第24話 契約終了です。えっ?
夕陽の中、不知火と星子は京の町を並んで歩いて帰った。
ひとりで足早に通り過ぎる人、男女のふたり連れ、女子の群れ、子供たち、その人々に混じって歩くのは楽しい。私たちは、恋人同士、または仲のよい夫婦と見られているのかしら。
屋敷はもうすぐである。
星子の顔に、喜びと安堵の表情が広がっていく。これまでの苦労、危険、そして諦めそうになった夜のことが、走馬灯のように脳裏をよぎった。でも、今は、楽しかった、が気持ちの一番上にある。
「予定より長くかかりましたけど、終わりましたね」
星子が弾んだ声で言った。
不知火が立ち止まって、向きを変えた。
「ちょうど二年、経ちました。星子に、深く礼を言います。あなたがいなければ、解決できなかったです」
そう言う彼の顔に疲労の影は見えても、喜びの色が見えないのは、どうしたことだろう。
「今夜はお祝いですね。私が料理をします。虫料理ではないですから、ご安心を」
「ありがとう。でも、それはあなたの自由です」
えっ、なに、突然のこの冷たさ。星子の顔から、微笑みが引いた。
「婚儀の契約に署名をした日から、二年が経ちました。その約束が今日、完了しましたので、今から、星子さん、あなたは自由です」
星子さん、ですか?
星子はしばらく黙っていた。
風が頬をなでた時、初めてその言葉の意味が、胸に刺さるように染みてきた。
「あやかしが、私を恐ろしい女だと言ったから、怯えてしまったのですか。あなたを食い殺すと言ったから、逃げようとしているのですか」
「いいや。あなたが突然、むちゃなことをするのには、驚きましたが、恐れているはずがないです」
「では、なぜ」
「大事なことは、署名までした契約は、どうしても守らなければならないということです」
「不知火さま、その契約以外にも、大事な約束をいくつもしましたね。それは、どうなりますか」
「だから、それはあなた次第です」
「紙に書いていない約束は、果たさなくてもよいと思っているのですか」
「それは、あなたの自由です」
「ひとりでは、できないことはどうすればよいのですか」
「……」
「私は母のことはなにも覚えていないので、過去のことを聞かされても、気にしません。それに、皆が見捨てても、育ててくれた婆やがいて、慈しんで育ててくれました。でも、あなたはそうはいかないのでしょうか。自分が親のようになるかもしれないことが、こわいのですか。だから、目の前に出会いがあっても、見ないようにしたり、避けたりしているのではないですか」
「……そうではない」
「じゃ、何ですか」
「婚姻の契約期間が終わったと伝えただけです」
「そうですか」
この石頭のいくじなし、と星子は憤慨した。
「わかりました。では、自由にさせていただきます」
星子はくるりと背を向けて足早に去った。
でも、しばらく歩いて振り返ると、不知火がまだ先ほどの場所にぽつんと立っていたので、思わずため息をついた。
彼はそういう人だ。でも、今、自分がここから去ったら、彼はじっと我慢して、寂しい人生を生きていくのだろう。
「それでよいのか、星子」と自分に問いかけてみる。
いいえ。
私は不知火さまに、寂しい日々を送らせたくはない。
ああ、仕方がない。
手のかかる男だ。
でも、手のかかる男は、嫌いではない。
星子は不知火の立っている場所に戻った。
「質問です」
と星子が怒ったように言った。
「またあやかしが現れたら、どうするのですか」
「その時は、また契約をお願いします」
「紙に書いて、署名ですか」
「はい」
またそれですか、と星子はうんざりした。紙が好きな男だ。
「では、再契約する時には、また結納金がもらえますか?」
「あなたはお金が必要なのですか?」
「はい。田舎にいる婆やが、早く都に戻ってきたいと泣いています。でも、うちに帰ってきても、畑仕事ができないので、庭に池を作って、そこで魚を育てたいと思っています」
「鯉ですか」
「いいえ。フナとかナマズですかね。市場で売れるでしょう」
「売るのですか」
「もちろん。私、勉強はだめでも、商売の才能はあるみたいです」
不知火が少しだけ表情を和らげた。
「お金はある程度は用意できますが、前ほどの結納金は払えません。今回のことで評判になり、弟子が倍に増えましたから。値下げしてもよいですか」
「それでは再契約ではなくて、契約延長にしたら、いかがですか。そうすれば、結納金はいらなくなります」
「それでよいのですか」
「はい。私はケチではないので」
「ありがとう。では、池はどうしますか」
「自分で掘ります。でも、ひとつだけ条件があります」
「それは、何でしょうか?」
星子は、ふふっと笑った。
「その前に聞かせてください。不知火さま、あなたは私をどう思っていますか?」
「どう思うって……」
「あなたの気持ちがさっぱり伝わってきません」
「伝えてきたつもりですが……」
「伝わっていません。時々、伝わりかける時がありますが、確かなところがわかりません」
「こういう性格なので、すみません」
「いやです。性格のせいにして、謝って、済ませようとしないでください」
不知火が困ったように眉を寄せた。星子がじっとその顔を見つめていた。
「じゃ、どうすればよいですか」
「まずは、私に心のこもった和歌を贈ってください」
「……漢詩でもよいですか」
「だめです。私は漢字は苦手です。では、よろしく」
そう言い残すと、星子は軽やかに背を向けた。不知火は、手の平で額を叩き、消え入りそうな声で「まいったな」とつぶやいた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます