◆2/ふたりとひとり

 水底から、ゆらゆらと浮かび上がっていく。

 空気を噴き出す音が、水面の向こうから聴こえてくる。

 まぶたの裏に、薄く光が差し込む。

 何かが擦れる音。

 冷たく乾いた空気の感触。

 手。足。背中。

 少しずつ、体が熱を思い出してくる。

 大きく息を吸い込み、吐き出す。

 まぶたを持ち上げると、見慣れた部屋が見える。

 ゆっくりと身体を起こし、床に降り立った。

 

 タイルの冷たさが、素足にじわりと広がっていく。

 振り返ると、卵型のポッドが閉じていくところだった。

 (またひとつ、世界が閉じてしまった……)

 正体不明の孤独感が胸を刺す。

 その小さな棘を、意識して見ないよう努めた。

 

 強張った体を解すように、肩を回して背筋を伸ばす。肩甲骨の下まで伸びた濡羽色の髪が、流れるように揺れた。

 汗を吸い込んだ服が、締め付けるように肌にまとわりつく。その感触に耐えかねて、足早に更衣室へと向かった。

 湿った服を手早く脱ぐと、鍛錬を重ねた体があらわになる。

 凛とした立ち姿は、引き絞られた弓のような緊張感を感じさせた。

 

 火照った肌の上に、制汗シートを滑らせていく。抜けるような冷たさが弾け、爽快感が吹き抜けた。

 ロッカーから白と青のストライプシャツと、黒のスウェットパンツを取り出す。新しいシャツに袖を通すと、石鹸の香りが鼻腔をかすめた。

 濡羽色の髪を軽くまとめながら、更衣室を後にする。

 ようやく、体から戦いの熱が引いていった。


 部屋全体が、白基調のシンプルな造りで整えられている。壁には整然と機器類が並び、それに接続されたケーブル達が規則正しく整列していた。

 卵型のポッドが4基、更衣室の右手側の壁に、弧を描くように配置されている。

 その反対側に、ホログラムディスプレイを備えた大型のコンソールが見える。

 全体が蛍光灯の光に照らされ、病室を思わせる無機質な印象に包まれていた。

 

 コンソールの影から、ひょこりとスズネが顔を出す。

「ええデータが取れたで! オニ5体を1時間もかからずに討伐してまうなんて、さすがカガリンやな!」

 徒競走で1等賞を取った子供のように、弾むような足取りで篝に向かって駆け寄ってくる。

 小柄な体躯の、あどけなさを残す顔立ちの女性。肩口で切りそろえられたペールピンクの髪が、動きにあわせて華やかに揺れる。黄色のパーカーとオレンジのサロペットの組み合わせが、髪色も相まって、まるで咲き誇る南国の花々を思わせた。

 

 彼女はデータ分析やシミュレーター構築のエンジニアとして、いつも施設内を忙しなく動き回っている。その姿は、小動物めいた印象を周囲に振りまいていた。歳は篝よりひとつかふたつ上だが、スズネに対しては、つい妹のように接してしまう。

「シミュレーションやから、大丈夫やとは思うけど、体はしんどない?」

「大丈夫だよ。ありがとね、スズネ」

 篝が柔らかな笑顔を浮かべる。

「いや~、でも、あの最後の戦闘! ほんま痺れたで! ガーッと跳んで、ドンッて落としてからの、ズドン!」

 くるくるとその場で回りながら「たまらんわ~!」と感動を表している。

防疫部ぼうえきぶ随一と言っても過言ではない戦闘力! いや、陰陽庁おんみょうちょうで一番かもしれん!」

「それは言い過ぎ。討伐任務にあたるのは、主に防疫部だけど、他にも鬼道部きどうぶ式礼部しきれいぶにも強い人がいっぱい居るんだから。術式や式符を使われたら、わたしじゃ太刀打ちできないよ」

「謙遜することないやんか~。あの祓具はらえつものを使えるの、何人もおらんやん!」

 スズネは拳に力を込め、しみじみと思いの丈を言葉に乗せる。

「身一つでオニと渡り合うための武器……。強力過ぎて、選ばれたもんしか使うことができひん! あ~、やっぱええわぁ〜。浪漫やわぁ……」

 スズネに褒めそやされ、少し気恥ずかしい。けれど、不思議と嫌な気分ではなかった。

 

