第3話 笑顔は禁止

 翌朝、星子は鳥の声で目覚めた。昨夜は不安が押し寄せたが、途中からぐっすり眠ってしまった。いつもの部屋の様子とはまるで違う。布団も寝心地がよいし、空気も澄んでいる。


 ここは、大きな寝殿の一隅、仄かに香の残る白い帳の中。星子は身を起こして、白衣のまま庭を見やった。あれから、不知火は出ていったまま帰ってこなかった。

 夫となった人は、床をともにすることはないなどと不思議なことを言ったことを思い出した。ほっとする気持ちとショックとが入り混じっている。まあ、なるようにしかならない。そろそろ食事が運ばれてくる頃だ。


 庭では、夏椿の白い花が咲きはじめている。紫陽花、睡蓮、花菖蒲が咲くこの庭は美しい。

 よく手入れがしてあるわ。うちの庭ときたら、ナズナが生えているというのに。


 不知火さまは、この貴族の血がほしいのではなかったのかしら。でも、昨夜は手を触れてはくれないどころか、顔を見てもくださらなかった。どこがそんなに気に召さないのかしら。人から好かれていないということは、寂しいことだわ。

  

 そこへ、女房の鏡が静かにやってきた。

「ご主人様が、あちらへお越しくださいと言われております。奥殿にてお待ちございます」

「不知火さまですか」

 星子の心が少し騒いだ。

「失礼しました。お待ちなのはご当主様、賀茂八虚空やこくうさまでございます」

「は、はい」


 彼とは一度、会ったことがある。

 女房が星子の身支度を手伝い、案内して連れて行ったのは、屋敷の最奥の部屋で、物音がしない。


 この屋敷は、都の北にあるのだが、都に長く住んでいても、その場所を知る者は少ない。彼らはここから都の中央にある陰陽寮に通うのである。

 陰陽寮とは国が作った専門機関で、天文観察、暦の作成などを扱っていると女房が教えてくれた。


 賀茂家が代々担当していたのは占いと呪術の儀式だったが、八虚空の後からは別の陰陽師家が担当し、賀茂家は書類の管理部門に回されていた。しかし、今回、その以前の役目を、不知火が受け持つことになったのだという。


「それは名誉なことでございます。よろしくお願いします」

 女房の鏡はそう頭を下げたのだが、星子は何をお願いされているのか、よくわからない。風変わりな夫の面倒を見てくださいということなのだろうか。


 白いしめ縄の張られた扉の前で、紫色の着物を着た賀茂八虚空が待っていた。

「結婚の義、おめでとう。この日を迎えしは、星々の導き、宿命の巡り合わせなり」

「ありがとうございます。よろしくお願い申しあげます」

「はい。よろしく」

 と、彼が笑った。この祖父は穏やかで、孫とは正反対に見える。


「星子さん、あなたは本当によく似ている」

「先日も、私が誰かに似ていると言われましたが、どなたのことですか」

「こちらに来なさい」

 

 聞き返す間もなく、老師はふすまを開け中に導いて、緑と金色の絹地の巻かれた巻物を示した。

 中に、女性の姿が描かれていた。

「真柴月子様」


「月子って、私の祖母。真柴は母の旧姓」

「そうです。あなたの祖母の月子様は、幽世かくりょの巫女でございました」

「幽世とは」

「あやかしの住む世界のことです」

「では、幽世の巫女とは」

「あやかしと疎通ができる特別な巫女です」

「ええっ。はい」

  

「星子さん、あなたの祖母が幽世の巫女月子様で、あなたはそのお孫です。私はあなたをずっとお探ししていたのですよ。三条のお屋敷から、突然、いなくなられてから、行方がわかりませんでしたから」

「覚えているかぎり、私はあの都外れの家に住んでおります。あのう、人違いではありませんか」


 老陰陽師が星子の額をそっと撫でた。指先から、淡い光が立ちのぼる。

「あなたが、幽世の月子巫女子様のお孫であることは確かなことです。今、世の中は、あなたの力が必要です」

「ちょっとお待ちください。話がわかりません」


「たとえ、私が幽世の巫女の孫だとしても、私は巫女の経験などありませんし、魔術的なことなどは、何ひとつしたことなどありません。何かを期待をされたしても、私にはできません」

「魔術ですか」

 と老人が笑った。「まずはお茶など飲んで、話をしようではないですか。あなたとお会いできるのを、楽しみにしていたのですよ」

「はい」


*

 お茶と珍しい茶菓子が運ばれてきて、これからいただこうという時になって、青い直衣姿の不知火が現れた。


 昨日と同じく白く冷たい顔だが、その瞳の奥に、昨日とは違う表情がちらりと見えたので、星子が微笑んだ。すると、彼はすぐに拒絶の目に変わった。


「大殿、何か話されたのですか」

「いいや、特別なことは何も話していない」

 と八虚空は取り繕うように言った。


「肝心なことは私が伝える手順なはず」

「わかっておる」

 

 不知火が星子のほうを向いた。

「星子、すでに伝えてあるように、我々は夫婦になったとはいえ、心を交わす必要はないのだ」

 不知火がやや大きな声を出した。まるで、祖父に聞かせるかのように。

「感情は術を乱す。そのことは理解してほしい」


「なぜ、そのように言われるのですか?」

 星子が質問するとは予想していなかったようで、彼の瞳に怒りが見えた。


「感情は、弱さです」

「意味がわかりません」

「あなたにはわからないでしょうが、それはどうでもよいこと。大事なことは、私があやかしを調伏すること。それだけです」

「……、でも、感情は強さなのではないでしょうか」

「違う」 

 と不知火がむっとして、首を横に振った。


「では、行きましょう」

「どこへ」

「あなたの部屋に決まっています」

「はい」

 星子は珍しい菓子に心を惹かれていたが、大殿に礼をして、しぶしぶと不知火の後に従った。


「星子さん、また来なさい」

 八虚空が後ろから声をかけると、不知火が振り向いて、じろりと睨んだ。


 星子の部屋の前まで来ると、不知火が立ち止まった。

「言っておく。決して、笑顔を見せてはならない。私を見て、微笑むな」

「それは、なぜですか」

「感情は精神を乱す。呪術の邪魔だ」

「そうでしょうか」

「そうだ」

「でも、生きていたら笑ったりしたいじゃないですか。笑わないで生きていて、何が楽しいのですか」

 

 彼がじろりと見た。

「あなたは質問が多すぎる」

「だめですか」

「だめだ」


 あやかしを退治するのは大切なことだとは思うけれど、それにしても、お堅すぎじゃないかしら。星子は去っていく不知火をじっと見ていた。

 お顔といい、雰囲気といい、正直、心惹かれてしまう部分はあるのだけれど、何かとても残念な人。性格が問題。どうにかならないものかしら。





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