風も動かない熱帯夜、いつかの夏

 多分今こそ夏本番、なんだよな。七月も半分、二度目の梅雨もようやく明け、ってわけだから。

 いや、六月どころか五月からずっとじりじり焙られるみたいな日が続いてたろ。そのせいで今更感があるんだよな。夏っていうかずっと暑いじゃん、みたいなさ。昼の日射しは確かに凶暴になってるけど……ああ、夕立もすごいことになってるよな。雷がんがん鳴って雨ばたばたっと降って、ちょっとすると停電とかする。風情どころじゃないんだよな、災害だろ。炊飯器の予約とか、テレビの番組予約とか吹っ飛ぶから嫌なんだよな、停電。そもそもさ、あれだけの雨に傘なしでぶち当たったらスマホとか駄目になるんじゃないのか。蝉時雨も最近じゃあ夜までざあざあうるさいし。夏の雨、どうも凶暴でよくないな。危ない。


 ん、こないだのことは――そうそう、先輩。ごめんな、気を付けてたのに結局かち合っちゃってさ。楽しく二人で家飲みしてるところに、兄だっていきなり割り込んだら迷惑以外のなんでもない。本当に悪かった。

 先輩に何を話したってのは、お詫び代わりのちょっとしたアドバイスみたいなもんだから、別に大したもんでもないけど。少なくともお前が気にするようなことじゃないし、迷惑とかもかかんないと思う。大丈夫だって、先輩にも悪いようにはしないから。だってお前の先輩だろ、それなら大事にしておかないと。ところであの後、お前どこまで付き合ったの……へえ、午前三時まで。途中でコンビニに追加のあれこれ買いに行って、そこからひたすら飲んで食べてってのも修行みたいだな。いや、分かるよ。先輩が潰れる寝るまで放っておけなかったとかそういうのだろ、お前のことだし。それで明け方近くまで飲みに付き合えるあたりは若人って感じがするけどさ。


 じゃあ、あれだ。今日はその辺の話をするか。夏で、若人で、夜の話。三題噺っていうには雑だし、そこそこ……何だ、ありふれた類の話だろうけども、眠たくなるまでの暇つぶしならそのくらいがちょうどいいだろ。


 夏の若人ったら肝試し、それなりに定番っぽさがあるよな。夏限定の夜遊び、みたいなもんなのかね。大学生がやらかすのはあれだよな、暇があって情報やら移動手段もそこそこあって悪乗りに付き合ってくれる友達もいて、親元離れて好き勝手ができるって解放感からの悪ふざけみたいなやつ。分かってる、お前はそういう馬鹿を実行するタイプじゃないってのは俺はちゃんと知ってる。でもさ、やっぱり一定数はいるだろ、そういう馬鹿。寝付けない夜を持て余して、部屋でうだうだ管巻いてんのも飽き飽きしたって夕涼みとか言い出して、その手の事故現場とか廃屋に足を運ぶような連中。

 大学のときの後輩にそういうやつがいてさ、そうだな、鈴村っていったか。そういう訳ありのところを見物するのが好きってやつだったんだよ。しかも誰かしらとつるんでとかそういうのじゃなくて、一人でつらっと行っちまう。何でそんなことしてんだって聞いたら、暇なんですよね映画とか漫画もよく分かんないから外出るくらいしかすることがなくって、とか絶望的なこと言ってたな。お化けは信じてないけどそれだけで、お化け退治とか噂の証明とかそういうのもどうでもよくって、ただ暇つぶしにそういう場所に足を運んでるってタイプ。普通に夜のお散歩とかジョギングとかじゃ駄目なのかよって思ったけど、まあ本人が選んだんだから口出しのしようもない。


