数メートルの高さに築かれているが、建物の地階部分は地下2階まで掘り下げられており、大型タンクや冷却系パイプライン、そして問題の廃液槽が設置されていた。

「その排水ポンプ、今は生きてるのか?」

「調べた。緊急用の電源が作動中だけど、それがいつまでもつかはわからない。ケイオス社の作業員は昨日の時点で避難済みだ。もう誰も戻ってこないつもりだ」

 和馬の答えに、真奈がハッと顔を上げた。

「それって……夜通し無人ってこと?」

「おそらく。だからこそ、今しかない。俺たちが行って、排水ポンプを手動で再起動させて、時間を稼ぐ。決壊の前に、行政に動いてもらうしかない」

 作戦は、慎重かつ迅速に。雨脚が強まる中、三人は合羽とブーツを着込み、懐中電灯と携帯無線機を握りしめて、再び〈臨海研究棟〉へと向かった。

 建物周辺は警備用フェンスで囲われていたが、台風対策のために一部の出入口はすでに解放されていた。敬太が先に足を踏み入れ、浸水しかけた通路をのぞき込む。

「おおっと、けっこう来てるな……くるぶしどころか、膝まで水だ。台風にまぎれてスイマーになるのも悪くないけど、今夜はスーツ忘れたな」

 冗談めかして言う敬太の声に、真奈が緊張の中、少しだけ肩をゆるめた。

「私、管理室に回ってみる。操作盤を確認するから、和馬はタンクの様子を、敬太は無線のモニタリング、お願いできる?」

 彼女の提案に、二人は無言でうなずいた。

 建物の中はすでに停電していたが、非常灯が断続的に点滅しており、影が揺れている。三人はそれぞれの持ち場へと分かれて走った。

 ――研究棟地階、中央タンク区画。

 和馬は重い鉄扉を押し開け、中へ踏み込んだ。空気がねっとりとしている。目の前にある直径10メートルほどの廃液タンクは、まるで巨大な獣のように存在感を放っていた。

 バチン。

 背後で非常灯が一つ、音を立てて消えた。照明の範囲が狭まり、闇が迫ってくる。和馬は慌てずに懐中電灯を取り出し、タンクの水位ゲージに光を当てた。

「……まずい。もうリミットギリギリじゃないか」

 タンクは容量の95%を超えていた。上部のリリーフ弁に波が触れようとしている。天井からは雨水がわずかに滴っており、今にもこの室内が海の底になりかねない。

 彼はすぐに通信用無線機のボタンを押した。

「真奈、聞こえるか。ポンプの再起動はどうだ!」

「……もうすぐ! メインスイッチは壊れてたけど、補助系統でいけるはず……」

「急げ、あと10分もたないぞ!」

 そのとき――

 ズズン――と、地面が揺れた。建物全体がうなりを上げ、足元の水たまりが波立つ。

「っ、地階が……!」

 敬太の声が割り込んだ。

「上階でも揺れたぞ! ポンプラインのどこかで崩落あったかもしれない! 急げ真奈、こっちは非常口のルート、確保する!」

「ありがとう! あと、二十秒……十、九、八……」

 真奈の手は震えながらも確実にスイッチに向かっていた。彼女の脳裏には、数日前に光平から渡された簡易操作マニュアルの図が浮かんでいる。

 こんなときのために準備してくれてたんだ――。

 心の中で、仲間全員の顔を思い浮かべた。

 そして――

「スイッチ、オン!!」

 その瞬間、廃液タンクの奥から「ゴゴゴゴ……」という音が響き、排水ポンプがゆっくりと動き出した。ポンプ軸が回転し、長く止まっていた配管がようやく水を吐き出す。

 和馬の前で、水位ゲージがわずかに、しかし確実に下がった。

「……間に合った」

 彼は息をついた。




 排水ポンプが回りはじめてから五分、タンクの水位は確実に下がっていた。だがその最中にも、建物全体を包む風はますます激しさを増し、天井から落ちる水滴は霧のように細かくなっていた。

