第二章「濡れた日々、白い衣」

──家に着く頃には、空が白み始めていた。


蛾がはためく電球の下、沈んだ畳の部屋。壁かけられたカレンダーは湿気で波打っている。

古い扇風機はぎぃ…。ぎぃ…。と不快な音を立ててゆっくりと回っている。


部屋に入った女は新しい匂いを嗅ぐような仕草をしていた。


雄治はタバコを咥えたまま、ひょいと投げるように女に薄汚れた手拭いを渡した。


女は渡された手拭いをゆっくり抱きしめるように顔に押し当てた。まるで、それがこの世でいちばん大切なものだとでも言うように。


その姿はあまりにも美しかった。


女は静かに呼吸の音を響かせると


『アナタの匂い…潮と、さっきのお花みたいね』と話し始めた。その湿った息に混じる声が、部屋の奥まで染み込んでいく。


雄治は返事もせず、ただじっと見つめていた。


女は、何も言わないの?と言わんばかりの表情でこちらを見た。


女は雄治の匂いが好きだと話した。


雄二はおかしなやつだと言いながらも


「お前は、花のようだな。」と煙をふかしながら呟き、吸いかけのタバコを灰皿に押し付けた。


女は、初めて見るこの部屋のすべてに好奇心を向けていた。


『これは何?』と物に触れるたび雄治に尋ねた。


畳の縁を指先でなぞり、ちゃぶ台の木目をじっと見つめ、茶箪笥の取っ手に手をかけて、そっと開けた。


奥には、古びた布が一着綺麗に畳まれて入っている。──それは、色褪せた薄紫のワンピースだった。


女は何のためらいもなく、それを取り出し、身体に当ててみせた。


『……きれい』


──その言葉に雄治の表情が一瞬だけ動く。何かを思い出したように。


そのまま女はふと腹のあたりを押さえると、ぐぅ……と、空腹の音が静かな部屋に響く。


雄治は無言で立ち上がると、台所に立った。


料理は得意ではない。冷や飯をにぎったおにぎり、きゅうりの浅漬け、煮付けた小魚と、味噌汁。


ただそれだけを、静かにちゃぶ台へ並べる。


女は目を輝かせた。それがこの世で初めて見るご馳走であるかのように。



醤油の匂いが部屋に立ち込める。


雄治も座り、食事を取ろうと箸を進めた。


女はいつまで経っても食事を取る気配がない。


女の表情を見て察する。女はどうやって食事をすればいいのか、わからないのだ。


雄治は無言で箸を構える。真似が出来るように。

じっと観察していた女は、数秒遅れて真似るように同じ形で箸を握った。


ぎこちない指先。手の震え。

それでも懸命に、同じように動かそうとしていた。


その姿は、まるで誰かの模倣をしながら“生きる”という手順を学んでいる生き物のようだった。


 

──それが女の“食事の始まり”だった。


煮魚の身を箸でうまく割けず、苦戦しながらも、雄治の真似をする。


きゅうりを持ち上げる際にすべり落とし、慌てて拾って笑った。


少しずつ、少しずつ、“できなかったこと”が形になっていく。


『……おいしい』


その一言には、確かに“学びの悦び”が含まれていた。



一足先に食べ終えた雄治は、窓際でタバコを吸っていた。


「……食ったら、しばらくここにいろ」


女はどこにいくの?と尋ねることも出来ないまま、それだけ言い残して、雄治は仕事へ向かうのであった。


 



雄治はその日もいつもの定食屋に行くと、黙って座り、湯呑みを握りながら待つ。


程なくして注文せずともいつも頼む焼き魚定食を運ぶ女将。美味しいという感情などないように黙々と食べる。



カウンターに置かれた新聞には同じような話題が書いてある新聞が複数あった。そのうち一つを徐にそれを取る。


見出しが滲んだインクで紙面に踊っていた。



──《少女、今月で五人目の失踪》



そのすぐ下には写真が少女の写真が五人分。どの顔も笑っていない。


記事では犯人について何も分かっていないことを長々と語っていた。


誰かが、女将に話しかける。


「……またか。今度は漁師ん所のみっちゃんだろう。何事もないといいな」女将は静かに頷く。


その言葉に、湯呑みを持つ雄治の指が、わずかに震えた。雄治は新聞から目を逸らすと、湯呑みの底を見つめた。


食べ終えると、何も言わず席を立ち上がった。


銭を置き、出ていくその姿に誰かの視線が刺さった気がした。


 


午後、仕事を早めに切り上げた雄治は、町の小さな服屋に寄った。


古びた木製のドアは鈍い音を立てながら開くと無愛想な老女の店主が、不審そうな目を雄治にむける。


店主と思われる老女に近づくと、奥のショーケースに置かれた衣服を指さし、口ごもりながら言った。


「……妹に。いや、知り合いに、贈りたいんだが」


老婆はそれを聞いて、目を細める。

店主はたった一言、何かを飲み込んだように呟く。



「…また薄紫かい」



雄治は返事もしなかったが、店主は鼻を鳴らして、奥から少し色褪せたような薄紫のワンピースを取り出した。


ポケットから金を出すと、カウンターに置かれた黄ばんだ白い紙袋に入ったワンピースを受け取る。


店を後にしようとすると老女の声がする。



「まったく嫌だねえ…。また、子供がいなくなったんだよ。」


老女は独り言に気づいて欲しいかのように話し始めた。


「こうも続くと、本当に落ち着かないんだよ。私の知っている子も消えたのさ。かわいい子どもさんだった。お母さんが娘にって、それに似たような薄紫のワンピースを買って行ってね…。本当に似合っていたんだよ」


