弐:封魂の諱、惜別の歌

 白澤ハクタクの身体が、激しく震えていた。

 真白な毛並みが光を弾き、翼が痙攣するように打ち震える。角の根元には朱の紋が浮かび、両手は地を抉るほどに爪を食い込ませていた。

 そして——その喉の正中心。皮膚の奥から滲むように、細く輝く金色の鎖が、ちらりとその姿を現していた。


「……楚湛言ソタンゲン?」

 蘅音コウインはおそるおそるその傍へと歩み寄る。だが、あと一歩というところで、体が弾かれた。


 青白く揺らめく妖力の奔流が、白澤の周囲を取り巻いていた。

 その光はどこか静謐で、美しいはずなのに——触れた瞬間、鋭く肌を刺し、焼けつくような痛みを残した。


  地面に膝をつき、彼女は荒く息を呑む。震える手を見下ろすと、指先には、薄く赤みを帯びた痕がじんわりと浮かんでいた。

「近づけない……」


 その隣で、讙カンが真剣な眼差しで白澤を見つめていた。その尾はいつになく強く揺れている。

「やっぱり……お前だったんだな……ずっと、すぐそばにいたのに……」

 低い声には、驚きと悔しさ、そして何より、焦燥が混じっていた。


 蘅音コウインは、息を飲み、呟いた。

「そうか……だから、あのとき……お酒が効いたの……あの人……妖怪だったんだ……」一瞬、視線が揺れた。


 ——ならば、もう一度、作れるなら……もう一度あの酒を……

 だが、周囲を見渡した瞬間、彼女の肩がすとんと落ちた。あちこちに御妖師たちの気配。師叔の視線が、獲物を見つけた猛禽のようにこちらを刺している。


「……無理だ。今は、どこにも逃げられない。」

 その呟きは、夜のざわめきにかき消された。彼の苦しみを、彼女はただ見ていることしか、できなかった。


 ——記憶の底、ひとつの声が揺れた。


 あれは、春の雨が上がったばかりの午後だった。白澤ハクタクは茶器を二つ盆にのせ、廊下を歩いていた。師匠と茶を飲むのは、何よりの楽しみだった。


 だが、ふと耳に入った声に、足が止まる。


「……あの歌声があるなら、戦など怖くはない。癒しが尽きぬ限り、兵は倒れぬ!」

 聞こえてきたのは、師と同じ門をくぐった——後に「師叔」と呼ばれる男の声だった。


 白澤ハクタクは咄嗟に廊下の柱の影に身を潜める。障子の向こうで交わされる会話に、茶碗の湯がわずかに揺れた。


カンを戦場に出せ!あれほどの歌声が癒し続ければ、傷兵は出ない。いや、出ても即座に回復する。これほど都合の良い妖など他にいない!」


「それに——」


 その声がわずかに低くなる。白澤ハクタクは息を止めた。


「……お前の傍にいる、あの白い獣。万象を識り、妖の理を語る神獣だろう?そいつを俺にくれ。戦略も術も、すべてを読める妖がいれば、天下など造作もない!」


 言葉のひとつひとつが、白澤ハクタクの胸に鉛のように沈んでいく。

 師は、しばし黙していた——が、次の瞬間、襖の向こうで乾いた音がした。


「……お前は、何を言っているんだ……」

 その声は、これまでに聞いたことのないほど、低く沈んでいた。

カンは……もう老いている。喉も、すっかり枯れかけている。これ以上、歌を歌うことなど……できはしない。そう伝えたはずだ。あいつは私と同じく、もう……先が長くないんだ——頼む、放っておいてくれ!」


 師匠の怒気は、決して鋭くはなかった。ただ、深く、冷たい。

「……そして、妖は道具ではない。彼らは、共に歩んできた『友』だ。弟弟子であろうと、そんなことを口にするのなら——私は、お前との縁を断つ。」


 室内に沈黙が落ちた。だが、師叔の声は、なおも滑らかに続いた。


「……ふむ。口をついて出るのは、嘘ばかりだな——だが、兄弟子。あんたの体がもう長くないってことだけは、『事実』だろう?毒に蝕まれたその身で、いつまで『綺麗ごと』を言い続けるつもりなんだ?」


 白澤ハクタクの手が震え、盆の上の湯がこぼれそうになる。「……毒?」


 その時、師匠の声がふわりと響いた。

 思いがけないほど、静かで、優しい声だった。


「私は大丈夫だ。彼らを、きっと守る!」


 柱の影で、白澤ハクタクはそっと目を伏せた。こぼれた湯は、盆の上で蒸気を立てていた。


 ——いま現在。


「見せてやろうか。誰が、本当に『御している』のかを!」


 師叔はゆっくりと手を上げた。掌が空を掴むように開かれ、低く呪文が紡がれる。

 次の瞬間、楚湛言ソタンゲンの喉元にうっすらと浮かんでいた金の鎖が、光を帯びて完全に具現化した。それは彼の首元を締めつけるように巻きつき、その一端は師叔の掌へとまっすぐ伸びていた。


