弐:封魂の諱、惜別の歌
真白な毛並みが光を弾き、翼が痙攣するように打ち震える。角の根元には朱の紋が浮かび、両手は地を抉るほどに爪を食い込ませていた。
そして——その喉の正中心。皮膚の奥から滲むように、細く輝く金色の鎖が、ちらりとその姿を現していた。
「……
青白く揺らめく妖力の奔流が、白澤の周囲を取り巻いていた。
その光はどこか静謐で、美しいはずなのに——触れた瞬間、鋭く肌を刺し、焼けつくような痛みを残した。
地面に膝をつき、彼女は荒く息を呑む。震える手を見下ろすと、指先には、薄く赤みを帯びた痕がじんわりと浮かんでいた。
「近づけない……」
その隣で、讙カンが真剣な眼差しで白澤を見つめていた。その尾はいつになく強く揺れている。
「やっぱり……お前だったんだな……ずっと、すぐそばにいたのに……」
低い声には、驚きと悔しさ、そして何より、焦燥が混じっていた。
「そうか……だから、あのとき……お酒が効いたの……あの人……妖怪だったんだ……」一瞬、視線が揺れた。
——ならば、もう一度、作れるなら……もう一度あの酒を……
だが、周囲を見渡した瞬間、彼女の肩がすとんと落ちた。あちこちに御妖師たちの気配。師叔の視線が、獲物を見つけた猛禽のようにこちらを刺している。
「……無理だ。今は、どこにも逃げられない。」
その呟きは、夜のざわめきにかき消された。彼の苦しみを、彼女はただ見ていることしか、できなかった。
——記憶の底、ひとつの声が揺れた。
あれは、春の雨が上がったばかりの午後だった。
だが、ふと耳に入った声に、足が止まる。
「……あの歌声があるなら、戦など怖くはない。癒しが尽きぬ限り、兵は倒れぬ!」
聞こえてきたのは、師と同じ門をくぐった——後に「師叔」と呼ばれる男の声だった。
「
「それに——」
その声がわずかに低くなる。
「……お前の傍にいる、あの白い獣。万象を識り、妖の理を語る神獣だろう?そいつを俺にくれ。戦略も術も、すべてを読める妖がいれば、天下など造作もない!」
言葉のひとつひとつが、
師は、しばし黙していた——が、次の瞬間、襖の向こうで乾いた音がした。
「……お前は、何を言っているんだ……」
その声は、これまでに聞いたことのないほど、低く沈んでいた。
「
師匠の怒気は、決して鋭くはなかった。ただ、深く、冷たい。
「……そして、妖は道具ではない。彼らは、共に歩んできた『友』だ。弟弟子であろうと、そんなことを口にするのなら——私は、お前との縁を断つ。」
室内に沈黙が落ちた。だが、師叔の声は、なおも滑らかに続いた。
「……ふむ。口をついて出るのは、嘘ばかりだな——だが、兄弟子。あんたの体がもう長くないってことだけは、『事実』だろう?毒に蝕まれたその身で、いつまで『綺麗ごと』を言い続けるつもりなんだ?」
その時、師匠の声がふわりと響いた。
思いがけないほど、静かで、優しい声だった。
「私は大丈夫だ。彼らを、きっと守る!」
柱の影で、
——いま現在。
「見せてやろうか。誰が、本当に『御している』のかを!」
師叔はゆっくりと手を上げた。掌が空を掴むように開かれ、低く呪文が紡がれる。
次の瞬間、
「目を覚ませ。お前は『楚湛言』などではない!」
その声は冷たく、刃のように響いた。
「万象を知る
その言葉に呼応するかのように、
——記憶の海に、沈む。
「
呼ばれて振り向くと、師が一枚の巻物を畳の上に広げていた。墨で描かれた人物画には、切れ長の目に引き締まった口元、風を受けてまっすぐに立つ若き男の姿があった。
「……この人、なんだか師匠に似てるような……」
絵をじっと見つめながら、
「——もしかして、若い頃の師匠?」
「おっ、分かるか!」師匠は照れくさそうに笑った。「昔はちょっとは見られたもんだったんだぞ!」
「……うん、すごく綺麗。かっこいい《ハクタク》」
素直な感想に、師がむせた。
「い、いいからそんな真顔で言うな!……ところで、
「——えい?」
ほんの一瞬の術式で、そこには——絵に描かれた若き日の師、そのままの姿が現れていた。
「……ああ。なかなか、悪くない。ふふ、お前のほうが、ちょっとだけ綺麗かもな。」
師は、ほんの少し、目元を拭った。
そのとき——外から、風に乗って歌声が聞こえてきた。
……だが。
「——やめろ!」
師匠の肩がぴくりと跳ねたかと思うと、顔から血の気が引き、足早に立ち上がる。そのまま、戸を開けて外へと駆け出した。
月の光の下、
穏やかに目を閉じた子どもたち、微笑む讙。あまりにも、いつもと変わらぬ光景だった。
その光景に、師匠はほんの一瞬だけ、足を止めた。そして静かに、背を向ける。
その背中から、かすかに震える声が漏れた。
「……やめろ……もう、歌わなくていい……」
次の瞬間だった。
「ッ……!」
「やめてよッ、なんでそんなこと……!」
「……私はね、お前たちを、あいつの手に渡したくなかったんだよ。」
その声は、どこか夢から醒める前のように、揺らぎを帯びていた。
「だから……せめて、この手で守れるうちに、終わらせるしかなかったんだ。」
「お前には……私の名前を授けよう。」
その声が、驚くほど優しく響いた。
「
空気がぴたりと止まり、
「この名があれば、もう誰も、お前を妖として縛ることはできない。その代わりに、力を封じる。記憶も、心も、全部だ。お前を……『ただの人』として、逃がすのだ。」
だから、言葉はもう、喉の奥で燃えて、声にならなかった。
水のように澄んだ声が、空気の中にふわりと響いた。
言葉はなくとも、旋律が聴こえる。途切れがちなのに、胸の奥まで届く音色だった。
それは、遥か昔の歌声。
月のない空に、なぜか月光が差し込んだような、白昼をそっと照らすような音。
それは悲しみであり、喜びでもあった。
抑えきれない痛みであり、ようやく解き放たれる安堵でもあった。
千年を超える待ち続けた想いと、六十年の寄り添い、
そして——たった一夜で、封印と別れに変わってしまった愛しさの残響。
その歌声が、
けれど、それだけじゃない。
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