 真奈は管理室の小窓からそれを見ていた。顔の頬には油混じりの汗と湿気が貼りつき、手の甲にはケーブルカバーの埃が黒く染みついていた。

「これで……応急処置はできた。でも、このまま朝まで持つとは限らない」

 背後から声がした。

「それなら、いったん引こう。ここで全滅しても意味がない」

 敬太だ。無線での連絡の後、いち早く階段を下りてきたらしい。ぬれた髪をかき上げながらも、ふだん通りの調子で笑っていた。

「せっかく命がけで稼いだこの時間、使わなきゃ損だろ? 上に戻って、行政や市議に叩き込んでやるさ。『今夜がリミットだ』ってな」

 敬太はそう言って、真奈に親指を立てた。真奈は笑みを浮かべてうなずくと、ポケットからUSBメモリを取り出した。

「さっき、ログとタンクゲージの記録を保存した。行政に送るには十分な証拠になると思う」

「さっすが真奈っち、慎重派の中の慎重派!」

「……慎重っていうか、反省を先回りしてるだけ。次に『もっと早く動いてれば』って思いたくないの」

 二人が顔を見合わせたそのとき、奥の通路から和馬が戻ってきた。防水の作業手袋を外しながら言う。

「排水状況は安定した。でも、奥の第三タンクにひびが入ってた。今のポンプで吸い切れなければ、漏れ出すかもしれない」

 敬太の表情が引き締まる。

「それって、あとどれくらい?」

「夜明けまでは無理だ。あと三時間が限界」

「じゃあ――もう時間ねぇな」

 敬太は頷くと、小型のポーチから発煙筒と非常用ビーコンを取り出した。

「これ、俺が持って警備本部前でやる。夜中だろうと市役所だろうと、誰かは起きてる。今からでも連絡回せる」

「じゃあ私はUSBを持って図書館へ。光平くんなら、夜勤の管理者にシステムログの解析を頼めるかも」

「和馬、君は?」

 和馬は一瞬、考えたあと言った。

「俺は……もう一回戻る。第三タンクに応急の止水材を貼ってくる。どこまで持つかわからないけど、やらないよりはマシだ」

「……なら、行こうか」

 三人は、わずかに水位の下がった通路を再び駆け出した。

* * *

 午前二時三十分。晴海市役所の非常連絡窓口。

「本当に、地階が水没するって言うんですか……?」

 スーツの上下を着たまま、防災課職員が蒼白な顔で敬太の手元の写真と動画を見ていた。排水タンクから滴り落ちる黒い液体。非常灯の揺れる影。管理画面に表示された“満水警告”。

「ウチでこの時間に受け付けられる限界超えてるの、わかってる。けど、もう朝まで待てない。市がこの映像を無視して、明日何かが起きたら――責任取れる?」

 敬太の声には、いつもの軽さはなかった。その重みが、ようやく職員の背筋を伸ばした。

「……わかりました。すぐ上層部へ連絡します。連絡がつき次第、臨時対策本部を起こします」

「ありがとう! あとでぜったい恩に着る!」

 敬太は深々と頭を下げ、その足で図書館へと駆け出した。息を切らせながら、途中、スマホで光平と通話をつなぐ。

「光平! 真奈がそっちに向かってる! ログの読み込み、間に合いそう?」

『今、解析ツール立ち上げてる。コンテナIDの読み込みは完了。第三タンクのライン解析中。あと、予備バッテリーが危ない。必要最低限の照明と冷却だけ稼働させてるけど……』

「了解、あと二時間だけ持たせてくれ!」

* * *

 一方、臨海研究棟のタンク区画では、和馬が補修用の樹脂をひとつずつ貼りつけていた。冷え切った金属に指先の感覚が消えていく。

「頼む……持ってくれ……!」

 タンク表面には、細かなヒビが走っていた。水圧により、内側からゆっくりと広がるそのヒビに、和馬はすべての力を込めて止水パテを押し当てた。

 そのとき、耳元で「キィィン……」と高音が響いた。

「……!」

 液体の中に含まれる化学成分が蒸気化を始めた証拠だった。時間は、もうない。

 和馬は最後の止水材を押し込み、崩れそうな足で立ち上がった。無線を掴み、ふらつく声で言う。

「……完了……タンク、しばらくは……耐える……あとは……」

「――和馬! もう脱出して!」

 真奈の叫びが応答する。

「今、行政が動き出した! 職員が現地視察のために出発したって! だから、今すぐ――!」

「……ああ、聞こえてる」

 和馬は弱く笑った。

「俺たち、あと一歩まで来たんだな……!」




 午前三時すぎ。嵐はさらに勢いを増し、研究棟の壁面をたたく風は容赦がなかった。瓦礫のように飛び交うプラスチック片や、濡れた作業服がバタバタと天井の鉄骨に巻きついている。