「目を覚ませ。お前は『楚湛言』などではない!」

 その声は冷たく、刃のように響いた。


「万象を知るヨウ白澤ハクタク。お前こそ、俺の『兵』として最も相応しい!」

 その言葉に呼応するかのように、白澤ハクタクの体がビクリと跳ねる。翼が大きく開き、角が震え、白毛が風に逆巻いた。喉奥から低いうなり声が漏れる。理性が、ほんの僅かに削れたように。


 ——記憶の海に、沈む。


白澤ハクタク。ちょっと来てみろ!」

 呼ばれて振り向くと、師が一枚の巻物を畳の上に広げていた。墨で描かれた人物画には、切れ長の目に引き締まった口元、風を受けてまっすぐに立つ若き男の姿があった。


「……この人、なんだか師匠に似てるような……」

 絵をじっと見つめながら、白澤ハクタクがぽつりと呟く。

「——もしかして、若い頃の師匠?」


「おっ、分かるか!」師匠は照れくさそうに笑った。「昔はちょっとは見られたもんだったんだぞ!」


「……うん、すごく綺麗。かっこいい《ハクタク》」

 素直な感想に、師がむせた。

「い、いいからそんな真顔で言うな!……ところで、白澤ハクタク、お前、これになってみる気はあるか?絵の中の私に。」


「——えい?」

 白澤ハクタクはきょとんと目を瞬かせたが、すぐに頷いた。指先でひとつ、印を切る。空気がふっと揺れ、彼の輪郭が微かに歪む。髪の流れが変わり、目元が鋭く、口元が引き締まる。

 ほんの一瞬の術式で、そこには——絵に描かれた若き日の師、そのままの姿が現れていた。


「……ああ。なかなか、悪くない。ふふ、お前のほうが、ちょっとだけ綺麗かもな。」

 師は、ほんの少し、目元を拭った。


 そのとき——外から、風に乗って歌声が聞こえてきた。

 カンの歌だった。村の子どもたちのために歌っていたのだろう。その声は、澄みきった水面のように静かで、温かな月光のように、夜の山肌を優しく照らしていた。


 ……だが。


「——やめろ!」

 師匠の肩がぴくりと跳ねたかと思うと、顔から血の気が引き、足早に立ち上がる。そのまま、戸を開けて外へと駆け出した。


 白澤ハクタクは、慌てて後を追った。


 月の光の下、カンがまだ子どもたちの前で、何も知らずに歌い続けていた。

 穏やかに目を閉じた子どもたち、微笑む讙。あまりにも、いつもと変わらぬ光景だった。


 その光景に、師匠はほんの一瞬だけ、足を止めた。そして静かに、背を向ける。

 その背中から、かすかに震える声が漏れた。

「……やめろ……もう、歌わなくていい……」


 次の瞬間だった。

 カンが微笑みながら、子どもたちに小さく手を振った、そのとき。金の鎖が、音もなく空を裂いた。

「ッ……!」


 白澤ハクタクが息を呑む間に、鎖はひと筋の光となって讙に巻きつき、するりとその喉元を縛った。讙の唇が、まだ歌の続きを紡ごうとしていた。けれど、その声はもう、どこにも届かなかった。その瞳には、戸惑いと痛み、そして——信じていた誰かに裏切られたような、深い哀しみが滲んでいた。


「やめてよッ、なんでそんなこと……!」

 白澤ハクタクが叫び、駆け寄った。その視線の先で、師は痛みを飲み込むように笑っていた。


「……私はね、お前たちを、あいつの手に渡したくなかったんだよ。」

 その声は、どこか夢から醒める前のように、揺らぎを帯びていた。

「だから……せめて、この手で守れるうちに、終わらせるしかなかったんだ。」


 白澤ハクタクは、震える拳を握りしめた。怒りとも、悲しみともつかぬ感情が胸に渦巻く中、師の手が、ふわりと彼の額へと伸びてくる。


「お前には……私の名前を授けよう。」

 その声が、驚くほど優しく響いた。

楚湛言ソタンゲン。それが、お前を縛る者から守る『人の名』だ。」


 空気がぴたりと止まり、白澤ハクタクの中で何かが、深く、深く刻まれていく。まるで祈りのように、結界のように。


「この名があれば、もう誰も、お前を妖として縛ることはできない。その代わりに、力を封じる。記憶も、心も、全部だ。お前を……『ただの人』として、逃がすのだ。」


 白澤ハクタクの瞳が揺れる。強く、反論したかった。抗いたかった。けれど——師の目が、あまりにも優しく、悲しかった。

 だから、言葉はもう、喉の奥で燃えて、声にならなかった。


 水のように澄んだ声が、空気の中にふわりと響いた。

 言葉はなくとも、旋律が聴こえる。途切れがちなのに、胸の奥まで届く音色だった。

 それは、遥か昔の歌声。

 月のない空に、なぜか月光が差し込んだような、白昼をそっと照らすような音。


 それは悲しみであり、喜びでもあった。

 抑えきれない痛みであり、ようやく解き放たれる安堵でもあった。

 千年を超える待ち続けた想いと、六十年の寄り添い、

 そして——たった一夜で、封印と別れに変わってしまった愛しさの残響。


 その歌声が、カンのものだと、君にはわかっていた。

 けれど、それだけじゃない。

 カン白澤ハクタク——ふたりが過ごした時間そのものが奏でた、戻ることのない、最後の調べだった。


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