お花みたいね
怪怪HEX
プロローグ「海で歪む町」
港町の夜は、湿っている。
潮を含んだ風が軒下を濡らし、裏路地の奥までざらついた息を這わせる。
家々の壁を、冷たい舌がゆっくりと舐めていくようだった。
この町に古くから伝わる言い伝えがあった。
「雨降る夜の海に『アナタ』と呼ばれたら、返事をしてはならない」
町の人々はそう囁き、理由を問えば誰もが口ごもった。
海に背を向け、雨の夜には戸を閉ざし、静かに身を潜める。
迷信めいたこの習慣は、長年に渡って町に染み付いていた。
だが、確かに言えることがある。
この町では、なにかが腐り、そして密やかに、なにかが産まれる。
「……あの夜、岸辺にいたのは、人間じゃなかった」そう証言した者もいた。だが、誰も耳を貸すものはいない。
その人間ではないなにかは、女のようで、女ではない。人の形を模しながら、色すら識別できない“異物”。
夜の岸辺に立ちすくみ、月光を吸いながら、何かを探しているような影。
ぬめりと湿気をまとうその姿は、見る者の視神経をゆっくりと狂わせる。
古びた桟橋には、乾ききった潮の白がこびりついている。
夜更け、魚すら近づかぬ波打ち際に、誰もいないはずの桟橋──そこに、濡れた足跡が一つだけ残されていた。
そこに、一匹の蛸が──息も絶え絶えに揺れていたという。だが、その姿を見た者はいない。
港町の裏手には、今も不気味な音が響く家があるという。
雨戸の隙間から漏れる、湿った咀嚼音。
食卓のない家で、誰かが何かを噛む音が響く。
耳を澄ました者は、口を揃えてこう呟く。
「……まるで、誰かを呑み込んでいるようだった。」
それは、実際にあった出来事なのか。
それとも、海辺に生まれた噂が、潮とともに湿っただけなのか。
その答えは、読むアナタの記憶と、波の音がそっと教えてくれるはずだ。
──ただし。耳を澄ませたまま、“戻ってこられたら”の話だが。
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