3章 再びの転職

第1話 君に──転職を命じる

 執務室にノックの音が響き、落ち着いた女性の声がアレクシスの耳に届いた。


「リゼット・メイエールでございます」


「入ってくれ」


 アレクシスが許可するとすぐに扉が開き、緊張した面持ちのリゼットが執務机の前まで歩み寄ってくる。


「おはようございます、旦那様。お呼びと伺い、参りました」


「リゼット・メイエール。君に──転職を命じる」


「…………え?」


 大きく見開かれたエメラルドグリーンの瞳がゆらりと揺れる。

 薄く開いた唇からは掠れた呟きがこぼれ落ちた。




 ──事の起こりは昨夜のこと。

 アレクシスが数日ぶりに要塞から帰宅した時の話である。


 留守中の出来事を報告していた執事のロドリグが、最後にこんなことを口にしたのだ。


「マディソンからの伝言でございます。旦那様がお戻りになられたら、すぐに話したいことがある──と、シャルロッテ様が仰せとのことです」


「シャルロッテが? 珍しいな」


「お呼びいたしましょうか?」


「いや、こちらから出向いた方が早い」


 そう言って執務室を後にしたアレクシスは、シャルロッテの部屋に向かった。


「マディソン、俺だ」


 扉の向こうへ声をかけると、すぐさま開いてマディソンが姿を現わした。


「お帰りなさいませ、アレクシス様」


「シャルロッテは寝てしまったか?」


「いえ、まだです。──シャルロッテ! アレクシス様がいらしたぞ」


 呼びかけに応じて、部屋の奥から「やったー!」と元気な声が響いてくる。その直後、弾丸のような勢いで子供が駆け出してきた。


 アレクシスはその場に片膝をつき、突撃してきた三歳児を優しく受け止める。


「アレク、シスさまっ! あのね、あのねっ! ○×※△×○○×※~!」


 一生懸命なにかを伝えようとしているのだろうが、さっぱり分からない。早口すぎてまるで呪文のようだ。


 アレクシスはシャルロッテの肩に手を置き、落ち着かせるように声をかけた。


「ごめんな、シャルロッテ。今の話はよく聞き取れなかった。今日はどこにも行かないから、座ってゆっくり話そうか」


「うんっ! あっ、はい!」


 大きく頷いたシャルロッテを抱き上げ、部屋に入ってソファにそっと下ろす。

 

