あの子を例えば殺しても、世界は俺を愛さない

 お休み中に申し訳ない。若い人の貴重な睡眠時間を削るっての、相当に罪深い真似だってのは分かってるんだけどな。他に都合のいいあたりもなくて、君のお兄さんに無理を言って変わってもらったんだよ。どうしても伝えておきたいことがあったし、今の俺の立ち位置としてはこういう時間帯が丁度いいだろうから――ああ、恨み言とかじゃない。むしろそうだな、感謝しないといけないんだ。俺も、あいつも。君がいてくれたおかげで、なんとかなったんだから。先輩ぶって迷惑かけてないか、ぐらいは言ってもいいだろ。俺も結果的にはやらかしたし、君たちに迷惑をかけてるから……どのツラ下げてって話ではあるんだけども。


 説明すんのも躊躇うくらいにはくだらない、他人のいざこざの経緯なんて、金でも貰わないと聞いてらんないってのは分かってる。ただ、需要はなくても説明する義理がこっちにあるんだよな、悪いけど。あとはまあ、単純に話したいってのがある。右や左の旦那様、の口上みたいなもんだ。金寄越せとは言わない、夜の名残に夢だと思って聞いてくれってだけだから……吐き出さないと未練が残るし、そうすると君やお兄さんにご迷惑をおかけするからさ。そういう都合だ。


 事情はあいつから聞いてるだろうし、大体それであってる。ろくでもない兄だよ、俺は。家族全員そう言うし、俺だってそう思ってる。世間から見たらろくでもない人間だから、結局総合的な評価は変わらない。

 何でそんなことしてたらったら、どっちが先か分かんないんだよな。俺の出来が悪かったからあいつのことを嫌いになったのか、そもそもあいつが嫌いだったのか。一応さあ、言い分としては親の扱いみたいなのはあるんだよな。お兄ちゃんだから、っていうよりお兄ちゃんのくせに、の方が多かったみたいな。仕方ないったらそうなんだよな、出来がいい弟と出来の悪い兄ならどっちを贔屓するかったら、考えるまでもないだろ。


 またさあ、あいつ俺より好き勝手させてもらってんの。ほら、俺長男っていうか第一子だったからさ。育て方とか、より正しくより健康にみたいな方向に頑張ってたんだよ。ゲームとかやらせないし、おやつも基本は手作りか添加物ない系のやけに小奇麗なパッケのやつばっかりだったし、学校から帰ってきたらとにかく二時間は勉強机に座ってなきゃいけなかったし。こうしないといけない、ってのが多かったんだよな。あれだ、小さいときに初めて回転寿司に連れてってもらったとき、パックのジュースが流れてきたから嬉しくて取ったんだけど、そしたらめちゃくちゃ怒られてその場でお会計終えて晩飯おしまいってことがあったな。悔しすぎてまだ覚えてる、寿司屋で寿司以外のものを取るってのが駄目だったんだよな、そのときは。何が駄目だったらあれだな、寿司屋で余計なものに手を出すのは行儀が悪いし、食事の最中にジュースを飲むのも悪かった。ツーアウトだな。ひとつ猶予がある気もするけど、その辺はほら、言うことを聞かなかった時点で基礎点枠でつくやつだから。


 多分な、そういうのがきっかけなんだと思う。俺があいつのこと、弟とかじゃなくて敵だと思ったの。あいつはさ、回転寿司屋でチーズケーキを頼んでも叱られなかったんだよ。

 くだんないだろ、もちろんそれだけじゃない。でも、。俺には許してもらえなかったもんを、あいつだけそんなことなかったみたいに全部やりたいだけ許可してもらえる。ゲームだって普通に誕生日に買ってもらえてたし、家帰ってから遊びに行って帰ってきてから居間で晩飯までひっくり返って寝てても起こされなかったし、お小遣い持たされて友達と夏祭りに行って帰りが遅くても、叱られなかった。……誕生日に好きなものもらえてんの、羨ましかったな。俺はさあ、読書感想文の候補に挙がるような本と伝記みたいなもんしか買ってもらえなかったから。ゲームなんて頼んだら殴られただろうな、親父に。勉強もできないのに遊ぶなってさ。理屈だよ、そんでその通りだから逆らうわけにもいかない。俺に理がないもの。