 管理フロアの一室、真奈は再びパソコン端末を立ち上げ、研究棟の内外温度、湿度、そしてタンクの残水量をリアルタイムで監視していた。

 ディスプレイには赤いアラートが点滅している。

「タンクD-03の気圧が上がってる……内部ガスが飽和限界に近い……!」

 それは、排水処理装置だけではもはや抑えきれないことを意味していた。

 そのとき、光平からの通話が再びつながる。

『真奈、ログ解析が終わった。問題のタンクは、五年前の耐久テストを一度も受けてない。それなのに今夜の雨量と流入量でフル稼働させてた。構造上の限界、もう超えてる……』

「じゃあ……爆発する?」

『爆発というより、内圧でパネルが破れて、廃液が周辺の土壌にしみ出す可能性が高い。そしたら地下水も、港も全部……』

 真奈の喉がつまった。

 そのとき、遠くからかすかに聞こえてきた。

 ――サイレンの音。

「……行政の職員が来た!」

 窓の外に、赤い非常灯を光らせた公用車が停まっているのが見えた。敬太がその横で、ポンチョ姿で派手に手を振っている。

 間もなく、防災服を着た市職員と技術員らしき人物が走り込んでくる。彼らは慌てて研究棟の内部へと向かった。

 真奈は無線に向かって叫んだ。

「和馬! もう戻って! 市が動いた! これで……私たちの手を離れた!」

 返事は、少しだけ間を置いて返ってきた。

「了解。……じゃあ、最後にもうひと押しだけ、してくる」

「えっ、和馬! 戻るって言ったじゃ――」

「今、ドアロックが手動解除に切り替わってる。排気口も開いた。あと少しで、排水経路を一つ変えられるかもしれない」

 真奈は息をのんだ。

「でも、それって――また中に入るってことでしょ!? もう限界なんだよ! これ以上は……!」

「真奈」

 無線越しに、和馬の声が静かに響いた。

「君がこの一年、どれだけの資料を読んで、どれだけの対策を重ねてきたか、全部、見てきた。その一つ一つの積み重ねが、今こうして市を動かした。……なら、俺はその“最後の一歩”を信じて踏み出すだけだよ」

「……っ!」

 答えを返す前に、通信はぷつりと切れた。

* * *

 午前三時半。

 和馬は、研究棟の最下層にある排水経路分岐バルブの前にいた。周囲は水浸しで、金属の床からはもう何もかもが軋むような音を発していた。

 風も、雨も、嵐も、ここまでは届かない。ただ、時間だけが音になって響いていた。

 和馬は手袋を脱ぎ、素手でバルブを回した。

「――開け」

 ひときわ大きな振動。足元からドンという衝撃が伝わる。

 タンクの一つが、圧に耐えきれず、内部の隔壁を破ったのだ。

 と同時に、新しく開かれた経路から、黒い液体が別ルートへと流れ出す。

 仮設の排水ラインが、ぎりぎりのところで機能し始めた。

 ――あとは、このまま、崩れなければ。

 そう祈った瞬間、天井のどこかで「ギシィ……ッ!」という金属の悲鳴が響いた。

 研究棟の構造体そのものが、風圧と振動で軋んでいた。

 和馬は無線を再び取り出す。

「……排水、成功。経路変更も完了。……撤退する」

 だが、すぐには動き出さなかった。

 ふと、天井から落ちてきたのは――黒ずんだ“錆びた金属のねじ”。

 瞬間、和馬の視界がぐにゃりと揺れた。

「っ、く……!」

 床が傾いた。

 いや、棟そのものが――傾き始めていた。

 これ以上ここにいては――本当に、戻れなくなる。

 それでも、彼は一歩だけ後ろに下がり――もう一度、タンクのパネルを振り返った。

「ここまで来たんだ。――お前、持ちこたえてくれよ」

 そう、静かに呟いてから、和馬は階段へと駆け出した。




 午前四時。外は暴風のピークを迎えていた。

 排水経路の変更により、致命的な決壊は避けられたものの、臨海研究棟の地下階はすでに腰ほどまで浸水していた。和馬はずぶ濡れの状態で非常口から姿を現し、真奈の姿を見つけて安堵の表情を浮かべた。