 すると話すのをじっと我慢していた三歳児は、堰を切ったように喋り出した。


「リゼット、ごはん、つくるから。シャルロッテと、たくさん、あそべないのっ! もっともっと、いっしょに、いたいのっ!」


「リゼット?」


「厨房に新しく入ったメイドのリゼット・メイエールさんのことです」


「なぜキッチンメイドがシャルロッテと遊ぶんだ?」


 疑問を投げかければ、マディソンが事情をかい摘まんで説明しはじめる。おおよその経緯を把握したアレクシスはシャルロッテの方に向き直った。


「それで、シャルロッテは俺にどうして欲しいんだ?」


「うーん…………」


 斜め上を見上げしばし考え込んだシャルロッテは、大きな声ではっきり告げた。



「マディソンと、ちぇんじ‼」



 唐突な三歳児の爆弾発言に、アレクシスはぐっと笑いをこらえる。そして今まさに世話役の解雇を言い渡された本人を見やれば──。


「おいおい、そんな言葉どこで覚えたんだ? 交替チェンジの意味、分かっているのか……?」


 マディソンはよほどショックを受けたのか、ブツブツと呟きながら肩を落としていた。


 だいの大人、それも現役の軍人を一言で打ちのめすとは、シャルロッテは将来大物になるに違いない。


「念のため確認するが、世話役をリゼット・メイエールに変えてほしいということだな?」


「うんっ! あっ、はい! そう、ですっ!」


「ぐぅ……」


 追加の精神攻撃を浴びたマディソンは、胸を押さえて心の痛みにうめいた。

 ──しかし次の瞬間、彼は続くシャルロッテの言葉に感激することとなる。


「そしたら、マディソン。ぐんじんさんに、もどれるよね?」


「えっ……もしかして、僕のことを想って世話役の交替を? あぁ……なんていい子なんだ……。ありがとう、シャルロッテ!」


 健気な心遣いに胸を打たれ、マディソンの瞳が潤む。

 だがその涙は一瞬にして乾くことになった。


「でも、いちばんは……マディソンの、プリンセスのせいなのっ!」


「マディソンのプリンセス?」


「だって! マディソン、えほんよむの、へたっ! プリンセスのこえ、カスカスで、きもちわるいのっ! だから、ちぇんじ!」


「フッ…………」


 笑いをこらえようとしたが、不意打ちの一言にアレクシスはとうとう耐えきれず、「ハハハッ!」と声を上げてしまった。


「酷いですよ、アレクシス様。プリンセス役は、本当に難しいんですから!」


「それは……フッ、大変だったな……」


「肩を小刻みに震わせながらねぎらわれても、嬉しくありませんよ。今度ぜひ、ご自身で僕の苦しみを体験してみてください」


「悪いが、それは遠慮しておく」


 読み聞かせ役をきっぱり辞退したアレクシスは、願いを聞き届けたことを示すべく深く頷いた。


「シャルロッテの頼みは分かった」


「ほんと? ありがと、ございますっ!」


「よかったな、シャルロッテ。さあ、そろそろ寝る時間だ。アレクシス様との話が終わったなら、ベッドに戻ろう」


「はぁい!」


 マディソンに促されてシャルロッテが立ち上がる。


「おやすみ、シャルロッテ。いい夢を」


「おやすみ、なさいっ!」


 アレクシスが優しく声をかければ、シャルロッテは元気いっぱいに返事をしてから、ペコッと頭を下げて寝室へと消えていった。


「リゼット・メイエールを世話役にする件だが……お前はどう思う? シャルロッテを任せられる人物か?」


「子供の世話は僕なんかよりもずっと上手です。それになにより、女の子の心をよく理解しています。彼女が食事を担当するようになってから、シャルロッテが野菜を食べるようになったんですよ」


「ああ、先程ロドリグから報告を受けた。どうやら胃袋だけじゃなく、心もつかまれているようだな」


「ええ。あの通り、リゼットさんにもうメロメロです」


 先程の〝ちぇんじ〟発言を思い出し、アレクシスはフッと笑みを浮かべた。


 それを見てマディソンも同じことを考えたのだろう、苦笑しながら肩をすくめる。だがすぐさま表情を引き締め、真剣な面持ちで口を開いた。


「あの子のことは赤ん坊の頃から知っていますが、男の僕では気持ちを理解してやれない時が多々あります……。成長するにつれて、それはますます増えていくでしょう」


「そうだな……」


「ですから僕は、リゼットさんに任せるのは賛成です。もともとアレクシス様が女性使用人を雇ったのも、シャルロッテのためですよね?」


「ああ。時間をかけ打ち解けてから引き継ぐつもりだったが……あの懐きぶりを見る限り、その必要はなさそうだな」


 独り言のように呟き考えをまとめたアレクシスは、ひとつ頷いた。


「交替する方向で手配しよう。同時に、お前がすみやかに部隊へ戻れるよう、要塞にも連絡を入れておく」


「ありがとうございます」


「礼を言うのは俺の方だ。一時的とはいえ、軍を離れて子供の世話を引き受けてくれたこと、感謝する」


「いえ、そんな。あの子たちは僕にとっても、大切な存在ですから」


 マディソンはシャルロッテのいる寝室の方へ視線を向け、慈しむように微笑んだ。


 その後、執務室に戻ったアレクシスはロドリグに世話役交替の件を伝え、明日の朝一番でコンラートを呼ぶよう命じたのだった。


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