第40話 準決勝に向けて
「お兄ちゃん!」
私、水瀬 咲夜は、兄である水瀬 龍が、野球の県大会で準決勝に進出したので、その応援に家族で福岡にやってきた。
お兄ちゃんの家に到着するやいなや、玄関で出迎えてくれたお兄ちゃんの腰におも言い切り抱き着いた。
「久しぶりだな、咲夜」
そういって優しい笑顔で私を見下ろしながら頭をなでてくれるお兄ちゃん、大すきぃ…
私たちは兄弟ながら、血はつながっていないいわゆる義兄妹というやつだ。
幼いころに父親を亡くした私の母を、スポーツつながりで献身的に支えてくれたのが今のお父さんで、そんなお父さんの息子がお兄ちゃんだったわけだ。
幼いながら、まだ小学校低学年だった私を、一生懸命守ってくれる兄のことを私は小さいながら慕っていたと思う。
でも、人の心とはままならないもので、思春期に入ると、異性の兄に対して、素直に愛情表現をすることが難しくなってしまった。
それどころか、心にもない冷たい言葉を投げかけてしまう毎日に、嫌気がさしてしまうこともしばしば。
でも、私は心のどこかで、優しいお兄ちゃんならそんな素直になれない生意気な妹だって許してくれるって油断してたんだと思う。
そんな私の価値観をぶっ壊したのが、あの事件だ。
お兄ちゃんが一人暮らしをするために福岡に行ってしまって、世界から色がなくなってしまったような虚無感のなか過ごしていたある日、おうちに突然電話がかかってきた。
お母さんがその電話を取ると、突然膝から崩れ落ちたから何事かと思ったんだけど、その瞬間に私の胸にも、異様な胸騒ぎがしたのを今でも覚えている。
「落ち着いて聞いて…龍が暴漢に襲われて刺されたって…まだ意識が戻らなくて、命がつながるかもわからないみたい…」
…は?
ついこの間、笑顔でお兄ちゃんは私に「いってきます」って言ってくれた。
そんなにお兄ちゃんに、私は無表情で返事も返さなかった。
そんな私に、苦笑しながらも優しく頭をなでてくれた感覚が、急に思い起こされる。
もう、あぁやって撫でてもらえないの?
優しく笑いかけてもらうことも、おはようってあいさつしてくれることもなくなっちゃうの…?
そんなの、嘘だよ。
こんなことになるなら、もっとたくさんお兄ちゃんに素直に気持ちを伝えていればよかった。
こんなことになるなら、もっとしっかりお兄ちゃんの顔を目に焼き付けておくんだった。
こんなことになるなら…
とめどない後悔が私の心を押しつぶそうとしている。
「今は福岡の病院に入院してるみたいだから、急いで向かうわよ」
「わ、わかった…!」
そうだ。まだお兄ちゃんが死ぬって決まったわけじゃない。
お兄ちゃんは今、戦ってるんだ。なら、私はその一番近いところで応援してあげないと。絶対に、お兄ちゃんが私のところに帰ってきてくれるように。
結果的に、お兄ちゃんが頑張ってくれたおかげで、無事に一命をとりとめたわけだけど、その分私の中のお兄ちゃんへの愛情が留まるところを知らない暴走機関車になってしまった。
ふとした時にお兄ちゃんのことを考えちゃう。
友達とカフェに行くと、(このパンケーキお兄ちゃん好きそうだなぁ)って考えちゃうし
お店の店頭にあるぬいぐるみ見て、(あ、この子お兄ちゃんに似てる)って思った次の瞬間には、気づいたら買っちゃってたし
寝るときには毎回お兄ちゃんに抱きしめてもらう想像をしながらじゃないと眠れないし…
そんなお兄ちゃんには、魅力的な彼女さんがなんと3人もいる。
お兄ちゃんが暴漢から庇ったっていう女の子、真琴さんと奏さんだ。
二人ともとても良い人で、最初お兄ちゃんとずっと一緒にいる二人に嫉妬して、つっけんどんな対応をする私にも根気強く接してくれた。
もう一人は、由奈お姉ちゃんだ。
小さいころからお兄ちゃんと仲良くて、私ももし姉がいたらこんな感じなのかなって思って慕ってる。
…そんなたくさん彼女がいるんだったら、一人ぐらい増えても大丈夫だよね?
お兄ちゃん、覚悟してね?私って、意外と粘着質だから。
今日から一週間、お兄ちゃんのおうちにお泊りするわけだけど、
この一週間で、しっかりお兄ちゃんに私のこと意識してもらうんだから!
あ、でもそれ以上に、試合が近いお兄ちゃんのケアも忘れずにやらないとね!
同じアスリートとして、しっかりサポートさせてもらいます!
