第19話 「桜花童子」を舞う少年



 それから一年半の時が流れた。

 不知火と星子は、地図に赤丸がついた箇所へ次々と出かけ、星子が「あやかしの道」を見つけ、不知火が封印していった。

 京都の町には平穏が戻り、「花隠れ」の庭の修復もついに終わった。


 その祝いと、時明親王の全快と桜子内親王の供養を兼ねた式典が、宮廷にて大々的に開催されることになった。

 その催しのひとつとして、古式ゆかしい舞楽「童楽どうらく」の奉納が決定された。童子の姿をした舞い手が、天上の祝福と哀惜の想いを舞に託して捧げる、宮中でもとりわけ由緒ある演目である。


 今回その舞を務めるのは、京都で評判の若鹿座の人気舞手、十五歳の霞若かすみわか。彼が舞う演目は「桜花おうか童子どうじ」である。


 その舞台となるのは格式高い「豊楽院ほうらくいん」で、不知火と星子も招待状が届いた。星子は、初めて目にする本物の「舞」を思うと、当日が待ち遠しくてならなかった。


「星子、最近ずっと楽しそうだね」

「はい。だって、大好きな舞を見られるんですもの。もう、わくわくして仕方がないんです」

「大好きって、見たことが、あるのかい」

「それが、一度もないんです」 星子は少し頬を赤くした。「券は高くて手が届かないし、そもそも手に入れるのも難しくて……もし運良く手に入ったとしても、着ていけるような着物なんて、持っていませんでしたから」

「星子でもそういうの、気にするのかい」

「もちろんですよ。不知火さまは、何か私を誤解されていませんか」

「そうだろうか」

「私、不知火さまが思っておられるより、ずっと繊細な人間です」


 繊細な人間が自分で繊細と言うだろうか、と不知火は吹き出しそうになったけれど、表情には出さなかった。


「式典には、藤原ふじわら孝道たかみちさまが出席なさるそうだよ」

「あの関白の」

「そうだよ」

「そういう方々が来られるのなら、何を着ていけばよいかしら」

「好きな着物を用意すればよい」

「はい。では、失礼して、呉服屋さんに、相談に行ってまいります」

 星子は満面の笑みで、まるで飛ぶようにして、部屋を飛び出して行った。

   

*


 その日は、抜けるような春の青空が広がっていた。

 豊楽院へと続く回廊には、色とりどりの衣を纏った貴族たちが集い、それぞれが期待に胸をふくらませて、ざわめきが満ちていた。

 

 星子も、今日のために選んだ薄紅の小袖に身を包み、慣れない場所と華やかな人々の雰囲気に、少々緊張していた。

 不知火はそんな星子の隣にいて、時折、目を送っていた。仕事をしている時の表情とは全く違う少女のような様子が、愛しく思えたのだった。

 やがて、人々のざわめきが次第に静まり、舞台の幕がゆるやかに上がった。


 「桜花童子」は、三部から構成されていた。

 霞若は仮面をつけず舞台に進み、淡い紅をさした顔を静かに上げた。

 

 なんて美しいの。

 星子が思わず、不知火の腕を叩いたが、本人は気がついてはいない。

 でも、思わず息を呑んだのは星子だけではなく、観客のほとんどが、心を射抜かれた。 


 霞若は白い小袖に若草色の袴をまとい、額には桜の花びらを象った飾りをつける。背には、上部分を封じた小さな袋を負っている。彼は清らかな童の姿でありながら、妖艶な気配をまとっていた。

 

 しょう龍笛りゅうてきの柔らかな調べが響く中、霞若は舞台の中央で、袖をゆるやかに広げ、風の道を探るように、静かに舞い始めた。この段ではまだ花は咲かず、童子の顔には淡い憂いが滲んでいる。

 

  篳篥ひちりきが加わり、旋律は少し明るさを帯びる。霞若は軽やかに舞い跳ね、袖を翻しながら踊った。

 

 彼が背の袋に手を伸ばし、結ばれていた紐を解いた。

 すると、風が吹いた。

 舞台上に散り始めた花びらが、光と風の幻想的な美しさを際立たせている。


「袋の中にはいっていたのは、風なのね」

 本当に、風が吹き、星子の髪がそっと揺れ、頬に春の気配が触れた。


 舞台の上では、花びらが舞い始める。光が反射し、風に乗って流れるその一片一片が、まるで夢のようだった。

 霞若の舞は続く。


 そして、霞若は一輪の花を手にした。

 音楽はやや切なさを帯び、童子は自らの任を終え、季節の境に立つ。そして、一輪の花を手に取り、それを天へと捧げるように高く掲げ、深く礼をした。


 その瞬間、桜の花が、天から静かに降ってきた。

 花びらが、星子の肩にも落ちた。

 まるで夢幻の中にいるようで、その息をのむほどの美しさに感動して、言葉が出なかった。

 

 桜の花がゆっくりと舞い落ち、差し込む光の中、霞若の姿は静かに遠のいていく。美しい人が去っていくのは寂しい。ああ、行かないでいてくれたら、どんなにかいいのに。


 そんな舞楽の余韻に浸っていた時、会場に不意の声が聞こえた。

 それは、関白・藤原孝道が、人目もはばからず号泣し始めたのである。時の権力者が肩を震わせて泣く姿には、誰もが度肝を抜かれた。



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