 で、そうやって無闇に心霊スポット回ってるやつだったから、聞いてみたんだよ。一番怖かったところはどこかっての、喫煙所でかち会ったときに、何となく。


「宮さんちですね、あれは気持ち悪かった」


 咥えた煙草に火を点ける間もなく、答えが返ってきた。

 早かった。ほぼノータイム、迷う余地なんか少しもなかったみたいな速度だった。


「お化けかどうかは分かんないですけど、分かりやすく変なことがあったんで、嫌です」


 『宮さんち』ってのが、その心霊スポットの通称。そういうのってさ、何たらさんちとかふんふふの家みたいなやつがそれなりにテンプレートみたいになってる感があるよな。

 その宮さんちがどういうところかったら、人が死んだ家なんだよな、端的に言えば。娘目当てのストーカーが入って一家惨殺とか、受験だか恋愛だか仕事だかとにかく何かしらでおかしくなった娘が両親と弟殺してから自分も首ざっぱり裂いたとか、娘が病死だか事故死してからばたばた残った家族も死んだとか、そういう感じの由来つき。とにかく娘がいたらしいし、家族がみんな死んだらしいってとこだけ共通してる。その家がとにかくヤバい、夜な夜な庭先に真っ黒な人型のなにかがぼんやり突っ立ってる、二階のベランダの窓が一枚だけ夜中になるとべかべか真っ青に光る、たまに玄関の扉が開いていて、そこから見える三和土たたきのところにぎっしり靴が並んでる――そういう話がいっぱいある。

 玄関、開くんだってさ。廃屋、っていうか人が住んでない家なのに、鍵がかかってない。レバーに手を掛けると、軋みもせずに開く。何でだろうな、出入りする人間が多すぎて掛けても壊されるからやめたとか、そんなことを気にするような人間も残ってないとか、まあ色々考えられるけどろくなもんじゃない。――中にまだいるから、ってのもありかなって思うけどね、俺は。出てってくれないから、鍵もかけられない。閉じ込めればいいったって、ほら。かわいそうだろ。


 大学の夏休み、試験終わりの金曜の夜。家でうだうだ酒飲んでるのも何となく飽きて、そういや最近バイト先の先輩から近場の心霊スポットの話を思い出して、じゃあ散歩に行こうかって外に出た。――実際さ、鈴村の住んでたアパートの近所だったんだと。徒歩二十分、表通りの方からは離れて、住宅街の方にとろとろ歩いて、家々の群れの端っこ。二階建ての一軒家で、低めの塀の向こうに狭い前庭があって、そのまま裏の方まで芝生が続く感じ。ぱっと見で廃屋、っぽさはなかったんだと。荒れ果ててもないし、汚れても壊れてもいない。窓に夜が映って黒々としているのに妙な圧があったけど、それだって時間帯のせいだって思える程度だった。

 玄関のレバーに手を掛ければ、引っかかりもなくドアが開いた。噂通りなんだ、って少しだけびっくりした。けど、それだけだったから、入った。当たり前だよな、ドアが開いたら入れるってことなんだから、そこで逃げるのも今更だろ。ただ、サンダルは脱いだってさ。そうしないといけないような雰囲気があった、って鈴村は言ってた。

 ひたひた生温いフローリングの床を踏んで、ぐるっと一階を回った。玄関から短い廊下、そこから居間、カウンター向こうのキッチン、横の洗面所と風呂場――家の造りは何にも変わらないし、やっぱり中も荒れてない。テーブルとかソファとか、それこそ台所は食器棚とか……家具は、っていうかほとんどのものが綺麗に残ってるんだってさ。埃っぽいとかもない、それこそまだ誰かしらが住んでるんじゃないかって思えるような具合。空き巣っていつもこんな状況で作業してるんだろうか、とか思ったってさ。そのくらいに廃屋っぽくなかった、ってことなんだろうけど。人が死んでるってのも、疑わしく思えるくらいにはだったってさ。血痕とか異臭とかそういうのも一切ない、ただ暗い家。

 風呂場からドアを抜けて廊下に出て、また玄関が正面に見えた。鈴村、どうするか、って迷ったんだと。二階に上がってもいいけど、階段はさすがにこの暗い中で登るのは怖いし、降りるのももっと怖い。おばけがどうこうっていうより、しくじって落ちた場合は普通に死ぬから、って理由だったそうだけど。

 ――あんまり長居しても、面白いことはなさそうだな。

 とりあえず帰るか、と玄関に向けて短い廊下を歩く。一歩、二歩、裸足の足裏に生温い夏の夜闇の滲んだ床が張り付く。


「すみませんでした」


 声が聞こえて、足が止まった。聞こえた方を見ると、襖がある。びったり閉じられているから、向こうが何の部屋かは分からない。薄闇の中でほの白く浮かぶ襖、その前でしばらく突っ立ってた――その間も、声は聞こえた。


