■がいない日々は続く、静寂の中独り

 煙越しに見る先輩の横顔、その目元にはまだ微かな痣が滲んでいる。


「じゃあ、これ」


 当たり前のように渡されたのは、あなたがいつも吸っている銘柄の煙草が一箱。ご丁寧に添えられたライターの金具が夏の日に爆ぜるように光った。

 午後になっても一向に翳る気配のない日射しと、それに焙られた建物の影が黒々と地べたに伸びる。喫煙所にはあなたと先輩の二人だけだ。風もない生温い空気に、絶え間なく蝉の声が響いている。

 これは何ですかと尋ねれば、先輩は僅かに目を逸らしてから続けた。


「お礼。……ちゃんとしたの、もう少ししたら渡すから。とりあえず前金みたいな感じで。受け取っといてよ」


 それは兄への礼だろうか。

 あなたの言葉に、先輩は咥え煙草のまま口元を歪めてみせた。


「いや、そっちは済んでる。だからそれは純然たるお前の取り分。お前がいなかったら、お兄さんに手伝ってもらうようなこともなかっただろうから」


 兄が何をどのように手助けしたかを尋ねるべきだろうかと一瞬だけ考えて、止める。聞いても応えてくれないだろうと、先輩の吊り上がった口元と僅かに覗く八重歯を見てあなたは思う。

 先輩から連絡が来たのは今朝のことだった。

 うっすらとした寝不足のなか、それでも講義に出席すべくのろのろと朝食を取っていたときに、スマホに先輩からのメッセージが届いた。確認すれば『渡したいものがあるから今日会えないか』と簡潔な文章があり、講義と構内の混雑具合を互いに調整した結果、いつもの喫煙所で待ち合わせることになった。約束の時間より少し早く待ち合わせ場所に顔を出せば、先輩はぼんやりとした表情で吸い殻入れの傍で紫煙を燻らしていた。

 そうして遅くなったことを詫び、前置き代わりの曖昧な雑談を交わし、先輩が二本目の煙草に火を点けてから、本題――兄の協力とそれに関する返礼――が切り出されたというわけだ。

 うまくいったんですかとだけ問えば、ゆっくりとした頷きが返ってきた。


「考えてたよりははるかに、っていうか完璧に上手くいったけど、うん――結局根っこのところは最後までどうにもならなかったんだよな、仕方ないけど」


 唸りを立てて強風が吹き抜けた。蝉の声は一瞬途絶えてから、また何事もなかったかのようにかまびすしく響く。


「このまま行ったら、いくとこまでいくしかなかった気がするし、それよりはマシなんだと思う。兄貴か俺か、故意か過失かはともかく、そういう終わり方しかなかっただろうしな」


 ――いくとこまでいってたろうし。

 昨夜の夢、曖昧な夜闇の中で聞いた言葉を思い出す。声も人も違うはずなのに、口調だけはやけに似ていたのは、兄弟だからだろうか。

 先輩は溜息のように長々と煙を吐いた。骨張って痩せた、大きな蜘蛛に似た指先に挟まれた煙草はじりじりと短くなっていく。


「でもさ、お前の兄さん何であんなことできたんだろうな。咎める気とかは全然ないし、そもそもそんな立場じゃないけど。……あんなのとても俺にはできないし、っていうか」


 ぶつりと言葉が途切れて、あなたは先輩の顔を見つめる。口元から吐き出された紫煙が揺らいで、夏の日射しに霧消する。


 あなたは先輩が何をする気だったのかは知らない。兄が何をしたのかも知らない。先輩の兄がどうなったのかも当然知らない。けれどもこれまでに知った些細なあれこれや昨晩の夢枕のことを鑑みれば、およそ不穏な想像ばかりが浮かぶ。安直でな悲劇で、愚かな帰結だ。運が良ければ悪ければ数日後のワイドショーで兄弟の確執と愛憎、と扇情的な文句と共にお決まりの倫理と人間性に基づいた糾弾が為され、いつしか記録の一つとして忘れられる類の『事件』だろう。

 ただその想像に確信を持つには、先輩があまりに平然としている。何事もなかったかのように、茹だるような熱気の中でマルボロの煙を燻らせている。そのありようをどう理解するべきかを、あなたは迷っている。


『お兄さんはどうなったんですか』『先輩はどうしたかったんですか』『俺は兄に何をさせたんですか――浮かぶ疑問は声には出せないまま、吐いた煙と共に熱気に滲んで溶け消えた。


 先輩の咥えた煙草の先、赤が灯る。白い日射しの中でどことなく作り物めいて見えるのは、熱の揺らめきが薄れるからだろうか。どうでもいいことをあなたは思う。

 蝉はまだ鳴いている。ざあざあとした鳴き声と、遠くを吹き抜ける風の音。その合間に、あなたは先輩の煙草が燃える音を聞いたような気がした。


「とりあえず俺が言えることとしては、せっかく兄さんがいるんだから、お前はちゃんと大事にしなよ。あんないい兄さん、欲しがってももらえるもんじゃないんだから」


 短く吐かれた煙と、伏せられた目元に下りた翳。嘆きも怒りも、もしかしたら喜びさえも曖昧な顔で、先輩は口元を歪める。


「――俺はあの兄さんでも良かったし、もう少し我慢したかった弟でいたかったんだけどな」


 その一言だけ呟いて、先輩は右目だけを眇める。

 翳らぬ夏の日射しの下、墓穴のように黒々とした目があなたをじっと見ている。

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