 あいつだけ許してもらえて、俺だけ駄目だったのはなんでなんだろうな。――一応な、俺も中学上がる頃には全部解禁されてたんだよ。もうその頃には勉強できないのも運動もぱっとしないのもバレてたから、だと思うけど。中一で全体総合三百ぎりぎりって感じだったからな。そんなもん、どれだけ丁寧に育てたって甲斐がないって馬鹿でも分かる。手間暇かけてこの程度、空しかっただろうな。俺もだけど。

 つうか、俺への制限が全部無駄だって分かったから、あいつには好きにさせたんだろうね。――それだけでも腹が立つのに、あいつ、そうやって楽しく好き放題に育っておいて、俺より何でもできたから。じゃあ、許せるわけないだろ。敵だよそんなもん、俺より後に生まれておいて、俺のことを無価値だって証明しやがるんだから。


 初めて殴ったの、いつだったか覚えてないんだよな。ちょこちょこ小突いたりはしてたけど、ちゃんと殴ったのはって聞かれると、答えられない。さすがに子供だと洒落になんない怪我するから、高校ぐらいだとは思うけどね。

 暈けた四月の日が射す居間の生温いフローリング、八月の熱を孕んだ風が大窓から吹き込む仏間の遺影が見下ろす灼けた畳、手のひらの熱を吸っても冷やかな十月の夜の壁、冷えて血の気の失せた指先に煙草を挟んで肌の上に翳す十二月のベッド――大概どこでも、あいつを殴った記憶がある。全部が本当かはどうかは分からないけど、きっとどれかは本当だろうとは思う。どうせ忘れたのもあるだろうしな。


 顔とか足とかはやらない。二の腕とか、腹とかそういう隠れるところを、な。陰湿だろ、卑怯だろ、だって見つかると困るから――なあ、言ってることに全部理がないってのも大したもんだろ。全部俺が悪い、でも俺からすれば、俺にこんなことをさせるあいつが悪い。ろくでもないだろ。

 だってさ。

 あいつが抵抗しないから、止めないから、咎めないから。そんなの、駄目だろ。そこで良心みたいなもんで踏み止まれるくらいにちゃんとしてたら、最初からこんなことはしなかったんだよ、俺だってさ、きっと。


 そうだ、実家にいた頃の話、あいつから聞いたろ。雨の夜になると聞こえる声、降る雨に打たれて、水溜まりを跳ね散らかして、ぐるぐる歩き回りながら呼びかける声。

 あいつは気づいてなかったけど、あれ、あいつの声だったんだよ。自分の声ってさ、外から聞くと分かんないんだよな。録音したやつとか聞くと、普段こうだと思ってたやつと少なからず印象が違ってビビることになる。

 『くれます、もらいます、あげます』――怖かったけど、腹が立ったね。何様のつもりだって思った。あげますってのはあれだろ、上の者から目下のものに慈悲を込めてご下賜くださるってことだろ。それを年下の、弟に言われるってのがどうにも我慢ならなかった。――弟に憐れまれるしかない兄なんて、どうしたって惨めなもんだろ。

 暗い部屋で目を開いて、ノイズみたいな雨音と嬉しそうな声を聞いて、じりじり胃が炭でも飲んだように熱を持っているのを他人事みたいに俯瞰して。そのくせ外の声だけどんどんテンション上げてって、それこそあいつが誕生日に欲しかったゲームソフトを貰えたときと同じような浮かれた声になったあたりで、部屋のドアが叩かれる。無視して延々と叩かれるのも面白くないから、開けて引っ張り込んでやると馬鹿みたいに安心した顔をするんだよ、あいつ。それが嫌で、目を合わせないようにしてた。


