澤ノ巻:万ノ名ヲ識リ、災ヲ世ヨリ祓ウ

壱:白の名、白に非ず

 ——その姿は、もはや「人」とは呼べなかった。


 楚湛言ソタンゲンの髪は、すべて燃えるような朱に染まり、肌には虎斑のような紋が浮かび上がっていた。背中からは白銀の翼が伸び、風を震わせるほど大きく広がる。


 背丈は人間のそれを越え、四肢はしなやかでしっかりとした獣の筋肉に覆われ、指先にはうっすらと鉤爪が覗く。額には優美な双角が現れ、それは鹿のようにしなやかでありながら、どこか鋼のような重圧を宿していた。その下にふわりと揺れるのは、風に舞う山羊の鬚。


 そして、すべての変化を包み込むように、最後に彼の全身が雪のような純白に染まっていった。虎のような爪も、獣じみた耳も、赤い髪も、黒い紋も——そのすべてが、白の下に溶けていく。


 だが、その白さは決して「無垢」などではない。幾千年の記憶を背負い、幾百の時代を渡り歩いた者にのみ許された、真実の白だった。


 その姿を目の当たりにして、カンは言葉を失っていた。次の瞬間、全てがつながった。


 この匂い。この気配。この声——どうして、今まで気づかなかったのか。


「……白澤ハクタク……」

 その名は、讙の口から、震えるようにこぼれ落ちた。


 万物の名を知り、万象の理を識る。かつて、ただ一人の王者の前にのみ姿を現し、災厄を退ける術を授けたという、聖なる獣。それは、人の世において、もはや伝説としてしか語られぬ、神に近き妖の名だった。


 いま、その名が、夜の都に甦った。


 蘅音コウインは、震える声で、彼の名を呼んだ。

「……楚湛言ソタンゲン?」

 けれど、その声は、もう楚湛言ソタンゲンには届いていなかった。


楚湛言ソタンゲンか?その名前がどれだけ私を吐き気がするか、分かっているのか?」

 師叔は冷たい目で睨みつけながら、影の中から歩み出てきた。手にした剣をしっかりと握り、剣先を楚湛言ソタンゲンに向け、声は低く、抑えきれない怒りに満ちていた。


「俺の師兄は死ぬ間際、お前という妖に自分の名前を授けて、俺をあえて嫌な気分にさせようとしたんだ。」

 その言葉には、長年積もった痛みと怒りが込められていた。彼の目には、楚湛言ソタンゲンへの嫌悪が溢れ、その目で彼を食い尽くすような勢いだった。

「かつて長安で一番の御妖師だった男、そして万物の知識を持ち、鬼神のことまで知っている一番の妖。」


 楚湛言ソタンゲンの瞳は閉じられたまま。膝をつき、両手で地を支え、まるで、遠い記憶の深海へと沈んでいくように……

 封じられていた記憶の鎖が、今、静かに解かれてゆく。


 それは、遠い昔のことだった。

 まだ彼が「白澤ハクタク」としての名を持ち、師と呼べる誰かと出会い、そして「御されるもの」となる哀しき運命が始まる以前の、誰にも知られていない、白き神獣の物語——


 私は、白澤ハクタク。東望山の霧深い夜、私は彼と出会った。

 彼の名はカン、癒しの声を持つ古き妖。私もまた、万物の理を識り、妖として名を語る者であった。

 私たちはある御妖師のもとで出会ったのだが、彼は私たちを捕らえたのではなく、共に歩む者として迎え入れてくれた。彼の目は常に温かく、私たちは心のままに過ごした。

 最初に会った時、私の白い毛並みを撫でながら、彼はふと呟いた。

「綺麗な真っ白だ。お前の心と同じだな。」


 その後、年月が流れ、都を巡り、山野を歩き、妖を封じ、時には解き放ち、讙は歌い、私は語った。彼は年老いながらも、その心には揺るがぬ誇りを持ち続けていた。

「妖の中にも良い妖がいるんだ。君たちに出会えたことは、私の三生の幸せだ。」


 彼の名は楚湛言ソタンゲン——けれど、私たちは一度もその名で彼を呼んだことがない。


「……お名前で呼ぶのは、どうしても気が引けてしまって。師のことを、あまりに尊く思っていたから。だから私は、ずっと『師匠』って呼ばせていただいてたんです。」


白澤ハクタク、あんたって本当、真面目すぎてさ。千年も生きてる妖が人間に『師匠』なんて呼ぶとか、恥ずかしくないの?」

 カンは隣で尻尾を揺らしながらそう言い、こっそり師の酒を掴んで飲んでいた。


「こら、酒ばっかり飲むと喉を痛めるぞ。お前の歌声は——この世で一番美しいんだからな。」

 師は笑いながらそう言ったが、カンを止めることはなかった。ただ、優しく杯を置くように促しただけだ。


 私は、そんな二人のやりとりを、どこか羨ましく見ていた。

 だが、師はある日こんなことを言ってくれた——


白澤ハクタク。お前は真理を見抜き、感情を知り、俗世を超えてなお人のそばに立つ妖。人から見れば、神かもしれない。だが私にとっては、お前は……大切な子だ。どうか、自分の本心を、決して忘れるな。」


