第8話『僕が君に言えなかった、本当のこと』


夏の終わりの、あの夕焼けの日から、数日が過ぎた。

九月。暦の上では秋だというのに、日中の日差しはまだ肌を焼くような強さを保っている。しかし、一度空を見上げれば、そこにはもう、夏の主役だった巨大な入道雲の姿はなく、刷毛で薄く伸ばしたような、白いすじ雲がどこまでも広がっていた。空は、以前よりもずっと高く、澄み渡って見える。

あの日の後、ひかりと俺、桐島レンの関係は、言葉にするのが難しいほど、深く、穏やかなものになっていた。俺が彼女を守り、彼女がそれを受け入れた。ただそれだけのことなのに、俺たちの間には、もはやどんな嵐にも揺らぐことのない、太くてしなやかな絆が結ばれたように感じられた。

大学の屋上。立ち入り禁止の札を無視して、俺たちは、錆びたフェンスにもたれかかりながら、眼下に広がる街並みを眺めていた。乾いた風が、俺たちの髪を優しく揺らしていく。その風には、もう、むっとするような熱気ではなく、どこか涼やかで、乾いた土の匂いが混じっていた。

「ミサキさん、大丈夫かな……」

ひかりが、ぽつりと呟いた。その声には、ミサキに対する非難の色はなく、ただ、純粋な心配だけが滲んでいる。彼女は、ミサキを自分を傷つけた敵としてではなく、俺と同じように、恋という病に苦しむ一人の人間として、捉えているようだった。

その優しさが、俺の胸を締め付ける。

ちょうどその時、ポケットの中のスマートフォンが短く震えた。画面に表示された名前に、俺は息を呑む。ミサキからだった。『少し、話がしたい』。たったそれだけの、短いメッセージ。

俺は、逃げないと決めた。

これは、もう、ひかりのためではない。ミサキのため、そして何よりも、この手でめちゃくちゃにしてしまった過去の自分自身と、完全な決着をつけるために、俺が果たさなければならない最後の責任だった。

「……会ってくる」

俺がそう言うと、ひかりは、俺の目をじっと見つめた後、静かに、だが力強く頷いた。

「うん。行ってあげて。ちゃんと、話してきてね」

彼女は、俺の手を、そっと握った。その小さな手の温もりが、俺に、前に進むための、静かで、大きな力を与えてくれた。

約束の場所は、多摩川の河川敷が見渡せる、小高い丘の上の公園だった。

昔、ミサキと付き合っていた頃、よく二人で来た場所だ。夕日が綺麗で、静かで、俺たち以外に誰もいない、お気に入りの秘密の場所だった。

電車を乗り継ぎ、駅から公園へと続く、長い坂道を登る。傾き始めた午後の日差しが、俺の影をアスファルトの上に長く、長く伸ばしていた。坂道の脇には、コスモスの花が咲き始めていて、その細い茎が、秋風に頼りなげに揺れている。

公園に近づくにつれて、蘇ってくるのは、楽しかったはずの思い出ばかりだ。このベンチで、キスをした。あの木の陰で、将来のことを語り合った。その一つ一つが、甘く、そして同時に、苦い棘となって、俺の胸に突き刺さる。

あの頃の俺は、いかに未熟で、傲慢で、そして、彼女の愛情の上に、ただ胡坐をかいていただけだったのか。その事実を、今更ながら、痛いほどに思い知らされていた。

公園の入り口にたどり着く。ブランコや滑り台のある広場では、数人の子供たちが黄色い歓声を上げて遊んでいる。その向こう、河川敷に面した一番見晴らしの良い場所に、ぽつんと置かれたベンチ。そこに、ミサキは座っていた。

彼女は、俺に気づくと、少しだけ俯いた。泣きはらしたのだろう、その目は少し赤く腫れているように見えた。しかし、彼女が着ているのは、流行りの、少しだけ背伸びしたような綺麗なワンピースだった。そのちぐはぐな姿に、彼女なりの、最後のプライドが感じられて、俺はまた胸が締め付けられた。

俺は、ゆっくりと彼女の隣に腰を下ろした。ベンチのペンキは、ところどころ剥げて、下の木地が見えている。そこに刻まれた、無数の落書き。その一つ一つに、俺たちとは違う誰かの、ささやかな物語が詰まっているように思えた。

しばらく、沈黙が続いた。

聞こえるのは、遠くで遊ぶ子供たちの声と、河川敷のグラウンドから聞こえてくる、高校球児たちの練習の声だけ。川面が、西日を浴びて、きらきらと眩しく光っている。

「……なんで」

長い、長い沈黙の後に、最初に口を開いたのは、ミサキだった。その声は、ひどくか細く、乾いていた。

「なんでよ……」

俺は、何も答えられなかった。ただ、彼女の次の言葉を待つ。

「私、あんなに、頑張ったのに」

彼女の瞳から、こらえきれなかった涙が、一筋、白い頬を伝って流れ落ちた。その雫が、夕日の光を反射して、まるで小さな宝石のようにきらめく。

「レンの好きな服を着て、レンの好きな髪型にして、あんまり得意じゃない料理も、一生懸命練習して、作ったじゃない……!レンの友達とも、仲良くしようって、頑張った。レンが好きな音楽も、映画も、全部、私も好きになろうとした……!」