 暗い部屋の中、ベッドにもたれて床に座り込むと、あいつが隣に来る。そのままじっとこっちを見てるのが、薄暗い中でも何でか分かる。――目を合わせるのが嫌で、何か言うのも面倒で、手を握った。あいつがもっと小さい頃に、両親が買い物に出かけて帰りが遅くなって、ぐずりだしたときにそうしてやったら黙ったからってだけのことだ。どうでもいい、とにかくこの状況をやり過ごしたい、縋ってくるこいつの目を見たくない――聞こえる声が近付くたびに、そういう考えを見透かされてるような気がした。楽しそうなんだよ、俺を嗤ってんのか、責めてんのか、恥じてんのか。ぐじゃぐじゃ悩んで嫉妬して、そのくせ一思いに家族から逃げ出すような度胸もないって見破って、揶揄ってるようだった。

 だから、聞こえるたびに殺してやりたかった。あいつのことも、俺のことも。掴んだ手をそのまま握り潰しそうになって、どうにか堪えた。


 そうして夜に蹲っているうちに、あいつ寝るんだよな。それも神経が分かんなかったけど、静かになるだけマシだと思った。

 あいつが寝た後はどうなったかったら、終わるんだよ。

 ぱしゃぱしゃぱしゃって小走りに足音が近づいてきて、部屋の窓、その真下で止まる。息を吸う音が、揃えた爪先が当たる音が、聞こえるわけもないのに

「この度もご愁傷さまです」

 長い間があってから、ぱしゃ、ぱしゃ、ぱしゃ――卒業式で舞台を歩くみたいにゆっくり足音が遠ざかって行って、夜には雨音だけが残る。

 そうなったらもう何もないから、俺は手をほどいてベッドに上がる。あいつに寝床を譲ってやる義理はないけど、風邪を引かれたらダルいから布団ぐらいは余分の一枚を掛けてやる。それでようやく横になれて、冗談みたいに眠り込む。……あとはまあ、普通の朝だ。何も起きないし変わらない、ただ日が昇ったから一日が始まる、それだけの朝。俺は相変わらずうんざりするくらいに無能だし、あいつはそつなく何もかもをこなして元気に生きてる。だから腹が立つし、羨ましいし、殴る。――つまんないんだよ、何もかんも。だからこそ止めようがなかったんだけど。


 それから俺もあいつも実家を出て、声は聞こえなくなった。けど、俺はあいつを殴ってたし、あいつは俺に抵抗しなかった。だから、ずっと続いた。それだけのことだったし、だから終わった。君のお兄さんのおかげでな。


 まあ、このままだったらいくとこまでいってたろうし、そうしたら結局俺はおしまいだったろうし。そう考えると、お前の兄さんに感謝しないといけないんだろうな、多分。マシな終わり方ができたってことだよ。俺にとっても、弟にとっても。

 本当なら枕元に立つ、ぐらいはしても良かったんだがな。さすがにこう、寝つきが悪くなるようなありさまだからな。あんまり夢うつつに見て楽しいようなもんでもない。だからこういう半端な真似で済ませてる。顔も出さない不義理をお詫びします、ってのも添えた方が良かったのかもしれないがね。


 だから、これっきりだ。お兄さんによろしく、感謝してますって言ってたことは重々伝えといてくれ。おっかないもんなああの人、あれが君のお兄さんっての、とんでもないことだと思うよ。自覚があんのか知らないけどさ……ああ、まあ、いい意味でな。だって君の兄なんだろ、だったら君にひどいことはしないに決まってんじゃん。兄ってそういうもんだろうし。――俺が言うと冗談みたいだけどな、仕方がない、俺は兄にはなれなかったからこうなったわけだしさ……。


 ――ああ、そうだな、あいつにもよろしく。俺は兄になれなかったけど、あいつは弟だったからさ、きっと。今更だけど。

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