母の行方
「夏希、鳥って知ってる?」
母はソファの右側に座り、窓辺で遊ぶ私を眺めていた。テレビの映像は誰のためでもなく、背景に徹している。
「とり?しってるよ!なんで?」
「ほんとあなた、図鑑読むのが好きね。」
壁沿いの本棚いっぱいに並んだ図鑑を眺めながら、母は言った。私もそちらを見る。
「もっちろん!おかあさんがくれたんだもん。ぜーんぶしってるよ!」
嬉しそうな私の声に、母も目を細める。いつもの日常だった。
物心ついた時から父はいない。この部屋のソファは2人掛けだ。
「鳥はね、飛べるの。どこまでも。誰にも何にも邪魔されずにね。……もしね、生まれ変わるなら、私、鳥になりたいな。」
「そーなんだ……でもさ、とりなんてもういないじゃん。みんなしんじゃったってずかんにかいてあるよ。せんせいもいってた。」
「そうね。でも、私もなってみたいのよ。この世界じゃなくても良い。どこまでも広がる、そらの一部に。」
遠くを見つめる母の横顔は、なぜだか少し悲しそうだった。
あのときの私には、母の気持ちは何一つ分からなかった。でも今なら、少しだけ寄り添える気がする。
⸻
夜の病院は、夕方よりもさらに静かだった。いつかと同じ焦燥感を感じながら、足を進める。走らないのは私が成長したからか、それともこの先に待つ決断への恐怖からか。一つ明らかなのは、あの日は分からなかった焦りの理由を、今の私が知っていることだ。
誰ともすれ違わなかった。薄暗い廊下は、どこまでも続いているように私を錯覚させる。壁は視界の端で揺れて見え、生きているように思われた。何か大きな生き物に食べられたような気持ちを抱える。
病室に帰ってきた。優しい人工の光が、母の顔を照らしている。私はさっきと同じ椅子に座り、もう一度、あのタブレットを手に取った。行き先の違う2つの死が提示される。
「安楽死制度利用申込書兼同意書」
「特定精神保存及び再構成措置同意書」
どちらにも署名欄。
母はもう、選べない。選ぶのは私だった。
⸻
私の指が、静かに画面に触れた。
指先が滑り、文字を刻む。
私を突き動かしていたのは、彼のように母が苦しむ恐怖。そして、鳥になりたいと言った母の言葉。
手元が揺れる。
視界が歪む。
呼吸が浅くなり、母の顔が、薄い霧の向こう側にあるように感じられた。
(......私が.........選んだ.........)
誰かに名前を呼ばれた気がした。けれどその声も、すぐに遠のく。
——その先の記憶は、どこか遠くに置き忘れてきたようだった。
⸻
自室のベッドで、私は目を覚ます。
開け放した窓から、ひんやりとした空気を感じる。
のどが渇いていた。やけに体が軽い。
ふと昨日のことを思い出そうとする。......母の病室、公園、そして——
(......誰かに会った......?)
頭を振っても、そこだけが曖昧だった。
だが、私の指先が母を地球に送った記憶は、鮮明に脳裏に焼きついている。
⸻
登校。教室の前で佇む男の子が1人。
「田中さん」 「佐藤くん」
重なる声。何故、あまり接点の無い転校生に話しかけたのか、自分でもわからなかった。彼が私の名前を覚えていることに、少し感心する。
私は首をかしげて
「......どうしたの?」
「あ、いや。...ただ...なんか、話しかけなきゃいけない気がして...」
それを聞いた私は、思わず笑ってしまった。
「奇遇だね。私もそんな気がしたんだ。」
教室に入る。彼がそれに続く。
彼も笑っているといいなと、願っていた。
第二話 了
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次回「ベン・ファローの内省」
誰よりも速く、次へ、向こう側へ——。
世界は、地球は、自分に答えてくれる。
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