それは、魂からの叫びだった。

彼女の一つ一つの言葉が、俺の過去の罪状を、一つ一つ読み上げているようだった。そうだ、彼女は、いつもそうだった。常に、俺に合わせて、俺のために、自分を殺してまで、尽くしてくれていた。

「なのに、なんで、私じゃダメだったの!?」

彼女の声が、悲痛な叫びに変わる。

「私には、あんな風に、優しくなんてしてくれなかったじゃない!私が『会いたい』って言っても、いつも面倒くさそうな顔して!他の女の子と仲良くして、私がヤキモチ妬いたら、重いって言って、逃げてばっかりで!」

「なのに、なんで、あの子には優しくするのよ!なんで、あの子のことは、守るのよ!何が違うっていうのよ!」

そうだ。俺は、最低だった。彼女の愛情を、当たり前の権利のように享受し、その重さから逃げることばかり考えていた。彼女が差し出してくれた、無数の優しさや努力を、何一つ、返そうとはしなかった。

ミサキの体は、嗚咽で、小さく震えていた。その姿は、あまりにも痛々しく、か弱く、俺は、目を逸らしたくなった。

でも、逸らしてはいけない。

彼女のこの苦しみは、すべて、俺が生み出したものなのだから。

俺は、彼女の言葉を、その涙を、その痛みの一切を、ただ、自分の身に受け止めるしかなかった。言い訳も、弁解も、何一つ、許されない。

河川敷を渡る風が、少しだけ冷たくなってきた。子供たちの声も、もう聞こえない。ひぐらしに代わって、今は、りん、りんと、秋の虫の声が、静寂の中に響き渡っていた。

ミサキが、泣き疲れて、言葉が途切れた。

空は、燃えるようなオレンジ色から、深い青、そして藍色へと、美しいグラデーションを描いている。一番星が、空の最も高い場所で、瞬き始めていた。

公園の古い街灯が、ぽつり、と頼りなげな光を灯す。

俺は、ゆっくりと、息を吸い込んだ。秋の、澄んだ、少しだけ冷たい空気が、肺を満たしていく。

そして、静かに、口を開いた。

「……ごめん、ミサキ」

それは、俺が、彼女に言わなければならなかった、心からの、最初の言葉だった。

「全部、俺のせいだ。ミサキは、何も悪くない。あの時の俺が、ただ、どうしようもなく、子供だったんだ」

ミサキが、涙に濡れた瞳で、俺の顔を上げた。

俺は、彼女の目を、真っ直ぐに見つめ返した。もう、逃げない。

「俺は、あの頃、誰かを好きになるっていうことが、どういうことなのか、全く分かってなかった。それは、相手を、自分の思い通りにすることだと思ってた。相手に、何かを『してもらう』ことばかり考えてた。ミサキが、俺のために何かをしてくれるのを、当たり前だと思ってた」

自分の言葉が、一つ一つ、過去の自分に突き刺さっていく。痛い。でも、この痛みから、目を逸らしてはいけない。

「自分が、ミサキに何を『してあげられるか』なんて、考えたこともなかったんだ。ミサキが、本当は何を欲しがっていて、何に傷ついていたのか、見ようともしなかった」

ひかりが、教えてくれたこと。

それを、今、俺自身の、血の通った言葉で、紡ぎ出す。

「でも、違ったんだ。本当は、全然違ったんだよ」

「幸せに『してもらう』のを、ただ待ってるんじゃない。相手が、ただ、隣で笑ってるのを見てるだけで、自分の胸の中まで、温かいものでいっぱいになること。見返りなんて、何もなくても、その人が、この世界のどこかで、元気で笑っててくれたら、それだけでいいって、心の底から思えること」

「それが、本当に誰かを大切にするってことなんだって……俺、やっと、分かったんだ」

俺の目からも、涙が、一筋、こぼれ落ちた。それは、後悔の涙であり、そして、気づかせてくれたひかりへの、感謝の涙でもあった。

「俺は、ミサキに、何もしてやれなかった。ミサキがくれた、たくさんの愛情の上に、ただ、胡坐をかいて、甘えてただけだ。お前の優しさを、踏みつけて、傷つけて……。本当に、本当に、ごめん」

俺は、深く、深く、頭を下げた。

俺の言葉を聞き終えたミサキは、もう、何も言わなかった。

ただ、その瞳からは、堰を切ったように、大粒の涙が、次から次へと、とめどなく溢れ出してくる。それは、もう、怒りや、嫉妬の涙ではなかった。

長年、彼女の心を縛り付けていた、重い、重い鎖が、ようやく解き放たれたかのような、静かで、穏やかな涙だった。

俺は、もう、彼女にかけるべき言葉を持たなかった。

ただ、夜の闇が、泣き続ける彼女を、優しく、優しく、包み込んでくれるのを、静かに待っていた。

俺の、長くて、未熟だった恋が、今、本当の意味で、終わりを告げた。そして、その終わりは、悲しいだけではなく、どこか、温かくて、そして、救いに満ちたものだった。

空には、数えきれないほどの星が、瞬いていた。

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