 謝ってるんだってさ。鈴村さんごめんなさい、鈴村さん許してください、申し訳ありませんでした鈴村さん、鈴村さん――淡々と、息継ぎの合間もないような滑らかさで、ひたすらの謝意だけを述べる声。


 名前をね、呼ばれたんだと。明らかに鈴村って言ってる。男か女かも曖昧な、なのに暗い夜を伝って滴る雨音のように、やけに徹る声。もちろんその声には覚えがないし、そもそもこの家で名前を知ってるやつがいるわけがない――生きてるやつでも、それ以外でもな。

 さすがにね、逃げたって。踵を返して玄関向かって框に脱ぎっぱなしにしてた靴履いて、玄関から飛び出した。あれで玄関開かなくなってたら俺気が狂ってましたね、って鈴村はしみじみ煙を吐いてた。それでようやくかよ、とも思った。言わなかったけど。

 で、それでおしまい。俺が卒業するまでの間、別に祟りとかもなく元気に過ごしてたな。留年もしてなかった。飯もうまいし夜もよく眠れる。病気もない。貧血もない。馬鹿だから風邪もなかなか引かない。

 でもたまに、声が聞こえるんだとは言ってた。玄関で履き慣れた靴に足を突っ込んで、ドアを開けて外に出ようとする瞬間。背後から、あるいは耳元で、ごめんなさい、って微かな声が、聞こえる。でもそれだけだからどうでもいいですね、気のせいってことにしてます、ってことだった。本人がそれでいいなら、俺もそれでいいと思った。


 理屈、ないよな。いつも以上に訳が分からない話だろ。

 一応、説明はしようと思えばできるんだよな。玄関の鍵がかかってない、誰でも出入りが自由なら簡単だ。鈴村の名前を知ってるやつがそこの仏間に居て、謝ってた――現象としてはこれで起こせるわけだ、物理的に不自然なところは何もない。何でそんなことをしたんですか、ってのと誰がそんなことをするんですか、ってのが難しいけど。そもそもそこのスポットに鈴村が行ったのもその夜の思い付きだからな、その行動を把握して先回りできたかったら……まあ、可能不可能で言えば、できる方にはなるか。鈴村を監視していて後をつけて、隙を見て仏間に潜む、でいけなくはない。たまに聞こえる声については気のせいっていう伝家の宝刀がある。鈴村もちょっとは気にしてるが故の幻聴、みたいな。

 ただ、こうやってできる理屈をつけていくほど、できない方がマシになってくる。得体のしれないものがどうしてか名前を呼んで詫びていた、それだけで片付けるのが一番無難な決着になるんだよな。真っ当に社会の一員として生活しているかもしれない生身の人間が気色の悪くて訳の分からんことをしているより、最初から人間でさえないものが怪しい真似をしてくる方がまだ受け入れられる。……どうだろうな、どっちがマシかってのは、人によるんじゃないのか。

 要はさ、『どうしてそんなことをしたのか』の説明をどうつけるか、って話だろうし。人間だったら愛憎なりなんなりの理屈が立てられるだろうし、おばけだったら元から人の理外にいるものだから諦めがつく。そこさえ納得できれば、意外と飲み込めるんじゃないかなとは思ってる。そういうものだから、で受容できればそれでおしまい。それ以上にごちゃごちゃ考えると面倒になるだけだろうしな、何でも。


 じゃあ、おやすみ。あれか、大学生はそろそろ夏休みか。熱中症と夏風邪に気をつけろってのは――そうだな、ずっと言ってるな、俺。だってお前のことだから夜遊びだって常識の範囲内で済ませるだろうし、酒飲むにしたって病的な飲み方はしないだろうし、悪い友人もいないし、先輩は悪い人じゃないし。じゃあもうあとは体調管理ぐらいしか心配することがないんだよ。一人暮らしでぶっ倒れると、そのまま死ぬのも普通にあり得るし。兄さんがいるからっても、できることとできないことがある――勿論お前のことを助けたいし、死んでほしくはないけど、な。

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