過ぎ去りし時の旋律

 奈良県生駒市の山頂近く。二階建ての白い一戸建ては、深い森の懐に抱かれるように静かに佇んでいる。窓の外は、もうすぐ訪れる冬を前に、稜線(りょうせん)の紅葉が色を深め始めている。大阪出身の**黒瀬 智哉(47)**がこの隠遁(いんとん)の地へ越してきたのは、まだ先月のことだ。


 智哉は今、二階の書斎でキーボードの前に座っている。昨日の朝の冷え込みに、思わず引っ張り出した真新しい電気ストーブが、足元に微かな熱を投げかけていた。その熱は、今日の日差しのように優しく、しかし確実に、冬の気配がすぐそこまで来ていることを教えてくれる。


「ふう……」


 執筆の手を止め、智哉は大きく息を吐いた。ここ数週間、彼は新たな夢、すなわち「作家」としての道を、この静寂の中で歩み始めている。


 その時、デスクトップのブラウザから、ふと目を留めたSNSの画面に、彼の過去の熱狂の残骸が映り込んだ。


『ドラゴンクエストⅪ 過ぎ去りし時を求めて S。懐かしいw』


 先日、外部HDDから発掘し、再々アップしたゲームプレイ動画だ。画面の中央に鎮座する「再生」ボタンは、まるで遥か昔の冒険への扉のように見える。


 智哉はマウスを滑らせ、音量を上げる。スピーカーから流れ出したのは、すぎやまこういちの魂の旋律、**「序曲XI」**だった。


ドッ、ドド、ドォーーン……!


 オーケストラの音が、生駒の静寂を破り、書斎の空気を震わせる。それはまるで、遠い過去から届いた、勇者としての自分を呼び覚ますラッパの響きだ。智哉は目を閉じ、その音に身体を預けた。


 この曲を聴きたいがために、寝る前に動画を仕掛けておく。そして朝、スクロール一つで再生し、OP曲が終わればすぐに停止する。この行為は、かつてすべてを投げ打ってゲームに没頭した子供時代の自分とはかけ離れた、大人感覚のゲームプレイを象徴していた。


(本当に、妙な習慣だ)


 彼は、まだエンディングを見ていない『ドラクエⅪ』本編の存在を思い出す。船を手に入れたところで放置し、ダウンロードアカウントも紛失したまま。再購入は容易だが、あえて踏み切らない。あの未完の物語は、現在の智哉にとっては、**「続きが気になるが、決して開けてはいけない玉手箱」**のようなものだ。


 そして、彼の思考はさらに過去へ飛ぶ。



「ドラゴンクエストX オンライン」。それは智哉の人生に、熱病のように襲いかかったMMORPGだった。



 月額課金、10キャラ同時育成、全アカウントでの日課……。あの頃の自分は、狂気に近かった。仕事に追われながら『ドラクエⅪ』を途中で投げ出した理性的な大人が、別の世界では**「総勢10キャラの軍団を率いるアストルティアの支配者」**になっていたのだ。それは、満員電車に乗るサラリーマンが、夜になると仮面をかぶり巨大ロボットを操縦するような、ねじれた二重生活だった。


「どこまでやるんだ、当時の俺は……」


 苦笑が漏れる。


 それは、単にゲームのプレイ狂騒だけではなかった。当時、開発陣がニコニコ動画やYouTubeで始めた「ドラクエTV」の熱気も思い出される。本来、裏方に徹するはずのプロデューサーやディレクターがカメラの前に立ち、ユーザーに語りかける。その姿は、まるで自分たちが作った世界に乗り込んできた主役のようだった。


 そして、その流れの中で生まれた「初心者大使」という企画。タレントや芸人が、ゲームを全く知らない状態から冒険を始める。あの、初心者大使に落選しながらも自ら配信を強行した**「お見送り芸人しんいち」**の情熱と、彼に「芸人としてもっと大事なことがあるだろう」と諭したサンドウィッチマンとの一幕は、ゲームの裏側で展開された、もう一つの生々しいドラマだった。


 さらに、サービス運用の中で訪れたディレクターのバトンタッチ。初代の藤澤氏から、二代目の齊藤氏(りっきー)への交代劇は、重圧と誹謗中傷の中で行われ、当時、一プレイヤーとして見ていた智哉の胸にも、込み上げるものがあった。