「……おかえり」

 真奈の声は、雨の音にかき消されそうになりながらも、はっきりと届いた。

「うん。ただいま」

 和馬は濡れた髪をかき上げながら微笑んだ。その顔は疲労に満ちていたが、どこか誇らしげだった。

 敬太が駆け寄り、タオルを肩にかけながら、やや強引に頭をゴシゴシこする。

「無茶しすぎー。でも……よくやった!」

 和馬は照れ笑いを浮かべてうなずく。

 その後、市の防災職員たちが棟内に入り、最終的な安全確認が行われた。問題のタンクはギリギリのところで踏みとどまり、周囲への実害はなかったと報告された。

 ただし、臨海研究棟の地階サーバは完全に浸水しており、ケイオス・インダストリーが長年蓄積してきた一部の実験記録は失われた。

「……向こうも、今ごろ大慌てってところか」

 敬太が空を見上げて言った。

 雲はまだ厚く、星のひとつも見えなかったが、風の強さは確かに少しだけ和らいでいた。

「まさか台風が味方になるとはね」

 真奈がポツリと呟いた。

「偶然か、計算か……でも、あのままだったら、街の地下水は汚染されてた」

「間に合ってよかったな」

 和馬は手のひらを見つめ、少しだけ拳を握った。

「でも、まだ終わりじゃない。施設は止まっても、ゼータ炉の実験は残ってる」

 その言葉に、三人の表情が引き締まる。

 浸水により研究棟の一部は使用不能になったものの、ケイオス社がゼータ炉の実験本番を別のルートで再開する可能性は十分にあった。

「このまま押し切るつもりか、あの六條麗花は……」

 真奈が口元を引き結ぶ。真っ暗な海の彼方に、漁港の赤灯がかすかに揺れている。

 敬太が両手を広げ、冗談めかして叫ぶ。

「よーし! じゃあ次は、ゼータ炉に真っ向勝負だなーっ! 街の未来は、俺たちにまかせとけって!」

「いや、真面目に考えて」

「ごめんて」

 三人は笑った。

 嵐の夜――街を守ったその行動は、決して誰かに褒められることではない。だが彼らは確かに、崩壊の一歩手前で防ぎ切った。

* * *

 数時間後。ニュース速報がテレビ各局を駆け巡った。

《ケイオス・インダストリー臨海研究棟で浸水事故。高濃度廃液の流出は確認されず》

《一部サーバ喪失により、ゼータ炉実験スケジュールの見直しへ。担当研究者の六條麗花氏は不在》

 市民の声も広がっていく。

「やっぱり何かおかしかったんだよ。放射線の話、ほんとだったんだ」

「説明会での態度、あれは嘘をついてる人の顔だったよ」

 静かに、しかし確実に、世論は動いていた。

* * *

 そして、その夜。

 杏は一人、防波堤の端に立っていた。

 風は冷たい。嵐の名残が潮風に混じって髪を巻き上げる。

「――ごめん、和馬」

 携帯端末を見つめたまま、ぽつりと呟いた。

「私、動けなかった。あなたが命がけで止めたのに、私は……怖くて……」

 だが、すぐに首を横に振る。

 否。そうじゃない。自分にできることを見つけて、やらなくちゃ。

 そのとき、貴大から着信が入った。

『杏、動けるか。六條麗花の動きがあった。ゼータ炉、動かすつもりだ』

「――わかった」

 杏は目を閉じ、深く吸い込んだ潮のにおいに、身を預けた。

 次は、クリスマス。

 残された時間は、もうあまりない。

(第20話 了)

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