第一章「潮の底で咲く花」
──昭和十一年、六月。
梅雨の盛り、朝から空を覆った灰色の雲は、午後になっても微動だにせず、光は一度も地上に届かなかった。
町の人々は足早に軒をくぐり、濡れることを避けるように目を伏せて歩いた。
漁師たちは港を遠ざけ、「海が呼んでいる」と囁きながら戸を固く閉ざした。
その日も、男はいつものように工場へと向かっていた。
歯車と油の匂い、溶接の火花、そして黙した作業員たち──
手を動かし続けていれば、余計なことを考えずに済む。
ただ音と熱と時間に身を委ね、一日を静かにすり減らしていくのだ。
────夜。男はなぜか、港へ向かっていた。
いつもなら、帰宅して酒を煽り、そのまま眠るだけの時間のはずが気づいたときには、防波堤の上に立っていた。
海は濁った銀色をしていて、うねる波が岸壁を打つたびに、呻き声のような音が生まれる。
この町は、昼こそ人影があるが、夜になると潮風が重くなる。
潮溜まりから這い出したような匂いが町全体を覆い、人々は夜の港を避ける。
──海が、なにかを欲しがっているような気がするからだ
高畑
無骨な面構えに無精髭。言葉数は少なく、町の人とも必要以上に関わらない。不器用なだけではない。
彼には、人と向き合うことそのものに恐怖があった。
工場で真面目に働く一方で、どこか“何かを避けているような”雰囲気があった。
「生き残るためには、どんなことでもするんだ。」
戦争中、極限状態で生き延びた雄治の父は、その傷を背負い酒に溺れるようになった。
家は沈黙と酒の臭いに満たされ、暴力が日常だった。
雄治は父を恐れ、いつしか“自分の中にも同じ闇がある”と怯えるようになり、人との関わりを避けるようになった。
数年前に父が失踪したと聞き、行き場のない雄治はひっそりと町へ戻ってきた。
そんな男の釣りには趣味としての優雅さも、癒しとしての意味もなかった。
ただ一つ、他者との関わりを持たない為の逃げ場であった。
男は怠惰にタバコに火をつけ、ぼんやりと考えていた。
今日も、何もなかった。いつもと変わらない日。
工場では、波風立てぬよう仕事をこなすだけの一日。
昼食には近くの定食屋に行くのが日課。店の女将は注文を聞かずとも、いつもの定食を出してくる。会話は一切ない。それが、男にとってちょうどいい距離だった。
それからはこうして一人の時間を過ごすだけ。
そういう平凡な日を退屈そうに過ごしている所を他人が見れば、どれだけ幸せなものかと叱られそうなものだが、雄治にはそれを感じ取るような心がどこにもない。
何かを幸せだと感じることができない。世界から取り残されているようだった。
「……釣れるわけ、ねえか」
その呟きは潮風にかき消え、波の音に溶けていった。釣り糸を引き上げる雄治の手がかすかに震えている。
──何もなければいい。何も釣れなくてもいい。
これは“釣り”ではなく、ただ時間を押し流すための行為だった。
雄治はその場を立ち去る前に煙草をくわえて火をつける。湿った火打石がじりり鳴り、細く赤い火がついた。
そうするとやっと点いたタバコの火を消すほどの強い潮風が吹いた。波の音はより一層強くなる。
この夜ばかりは──何かが、違っているように感じた。再び岸壁に腰掛けるとまた釣り糸を垂らした。
ぶっきらぼうに投げた釣り糸は、時間をおいて小さく、静かに揺れる。
「……来たな」
口元を固く結ぶと、男は竿に手をかけた。
雄治は手をかけると足元の石畳が、ぐらつくように冷えた風に晒される。釣り糸が、ぴんと張る。竿には、ぬるりとした異様な重みが伝わってきた。
「……ん?」
油断していた腕にずしりと重みがのしかかり、男は思わず身を乗り出した。
──この重さは、知らない。異様な粘つき。これは──魚じゃない。
「うわッ……!」
風も波音もかき消すような声を上げ、男は尻餅をつくように後退った。手元を見て、血の気が引いた。
──水面を割って現れた“それ”は、明らかに“人の形”をしていた。
雄治は再び短く悲鳴を漏らし、その場にへたり込んだ。
──まさか、人間を釣ったのか?それとも、死体…?