「おにいちゃん!お風呂はいったよ!先に入る?」
「咲夜が先に入りな。俺はもう少しゆっくりしてから入るよ」
「わかった!お兄ちゃんは私の残り湯を楽しみたいタイプ…っと」
「ちょっと待て」
俺の静止も聞かず、咲夜は風呂場へと直行していった。
なにやらとんでもない風評被害を受けた気がするんだが…後で必ず訂正させよう。
準決勝が明日に迫った夜、試合が控えているからと、咲夜は家事のほとんどを率先してやってくれた。手伝おうとしたのだが、「試合前なのに怪我したらどうするの!」とすべて却下されてしまった。
いや、自宅の家事で怪我するってどういう状況なんだ。
…ま、彼女がそれで満足してくれるのであれば、好きにやらせてあげようか。
30分ほどして帰ってきた咲夜と入れ替わりで、俺が風呂に入る。
変な意味ではないが、咲夜の『残り湯』発言で妙に意識してしまう。
いや、決して、本当に、不埒な意味ではないぞ。俺はいったい誰に言い訳しているんだ?いや言い訳ではないんだけどな?
風呂を上がってリビングに戻ると、
床にヨガマットを引いた咲夜が待機していた。
「…なにしてるんだ?」
「マッサージしようと思って」
「…誰が?」
「私が」
「誰に?」
「お兄ちゃんに」
…
どうやら、しばらく見ないうちに妹はだいぶませてしまったらしい。
いくら兄とは言え、男にそんな不用意な言葉をかけてしまうなんて、とんでもないことだ。これは兄としてビシッと言ってやらねばならない。
「…咲夜、そういうことは男にはいわないようにしなさい」
「いうわけないじゃん。こんなことお兄ちゃんにしか言わないよ」
「…お兄ちゃんも男だからな」
「…私がマッサージしたいの。…ダメ?」
「…今回だけだからな」
「やったぁ!ありがとお兄ちゃん!」
かわいい妹に上目遣いでおねだりされて断れる兄がいるだろうか。いやいない。
「じゃあここに横になって!」
「はい…」
言われるがままに、俺はヨガマットの上に横たわる。
「じゃあ腰からやっていくよ~。少しでも痛かったら言ってね~」
そういうと、咲夜はゆっくりと俺の背中をマッサージし始める。
変に力を入れて筋肉を傷めないように、優しくもみこまれていく。
咲夜は、トレーナーである俺の父さんにもお墨付きをもらうほど、こういうマッサージがうまい。
さすがにそうでもなければ、試合前にマッサージなんてさせるわけにはいかないからな。
少しずつ、腰のあたりから暖かい感覚が広がっていく。
マッサージされた部分の血流がよくなっていっている証拠だ。
「どう?いい感じ?」
「あぁ…咲夜のマッサージ、父さんに聞いてはいたが、ここまでうまいんだなぁ…」
「えへへ。私の数多くある取り柄の一つだよ!」
こうやって変に謙遜しないところも、彼女がいろんな人に好かれる要因の一つなんだろうな。かくいう俺も、こういうあけすけのない性格は好きだ。
「準決勝終わった後もちゃんとやってあげるからね」
「いいのか?俺としてはありがたいけど…」
「そんなの良いに決まってるじゃん!私がしっかり甲子園までサポートしてあげるからね!」
「ありがとな、咲夜」
「どういたしまして、お兄ちゃん!」
そういって屈託なく笑う彼女の顔を見られるだけで、生きててよかったなと思えるのだ。
「功~。もうそろそろ上がらないと、明日に響くわよ」
「…あぁ、もう終わる」
「…ちょっと気負いすぎじゃないかしら。確かに相手はアイツだけれど」
いよいよ準決勝を明日に控えた放課後。
西日が差し込むジム施設の中にあったのは、野球部主将の野方 功と、マネージャーの黒岩 まどかであった。
「わかっているさ。わかっているが…ままならないものだ」
「…大丈夫よ。去年からあなたたちはより一層強くなったわ。それに、今年は頼れる後輩も入ったでしょ?」
「…まどかは、水瀬のことをやけに買っているな?」
「なに?嫉妬かしら?」
「それはそうだ。後輩といえど、お前のことはだれにも譲るつもりはないからな」
「…そういう素直なところ、ホント嫌いだわ」
「そういう素直じゃないところ、俺は好きだぞ」
「…はぁ。わかったわよ。私の負け!とにかくあなたはクールダウンしなさい!早くしないとおいて帰るわよ!」
顔を真っ赤に染めてジムを出ていく彼女を見送る主将の顔には、遠ざかっていく愛しの彼女に向けた微笑みが浮かび上がったが、その直後にまた険しい表情に戻ってしまった。
「…次こそは、必ず勝つ」
決戦は、明日。
「また彼らですか」
「はい。今年はなにやらそれなりにデキる一年が入ったようで」
「あぁ、これですよね。かなり良い球投げるようですねぇ」
七星学院高校野球部、その部室にて。
黒縁メガネのレンズを輝かせながら、真っ暗な部屋の中で映像を見る二人組。
映像の中身は、先ほどの試合でマウンドに立つ水瀬 龍の姿。
「問題はないでしょう。そもそも、彼が投げる前に、試合の大勢は決しているでしょうから」
「おっしゃる通りです」
「本当に明日が楽しみですねぇ。また彼のあの表情が見られると思うと、今から鳥肌が止まりません」
そういうと、彼は不敵な笑みを浮かべる。
彼の眼鏡のレンズには、はたしてどのような光景が映っているのか。
すべては、明日の試合で判明することだろう。
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