「そういえば、オニの瘴気! あれ凄いね。本物かと思っちゃった」

「せやろ! あれ、めっちゃディティールに凝ってみてん」スズネは得意げに胸をそらし、鼻息を荒くしている。

「見た目も本物そっくりなんやけど、あれに接触すると身体機能が落ちる所まで再現してんねん! ほんでな――」

 技術的な説明が、スズネの口からマシンガンのように撃ち出される。難解な単語の銃弾を浴びながら、篝は苦笑いをこぼすしかなかった。

 その後も会話が弾み、いつのまにか時間が過ぎていった。

 

 不意に、篝が何かを思い出したように顔を上げる。

「あっ! スズネ、時間!」

「えっ、嘘やん。もうそんな時間?」

 スズネも、篝の声につられて顔を上げる。

 壁にかかったデジタル時計の表示は12時42分。時間はあまりなかった。

「うっわ……。やっば!」言い切った時には、もうスズネは走り出していた。その姿を目で追っていた篝も、数拍後、ハッとして走り出す。

 目的地は食堂。目当ては12時から13時まで限定の塩鯖定食。熟練のおばちゃんの手により、絶妙に味付けされた人気の一品は、時間内に売り切れることもしばしばだった。

 全力で走るスズネと、それを追う軽い足取りの篝。

 ふたりの足音が廊下に響いた。


「あ〜……満足やぁ……」ズズズ……、と食後お茶をすすりながら、スズネはおなかを撫でている。

「相変わらず、美味しかったね」

 篝も特製の塩鯖を楽しみ、食後のお茶を楽しんでいた。

「あのおばちゃん、何者なんやろな。ただもんやないで……」

「塩鯖も美味しいけど、付け合わせの冷ややっこも良かったよね」

 脇役の豆腐も、また絶品だった。

 鯖の塩味を優しく受け止め、脂で鈍った舌を爽やかにリセットしてくれた。

「せやねん! 脇役なんやけど、脇役に収まらへん――。え? ちょっと、なんなん? 会議? もうちょい、鯖定について語りたいんやけど。ああ、もうわかった! わかったって!」

 スズネが誰かと話しているように独り言ち、自分の耳元で払いのけるように手を動かす。

「リンネさん?」

「せや。なんか会議らしいわ。しゃあないから交代するわ……」

 スズネが「はぁ~~~」と、不満満載のため息を吐き出す。

 篝は苦笑いを浮かべながら、スズネに「またね」と短く告げる。

「うん。カガリンまたな~」

 軽い別れのあいさつの後、スズネは軽く目を閉じた。


 まぶたの内側で瞳が動く。

 彼女を取り巻く空気の質が変わる。

 それまでの太陽のような明るさが、夕日が沈むように徐々に揺らいでいく。

 それと入れ替わるように、星々の輝く静謐な夜のヴェールが降りてきた。

 ペールピンクの髪色が、染み渡るようにシルバーグレーへと変化する。

 深く、長い呼吸。

 

 ガクンと一度、頭が揺れた。

 

 徐々にリンネの目が開き、その気怠そうな視線が下へと降りていく。

「スズネのやつ、またこんな騒がしい格好をして……。本当に、品がないんだから」

 リンネが不満の溜息を漏らしながら、パンツのサスペンダーを指で引っ張っている。

 その眉間には、深いしわが刻まれていた。

「リンネさん、こんにちは」

 声に反応したリンネが、ゆったりとした動作で顔を上げる。篝を見る顔は険が取れ、上品な笑みに変わっていた。

「ごきげんよう。悪いわね、邪魔しちゃって……」

「いえ、大丈夫です。祓装課ばつそうかの会議ですか?」

「そうなの。以前、あなたの使う祓具はらえつもの――黒斧こくふを改良したでしょ? あれに組み込んだ術式回路の演習データを検証するの……」

「となると、もうすぐ実戦投入ですか?」

「ええ。次回の討伐任務から投入予定よ。設計から製造まで携わって、ようやくここまできたわ」

 それまでの苦労を思い出すように、リンネは少しだけ目を細める。

「わたしの造る武器が、あなたを守る盾になってくれる事を祈るわ」

 リンネの言葉に、胸中に込み上げるものがあった。

「……ありがとうございます。リンネさんの装備のおかげで、わたしは安心して任務に向かえます」

 リンネは少し得意げな顔で「頼りにして頂戴」と微笑んだ。

 つられて篝もクスリと微笑む。

 

 スズネと同じ顔を持つリンネ。けれど、その笑顔は気品に溢れている。

 ひとつの体を共有する、ふたつの人格。

 彼女たちは性格から佇まいまで、何もかもが正反対だった。

「それじゃあ、私は着替えに行ってくるわ。……さすがに、もう耐えられそうにないから」

 自分の服を指さし、不機嫌を煮詰めたような顔をしている。その顔のまま、リンネは滑るように歩き出した。

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