一瞬、目を背けたくなるほどの恐怖が胸を締めつける。
足が、地面に縫い止められたように動かない。
しばらくその場に立ち尽くすと少し冷静さを取り戻し、暗闇に目を慣らす。
雄治はそっとやたら綺麗な水死体のような物に近づく。それは、どうやら女であることはわかる。濡れた長い髪は顔と胸元を隠すように張り付いていた。──けれど、妙だった。
肌は真珠のように白く濁り、関節の曲がり方は人間のそれとは違っていた。
まるで、形を真似て生まれてきた、何かの生き物のようだった。
よく近づき顔を覗き込む。髪に覆われた顔はまるで人形のように無垢で、傷一つなかった。
恐怖を感じているはずの雄治は何故かその顔に懐かしさを覚え、目が離せなかった。
近づくと、喉がわずかに動く。
──死んでいない。生きている。
雄治は震える手で、その女の手にそっと触れるとひどく、冷たかった。
「お前、生きているのか…?」
怯え混じりに漏れた声とともに、雨脚が強まる。冷たい雫が女の頬を滑り落ちた。
その瞬間女の瞼が、ゆっくりと──わずかに開いた。
濁った黒い瞳が、雨の隙間から光を反射しながら、じっと雄治を見つめる。
目だけが生きているようだった。
生まれたばかりの、まだ数多の感情を知らぬ少女のように。
女は、喉の奥を擦るような微かな声で──しかし確かに言った。
『…た、すけて…』
その言葉に、雄治の胸がざわめいた。
確かに、そう言った。頭では理解しても、目の前の“それ”を脳が拒絶している。
「…お前、どこから来た?」
問いかけた声は夜気に吸われると、女は少し起き上がり小さく首を傾げ、ぽつりと呟く。
『わからない。…アタシ、さっき、生まれたばかりなの』
その一言が、この暗い夜の異様さを染み込ませる。
雨音すら、遠のいたように感じた。それほど、女の声は静かだった。
「…名前は?」
再び尋ねた雄治に、女は小さく首を傾けたまま囁く。
『わからない。アナタ、つけてくれない?』
そう言いながら見上げてくる女の瞳の奥が、どこかきゅうっと閉じるように揺れていた。その言葉は、雄治の中で何かを小さく砕いた。
「……ふざけるな。……妙なことを言うな」
そう呟きながら、雄治は女の身体を抱き上げた。
重く、柔らかく、温かい──それでいて、不気味なほど滑らかだった。
女を抱えながらも、雄治はまだ恐怖心を持っていた。
だが、一度抱き上げた以上、このまま置いていくことなど、もうできなかった。
──雨脚が強まる。
近くの岩陰に女を運び、雄治は自分の上着をそっと掛けてやった。
ふと足元に目をやると、岩の隙間に花が咲いていた。
──薄紫のクレマチス。
港の石に咲くには場違いなその花は、まるでこの夜の証人のように、静かに揺れていた。
女は花をじっと見つめていた。
雨に濡れた花と雄治を交互に見た後、女は小さく呟くように言う。
『……きれい。まわってるみたい……これ、なに?』
「……花の名前なんて、知らねえよ」
雄治がそう答えると二人の間に沈黙が続くと、しばらくして女の唇が震え、こう呟いた。
『……アタシ、うちゅうからきたの。たぶん』
雄治は言葉の意味を理解できないまま、女は続ける。
『生まれてすぐ、うみの底に落ちていったの。まっすぐ……まっすぐ……。そしたら、アナタが近くにいたの』
しばらく黙り込んだ雄治は、ふんと鼻を鳴らして笑った。馬鹿馬鹿しいとでも言うように。
「宇宙っつうのはな、落ちていくもんじゃねえ。飛行機か、鳥でも連れてってくれなきゃ行けねえ場所だ」
雄治は、子どもをあやすような声で言った。女は、静かに笑った。まだ何も知らない、少女のような笑みだった。
『でも……たすけてくれたでしょう?……ありがとう』
言葉を素直に受け取れない雄治には、雨と潮の音が静かに響く。
「来い。……手拭いくらいなら貸してやれる」
雄治は立ち上がり、女の身体を再び抱え上げた。
女はその背に、そっとしがみつく。
そのすぐ後ろ、波打ち際の海の中で、何かがぬるりと蠢いていた。
けれど雄治はそれに気づくことはなかった。
あるいは気づいたとしても、もうどうでも良かったのかもしれない。
耳元で、女がそっと囁く。
『……アナタが……つってくれたの』
──その日を境に、港町の朽ちた古家は、湿気を吸ってゆっくりと軋み始めた。
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