第7話『君を守るということ』
八月も、もう終わりに近づいていた。あれほどまでに猛威を振るった太陽の力も、心なしか少しだけ勢いを弱め、朝夕の風には、秋の気配がかすかに混じり始める頃。地上を支配していた蝉時雨は、いつしか、もの悲しげなひぐらしの鳴き声へとその主役を譲っていた。
俺、桐島レンとひかりの関係は、夏の盛りを過ぎたこの季節のように、穏やかで、満ち足りた時間の中を、静かに流れていた。
大学の図書館の、窓際の席。傾きかけた西日が、蜂蜜色の光の帯となって、古い木製の長テーブルの上に長く伸びている。空気中を舞う無数の埃が、その光の道筋の中で、まるで銀河の星々のように、きらきらと輝いていた。
俺は、レポートの参考文献を広げ、ひかりは、その隣で静かにノートを取っている。聞こえるのは、ペンが紙の上を走る、さらさらという乾いた音と、遠くで誰かがページをめくる音だけ。この、言葉を交わさずとも心地よい沈黙が、今の俺たちの関係を何よりも雄弁に物語っていた。
時折、集中力が切れたように顔を上げたひかりと、視線が合う。彼女は、悪戯っぽく、小さく笑う。俺も、つられて笑う。ただそれだけで、胸の奥に、温かい何かがじんわりと広がっていくのを感じた。
俺は、もう彼女を試すようなことはしなかった。駆け引きも、計算も、必要ない。彼女が他の男友達と楽しそうに話していても、以前のような黒い嫉妬の炎が燃え上がることはなくなった。もちろん、胸の奥がちくりと痛むことはある。でも、その痛みを、彼女を縛り付けるための鎖にしようとは思わなくなった。
それは、彼女が愛おしいからだ。彼女の笑顔を、曇らせたくないからだ。
ひかりは、あのカフェテラスでの一件について、俺に何も話さなかった。ミサキに、一方的に心無い言葉を浴びせられたこと。その事実を、彼女は自分の胸の中だけに仕舞い込んでいるようだった。
俺を悩ませたくない、という彼女なりの優しさなのだろう。そのことが分かるから、俺も何も聞けずにいた。その小さな沈黙は、俺たちの間に存在する、一種の思いやりであり、同時に、嵐の前の海のような、不気味な静けさを含んでいるようにも思えた。
図書館からの帰り道。空は、燃えるような茜色に染まっていた。ひぐらしの「カナカナカナ…」という鳴き声が、まるで世界が終わる前の最後の歌のように、あたり一面に響き渡っている。
「レンくん、今日、なんかあった?」
並んで歩きながら、ひかりが不意に尋ねてきた。
「え、なんで?」
「ううん、なんとなく。いつもより、静かだから」
彼女は、時々こうして、俺の心の、ほんの些細な揺らぎにも気づくことがある。
「……別に、なんでもねえよ」
俺は、少しだけ照れくさくて、そっぽを向いた。本当は、考えていたのだ。この穏やかな日々が、永遠に続けばいいのに、と。そして、そんなことはあり得ないと知っている自分も、確かにいた。
ちょうどその時だった。前方から、俺たちの共通の友人であるケントが歩いてくるのが見えた。
「お、レンにひかりちゃんじゃん。お疲れー」
「おう、ケント。お疲れ」
ケントは、俺たちの顔を交互に見ると、何かを思い出したように、あ、と声を上げた。
「そういやレン、この前さ、ミサキとひかりちゃんが話してるの見たんだけど……。なんか、あったのか?」
その言葉に、俺の心臓が、どきり、と嫌な音を立てた。隣を歩くひかりの肩が、ほんのわずかに強張ったのを、俺は見逃さなかった。
「……いや、別に。何も聞いてないけど」
俺は、努めて平静を装って答えた。
「そっか?なんか、ミサキのやつ、すげえ剣幕だったからさ。ひかりちゃん、なんか言われてねえかなって、ちょっと心配になってよ」
ケントの言葉は、悪意のない、純粋な心配から出たものだろう。しかし、その言葉は、俺の心の中に、小さな、だが鋭い棘のように、深く突き刺さった。
「……心配してくれて、ありがとう。でも、大丈夫だよ」
沈黙を破ったのは、ひかりだった。彼女は、ケントに向かって、いつもと変わらない、穏やかな笑みを浮かべていた。
「それならいいんだけどよ。じゃ、俺、バイトあるから!」
ケントは、それ以上は何も聞かず、手を振って去っていった。
後に残されたのは、重苦しい沈黙と、夏の終わりの、もの悲しい空気だけだった。俺は、隣を歩くひかりの横顔を、盗み見た。彼女は、何も言わず、ただ、夕焼けに染まる空を、じっと見つめている。その表情からは、どんな感情も読み取ることはできなかった。
*
ケントの言葉が、ずっと頭から離れなかった。
ミサキが、ひかりに接触した。しかも、ただならぬ様子で。ひかりは、それを俺に隠している。
次の日、俺は講義が終わると、ひかりの姿を探して、キャンパスの中を歩き回っていた。話をしなければならない。一体、何があったのか。
ガラス張りの、長い渡り廊下。西日が差し込み、ワックスで磨き上げられた床を、オレンジ色に染めている。その光の中を、大勢の学生たちが行き交っていた。遠くから、吹奏楽部が練習しているのだろう、どこか間の抜けたトランペットの音色が聞こえてくる。
俺は、その人の波をかき分けるようにして、足早に進んでいた。
そして、見つけた。
渡り廊下の向こう、中庭が見渡せるガラス窓の近く。ひかりは、そこにいた。しかし、一人ではなかった。
彼女の前には、仁王立ちする、ミサキの姿があった。