 だが、すべては師が七十を過ぎたある夜から変わり始めた。

「お前たちは、強すぎる」と、師は呟いた。その言葉が、私の胸を冷たく震わせた。どこか違うものが彼の中に忍び寄っていた。老いではない、何か。


「御せぬ力は、災いを呼ぶ」その言葉が、私たちの運命を決定づけることになるなんて、私はまだ信じられなかった。

「私は、もう長くない。だが、お前たちはまだ、私を信じてくれるか?」


 翌日、カンは村の子どもたちのために歌っていた。その声は、風に溶けるように優しく、傷ついた心をそっと包み込む。

 その歌は、私たち三人を繋いでいた——そう思っていた。


 だが突然、師が現れた。その目には、言いようのない恐怖が宿っていた。

「……やめろ。」


 そう呟いたかと思うと、師は印を結び、讙の身体に金色の鎖が走った。

 鎖は一瞬でその身を縛り、讙は声を失った。


「どうして、師匠……」

 私は震える声で問いかけたが、師はただ、黙っていた。その背は、ひどく遠く、哀しかった。「……私には、もう選べる時間が残されていないのだ」何となく、その背中が、小さくそう呟いた気がした。


 そして翌日、師は、私の前で声を震わせながら、涙を浮かべてこう言った。


「……お前たちを御するために、私は生きてきたんだ。」


 その言葉は、鋭く、ゆったりと、私の胸に突き刺さった。

 私たちは、師のために生きていた。

 ——そして師もまた、私たちのために、自らをすべて犠牲にしていたのだ。


楚湛言ソタンゲン!目を覚ましてよ!こんな人たちに操られたままでいないで……たとえ人でも妖でも、あなたは——楚湛言ソタンゲンでしょ!」

 蘅音コウインが震える手で、必死に私の腕を握っていた。その声には、張り詰めた不安と、強がりが滲んでいた。


 ——だけど、私は……楚湛言ソタンゲンなんかじゃない。

 私は、楚湛言ソタンゲンを殺したんだ。

 私は……その優しさを、守りきれなかった。

 その名を名乗るには、私は……あまりにも、穢れてしまった。


 白は、まだここにいる。けれど、もう、どこにもいない。


 ーーーーーーーーーー

 ①白澤ハクタクとは、かつて『山海経』に記されたとされる、極めて特別な妖である。東望山に棲む「澤獣」として描かれ、人語を解し、万物の理に通じる存在——それが白澤ハクタクだ。


 明・胡文煥の『山海経図』には、次のように記されている。

「東望山に澤獣あり、一名を白澤という。能く言語す。王者、徳ありて幽遠を明照するならば、すなわち至る。昔、黄帝が東海を巡狩したとき、この獣が言を発し、時をして害を除かしめた。」

 また、清代・王仁俊の『淵鑑類函』巻四三二でも古本『山海経』を引いてこう述べられる。

「東望山に獣あり、名を白澤という。能く言語す。王者、徳ありて幽遠を照らすならば、すなわち至る。」

 これらの記述から、白澤はかつて確かに『山海経』に存在していたが、後に何らかの理由で記録ごと削除されたと考えられている。


 最古の記録は東晋の『抱朴子・極言篇』に見られ、「神や奸(まが)を究むるには、白澤の辞を記すべし。」とあり、白澤が万物の怪異を知る存在として重宝されていたことがうかがえる。


 また、明代の『明集礼』巻四三や『符瑞図』では次のように伝わる。

「澤獣者、一名白澤。能く言語し、万物の精神を達す。王者、明にして幽遠を照らすならば、すなわち至る。黄帝、東海を巡守するにおいて、澤獣現れ、言をもって民に戒め、時に害を除く。」


 これらの伝承をもとに描かれたのが『白澤図』——またの名を『白澤精怪図』。黄帝が白澤と出会い、世に満ちる妖怪の情報(一万一千五百二十種)を聞き取り、それを図に記させたという逸話がある。白澤はその知識を王に伝えることで、災厄を遠ざける存在として尊ばれた。


 ——だが、あまりに多くを知りすぎたがゆえに。

 ——あまりに真理に近づきすぎたがゆえに。

 いつしかその名は正史から消え去り、『山海経』からも抹消されていった。

 それが、忘れられた瑞獣ずいじゅう白澤ハクタクの、もう一つの伝説である。


 イラストはこちら:

 https://kakuyomu.jp/users/kuripumpkin/news/16818792436503437530

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