◆5/胸に灯る火

 瘴気の中の母親の体が、うごめきながら変化していく。カクン、カクンと壊れたからくり人形のような、ぎこちない動きで手足をばたつかせている。

「ママッ! どうしたの! ママああああああ!」

 母親に駆け寄ろうとする子供を視界に捉え、ぎくりとする。

「駄目っ!」

 かがりはブーツで地を蹴る。次の瞬間には、腕の中に子供を抱きとめていた。

 同時に、母親を包んでいた瘴気が弾ける。

「グオオオオォッ!」

 低く響く咆哮とともに、中からオニが現れた。


 それを視認した瞬間、篝の全身に熱が巡る。脳内にアドレナリンがあふれ出し、視界がオニに向かって収束していく。

「ママ……」

 その時、腕の中から聞こえた小さくか細い声が、篝の熱を一瞬で覚ました。

 (この子の前で、母親を討つ……?)

 目の前の現実を認識したとたん、冷めた熱が冷気に変わり、体中にぞわりとした恐怖が走った。

 

 跳びかかろうと力を込めていた足を、逆方向に蹴り出す。子供を抱えたままオニに背を向け、公園の出口に向かって駆け出した。

「やだ! ママと一緒に居るの! 離してっ!」

 懐中で暴れる子供を、できる限り優しく抱きながら走る。その背を追うように、オニが篝に向かって跳びかかってきた。

 まるで我が子を取り返そうとでもするように、鋭い爪を容赦なく振り下ろしてくる。


「やだ! やーだー! 離して! ママあッ!」

 身をよじり篝から逃げ出そうとする子供を庇うあまり、オニの攻撃を避け切れなかった。

 黒く艶やかな髪の一部が無残に飛び散り、篝の背に三本の赤い傷跡が刻まれる。火傷したような痛みとともに、薔薇が咲くように血がにじんだ。

「――ッ!」

 苦痛に顔を歪め、足を止める。

 その顔を見た子供は、表情に不安の色を滲ませる。

「お姉ちゃん、怪我……したの……?」

「大丈夫! ちょっとだけだから」

 にこりと笑って篝は応えた。

「安全なところに連れて行ってあげるから、ボクはそこで待ってて? お母さんは、ちゃんと後で助けるから」

 胸が痛む。篝はなんども自分に「仕方がない」と言い聞かせた。

「ほんと?」

「うん。約束」

 痛みが増していく。篝を信じ切った子供の表情が、心の柔らかい部分を突き刺してくる。

「しっかり捕まっててね。いくよ――」

 背後に迫っていたオニの拳が空を切る。走り出した篝の背後で、爆発するような音が轟いた。

 砕けた地面の破片が篝の背を打ち、衝撃と痛みが走る。苦痛を顔に出さないよう、ただ前を向いて走り続ける。

 逃げる篝を追ってくるオニ。木立を爪で切り裂き、遊具を叩きつける拳で破壊する。

 そのたびに轟音が響き渡り、腕の中で小さな悲鳴が上がった。


「あんなの……あんなの、ママじゃない……」

 小さくか細い声が、抱いた体を伝わり聞こえてくる。子供は篝の服を、その小さい手でぎゅっとつかみ、しゃくりあげる声とともに涙を流している。


『彼女が誰かの苦しみになることを意味している』

 ――また、倉橋くらはしの声が耳の奥で聞こえる。


「嫌だ。そんなのは――嫌だ」

 篝は思わず口中で呟いた。


 カチリ――と何かがかみ合う音がした。


 胸の火種が一層強く、赤く輝く。視界が晴れ、胸中に風が吹き込んでくる。それは火種の熱を上げ、確かな炎を灯らせた。

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