ピリピリと張り詰めた、刺すような緊張感。それが、遠く離れたこの場所にいる俺にまで、ひしひしと伝わってくる。ミサキが、何かを一方的に、ヒステリックにまくし立てている。ひかりは、ただ黙って、俯きがちにその言葉を受け止めていた。
俺は、一瞬、足を止めた。
心臓が、早鐘のように打ち始める。どうする。
かつての俺なら、間違いなく、この場から逃げ出していただろう。面倒なことに関わりたくない。厄介な修羅場は、ごめんだ。そう言って、見なかったふりをして、踵を返したに違いない。
だが、今は、違う。
俺の足は、もう、逃げるという選択肢を知らなかった。
ひかりを、守らなければ。
その一心だけで、俺の体は、まるで誰かに操られているかのように、迷いなく、二人のいる方へと向かっていた。
*
近づくにつれて、ミサキの甲高い声が、はっきりと聞こえてきた。
「……だから、言ってんのよ!あんたみたいなのが中途半端に優しくするから、レンがおかしくなるんじゃない!」
その声は、怒りというよりも、もはや悲鳴に近かった。
「あいつは、もっと追いかけて、追い詰めて、常に自分が一番だって思わせてないと、すぐにどこかへ行っちゃうような奴なの!あんたのやり方じゃ、絶対にダメなのよ!」
俺は、ミサキの前に、静かに立った。
俺の突然の登場に、ミサキは、驚きに目を見開いて、言葉を失っている。ひかりは、俯いていた顔を、はっと上げて、俺の顔を見つめた。その瞳には、驚きと、戸惑いと、そしてほんの少しの安堵の色が浮かんでいた。
俺は、ひかりの方に向き直ると、彼女の腕をそっと掴み、自分の背中の後ろへと、優しく引き寄せた。まるで、大切な宝物を、外敵から守るかのように。
そして、再び、ミサキと対峙する。
傾きかけた西日が、俺たち三人の影を、長く、長く、床の上に伸ばしていた。
「やめろ、ミサキ」
俺は、言った。声は、自分でも驚くほど、低く、静かで、そして揺るぎなかった。
「それは、あんたの問題でも、ひかりの問題でもない。全部、俺が未熟だったせいだ。俺の問題なんだよ」
ミサキの瞳が、信じられないというように、大きく見開かれる。
「だから、もう、ひかりを傷つけるな」
その瞬間、俺は、本当の意味で、自分の過去と向き合っていた。
誰かのせいにするのではなく、環境のせいにするのでもなく、ただ、自分の弱さと、愚かさと、正面から向き合う。そして、その結果として傷つけてしまった人たちの痛みを、今度こそ、引き受ける。
それが、今の俺にできる、唯一の、そして誠実な答えだった。
俺の背中の後ろで、ひかりが息を呑む気配がした。彼女は、俺の、今まで見たことのないその姿を、どんな思いで見つめているのだろう。
初めて、誰かを守りたいと、心の底から思った。
この、温かくて、優しくて、そして誰よりも強い彼女を。俺のくだらないゲームに巻き込んで、傷つけてしまった彼女を。今度こそ、俺が、守るのだ。
その決意が、俺の全身に、今まで感じたことのないほどの、力強いエネルギーを満たしていくのを感じていた。
*
「……何、それ」
長い沈黙の後、ミサキが、か細い、震える声で言った。
「何よ、それ……!あんた、今、そいつの味方するっていうわけ!?」
彼女の怒りの矛先が、ひかりから、俺へと、完全に向きを変えた。その瞳には、嫉妬と、裏切られたことへの絶望が、黒い炎のように燃え上がっている。
「私の時とは、全然違うじゃない!私が、どれだけあんたのために尽くしたと思ってんの!?それなのに、あんたは……!」
そうだ。彼女の言う通りだ。
俺は、ミサキと付き合っていた頃、彼女の愛情を、ただ搾取するだけだった。彼女が俺を追いかければ追いかけるほど、俺は逃げた。彼女が俺を縛ろうとすればするほど、俺はそれを振りほどこうとした。彼女の痛みに、向き合おうとはしなかった。
「……ああ、違うよ」
俺は、静かに答えた。
「俺が、変わったんだ」
その一言が、ミサキの心の、最後の砦を、粉々に打ち砕いた。
彼女が必死に信じようとしていた、「桐島レンはこういう男だ」という、脆い偶像。自分が捨てられたのは、相手が悪かったのではなく、ただ、彼の性質なのだという、自己正当化の理論。そのすべてが、俺自身の言葉によって、無慈悲に否定されたのだ。
「……なんで」
ミサキの瞳から、怒りの炎が、すうっと消えていく。後に残されたのは、ただ、燃え尽きた後の灰のような、深い、深い、絶望の色だった。完璧だったはずのメイクが、流れ落ちる涙で、見るも無残に崩れ始めていた。
「なんでよ……。なんで、あの子なの……?」
その声は、もはや叫びですらなかった。
それは、自分の信じていた世界のすべてが崩壊し、道に迷った子供のような、純粋な喪失の嗚咽だった。
ミサキは、その場に、へなへなと座り込むようにして、崩れ落ちた。そして、小さな子供のように、声を上げて、泣き始めた。
その痛々しい姿を、ひかりは、自分のことのように、胸を痛めながら見つめている。
俺は、言葉を失っていた。
自分が終わらせたはずの過去が、巡り巡って、今、別の形で、目の前の女性を、こんなにも深く傷つけている。その厳然たる事実を、ただ、突きつけられていた。
夏の終わりの、赤い、赤い夕焼けが、俺たち三人を、静かに、そしてあまりにも残酷に、照らし出していた。
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