 それらは単なるゲームではなく、生々しい人間模様と開発者の**「汗と涙の物語」**が展開する、もう一つの現実だった。


 「序曲XI」がクライマックスを迎え、壮大な余韻を残して静まる。智哉はゆっくりと目を開け、マウスをスクロールして動画を停止させた。


 外の森から、枯葉が落ちる微かな音が聞こえる。


 智哉は目の前の原稿用紙、すなわち小説のデータに向き直る。かつてゲームに注ぎ込んでいた情熱は、今は活字を紡ぐ力に変わっている。


(いつでもドラクエXを再開できる。だが……今は、この物語の続きの方が大事だ)


 キーボードの前に置かれた両手には、ゲームコントローラーを握っていた頃とは違う、創造の熱が宿っていた。ドラクエの冒険を追い求めるよりも、自ら物語を創造する喜び。


 この「続きが気になる」という未完の感覚は、きっと小説を書き続けるための燃料になる。



 ――智哉はふと、窓の外の山々を見つめた。奈良の山並みは、まるで彼の心の深層のように静かで広大だ。



「まあ、再購入は気が向いたら、また今度だ」



 そう呟き、彼は再びキーボードに指を置いた。電気ストーブの熱が、冷めかけた彼の心を再び温める。


 しかし、指はタイピングを再開せず、静止したままだった。キーボードの上に広げた手の甲を見つめ、智哉は意識をさらに遠い過去へと沈ませていく。それは、彼がゲームという「物語」と初めて出会った、幼い日の記憶だ。


 現在の『ドラクエⅪ』未クリアの心残りと、『ドラクエⅩ』の狂騒的な熱狂。その原点は、あのファミコン時代にある。


 智哉にとってのドラクエの始まりは、ナンバリング二作目、**『ドラゴンクエストII 悪霊の神々』**からだった。


 まだ小学生の低学年だったはずだ。テレビ画面に表示される、ひらがなとカタカナの長い文字列。それが、冒険の続きを始めるための唯一の鍵だった。


「ふっかつのじゅもん……」


 思わず口にした言葉は、乾いた唇からカサカサとこぼれた。あの呪文の長いこと、そして意味不明な文字の羅列の、なんと厄介だったことか。彼は、まるで考古学者が古代の石版を解読するように、チラシの裏やノートに鉛筆で一字一句を書き写していた。


(**「そ」か、「ん」**か? **「し」なのか、「つ」**なのか?)


 かすかに震える幼い手の記憶。たった一文字を間違えたがために、何時間も進めた冒険が白紙に戻り、またイチから城下町をさまよった日の、絶望と悔しさが、今も手のひらに残っているようだ。今のゲームのようにオートセーブなどない。あの厳しさが、逆に当時のゲームの重みになっていた。


 ドラクエの登場以前の彼の世界は、旧ハドソンのヒーロー、高橋名人が支配していた。


 シューティングゲーム全盛の時代。彼は、ファミコン本体を握りしめ、必死でボタンを連打した。『スターソルジャー』。智哉は、高橋名人の**「16連射」**の神業に憧れ、指が擦り切れるほど練習した。連射こそが強さであり、正義だった。当時のゲームは、反射神経と肉体の限界への挑戦だった。



 だが、そこに『ドラゴンクエスト』が降臨した。



 それは、肉体的な反射を要求するシューティングゲームから、頭と想像力で世界を旅するRPGへと、ゲームの歴史を塗り替えた出来事だった。勇者として、世界を救う壮大な物語。それは智哉の幼い感性を強く揺さぶり、彼の中に「物語への渇望」という根源的な種を植え付けた。


(結局、俺はあの時からずっと、物語に飢えているんだ)


 ドラクエXで幾重にもアカウントを増やした熱狂も、未クリアのⅪに「まあいいか」と蓋をする理性も、そして今、この高台の家で小説を書くという行為も、全てはあの**『ドラクエII』で感じた冒険への渇望、そして「ふっかつのじゅもん」**に裏切られた日々の、拗れた残響なのかもしれない。


 智哉は、窓から差し込む秋の柔らかな光に目を細めた。奈良の山々の深い緑は、当時のファミコンの画面の色よりもずっと鮮やかだ。



「さあ、俺の物語を続けよう」



 智哉は深く頷き、キーボードに指を滑らせた。それは、あの**「序曲XI」の壮大な旋律にも、「ふっかつのじゅもん」**の苛烈な試練にも揺るがない、47歳の作家志望者の、静かな決意を告げる音だった。

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