雄治は返事をする事もなかった。


店主の視線が、雄治の持っていた紙袋に落ちる。


「…気をつけなさい。あんたが…服を贈ろうとしているその子も消えないように」


その言葉だけを残すと、そそくさと店の奥へ引っ込んでいった。



紙袋を強く抱えたまま、雄治はゆっくりと店を後にした。


夕方の風が、潮の匂いとともにぬるりと背中を撫でた。





──帰宅。


雄治は思っていたよりも強く扉を開ける。女はその音に驚いた顔でじっとこっちを見た後、女は笑顔で出迎えた。



雄治はぶっきらぼうに紙袋を差し出した。


中には、ワンピースと──

あの日、岩陰で見たクレマチスの花束。


男はたった五本のクレマチスを岩間から千切り、薄紫のリボンをかけて花束のようにした。


女はそれらを愛おしい目で見つめながら、雄治に尋ねた。


『ねえ…。これは、どんな色なの?』


雄治は言葉に詰まった。


その問いは戯れではないとすぐ理解できた。

真剣で、痛々しいほど無垢な問いだった。



雄治はしばらくしてから呟いた。


「……紫だ。知らねえのか?」



──女は微笑む。



『しらない。…へえ。むらさき…ね。アタシ、色ってわからないの。でも、匂いはするの。湿った風のような匂い。潮の匂い。雨の匂い。全部、アナタの匂いよね』



女はそっと手拭いを抱きしめたあの時のように、ワンピースとクレマチスの花束を優しく抱きしめた。


その姿は、まるで白い衣をまとった神仏のようだった。見えない色を、心でなぞるような祈り。


また女も色の識別ができないおかげで、薄紫のワンピースは白い衣に思えた。



──その日から、家の中の湿気は重くなる。朝になると、壁に水滴が垂れ、布団は重くじっとりと濡れていた。


畳はふやけて沈み、障子は波打っていた。朝になるとどこかで水の滴る音が聞こえてくるようになった。




起きたばかりの雄治はまだ目が覚めきっていない。長い髪が艶めき、白い肌が薄暗い部屋にぼんやりと浮かび上がる。


一度背を向け、苦々しい表情で窓を開けると雄治は呟く。


「またあちこち濡れてやがる…」


窓の外はどす黒い空が広がっている。



再び女の方を向くと女は満足そうに笑っていた。



『昨日のお魚、煮ておきました』



台所からは磯臭さと醤油の匂いが立ちのぼっていた。


女は少しずつ、雄治のすることを真似るようになった。この日は、朝食を用意してくれたようだった。


生活を共にするようになってから、見様見真似でやっては見るものの、調味料の量を極端に間違えたり、服を干す事なく水に沈めたままだったりと、異様な光景も見られた。


味噌汁の塩加減も洗濯の仕方や干し方も以前より“人間らしい”。


テレビもラジオもないこの家で、女は雄治の動きを、教科書のように見ていた。


女の目は雄治の一挙手一投足に吸い寄せられる。


胸が疼くこの感情が何であるか女はまだわからなかった。




雄治は何も言わず、小さなちゃぶ台の前に座り、女が盛り付けられた煮魚をじっと見つめている。


『食べて…ほしいの』──そう言った女の目は潤んでいた。


自分が用意したものを雄治に食べてもらうことで、何かを確かめようとしているようだった。


どうせ少し料理を失敗したと感じているのだろう。と思って口に運ぶ。


女の純粋な目は雄治の口元を見つめていた。


無言で箸を進め、魚を口に運ぶ。

塩辛いのに、味がしない。いつも食べる定食屋の魚と同じだ。


『どう?』と嬉しそうに目を細めた女に雄治は「うまい」とだけ返事をした。嘘ではない。けれど、本当でもなかった。


その瞬間、女の口元がきゅっと歪んだように見えた。


雄治がその顔をしっかり見ようとすると、女は少女のように微笑んだ。 




──雄治の仕事休みだった日。女は慣れた手つきで洗濯物を干した。


あの日のワンピース、雄治のシャツ。


細い指先が洗濯バサミに触れるたび、風がそれをくすぐられるたび女は尋ねた。


『アナタ、星を見た事がある?星はどんな形をしているの?』


──雄治はタバコに火をつけながらその答えを探すと女が続けて話す。


『アタシは…星も空のことも、まだアナタに教えてもらってない。でもいつかがあるなら、アナタと行ってみたいって…。そう思うの。』


その言葉に雄治は笑わずに、静かに頷いた。


その瞳は優しく、深く、そして──底が見えないほど暗かった。



まるで、井戸のように。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る