第十話 3
4
そのまま帰る気にもなれなくて、彼女は夜の街を、フラフラと歩いていた。
ライブハウスから丸太町通りへと下り、そのまま丸太町通りを引き返すように歩いて、鴨川へ。
足が向かうのは、三条大橋だ。
最近、何かに迷うたびに、そこへ向かってしまっているような気がする。これは、何かの未練なのだろうか。自己分析をするのも嫌で、彼女は思考を打ち切った。
丸太町橋の脇から河原の道へと降りて、南へ。まるで家から遠ざかるように、歩く。
もう、夜も更けてきた。
誰ともすれ違わないままに、彼女は河原の道を歩いていく。
靴の裏が、砂でジャリジャリとして、気持ちが悪かった。
二条大橋を越え、御池大橋を潜り、さらに先。
三条大橋が見えてくる頃になって――違和感。
違和感を、彼女は感じている。
それは何か。
その違和感の正体は――人気がないことだ。
三条大橋の近くまでやって来たというのに、人の気配がまるでしない。
普段ならば、イチャイチャと鬱陶しい等間隔カップルどもや、虫のようにうぞうぞと蔓延る下品な観光客どもが屯して、人に酔うほどであるのに――今は。
人っこ一人、いやしなくて――
ポツリ、ポツリと。
また、雨が降り出していた。
「……傘、途中で買えば良かったかしら」
なんて独り言を呟いたのは、多分、自分を鼓舞するためだ。
これはなんて事のない、日常の延長線なのだと。
そんな風に思い込むための、強がりみたいな薄っぺらの言葉だ。
違和感は、すでに、怖気へと変わりつつある。
どうにも、嫌な感じがした。
具体的に、それがなんなのかを言語化することはできない。
あるいは、それは言語中枢が出来上がるよりも前の、原始の脳が発する警告だったのかもしれない。
今となっては。
全て、遅い話だけれど。
「おい、お前」
呼びかけは、橋の下からだった。
男の声だ。
見れば、人影が、闇の中にぼんやりと浮かんでいる。
不審者――という言葉が脳裏に浮かんだ。
「お前だよ、そこの女」
何処の馬の骨ともしてぬ男に、そこの女、なんて不躾に呼ばれて、クロカは思わずカチンと来る。他に誰もいない以上、呼びかけているのは自分に対してだろう。
ならば――
「何? 悪いけど、ナンパならお断りよ」
勤めて大声で、強気に。威嚇するように鋭く言葉を発しながら、彼女は橋の脇の、橋の上へと上がるための階段をチェックする。人気はなく、駆け抜けられる。橋下には奇妙なほど人気がないが、流石に、上へ上がれば誰ぞいるだろう。
「なんだよ、ツレないな」
けけ、と人影は下品に笑って、ゆっくりと、こちらへ向けて歩き出した。橋の下から、出てくるつもりらしい。好きにすればいいが、階段を塞がれると困る。
あまり、時間をかけるのは得策とはいえないだろう。意を決して、彼女は階段を駆け上がるべく、足を踏み出した。
瞬間――
「は?」
彼女は思わず、足を止めた。
橋の下から、ぬらりと。
現れたそれは――
人ではなかった。
ギチギチと、蠢くような音色が響く。
鎧のように肌を覆う、薄緑の甲殻。根本から裂けたような六本指には、ねじくれたような鉤爪。両足はバッタの後脚のような逆関節。顔面は――まるで、蟋蟀と人を合体させたかのような、異形の相貌。
それはこの世のものとは思えない――怪人の姿だった。
「ひ、ひ……な、あんた――俺が怖いか?」
ひぃ、ひぃ、ひぃ――と。
まるでひきつけを起こすように、その怪人は醜悪に笑う。
「醜いか? 気持ち悪いか?」
そうだろう。
そうだろうなあ。
「だったらよう」
お前のこと――
「俺より醜い死体にしてやるよ」
――ひぃ、と。
笑いなから、その怪人は跳んだ。
その両足のバネを使って、激しく、疾く。
一足跳びにクロカの眼前へと舞い降りたその怪人は――その腕を広げた。
ぐぱりと開かれた六指。その先端に伸びる鉤爪は、一本一本が大ぶりのアーミーナイフのように鋭く、人体を容易く引き裂くであろう凶暴性を兼ね備えている。
それに対して、クロカは恐怖を抱かなかった。抱いたのは恐れよりも、諦め。恐怖ではなく、諦念。ああ、自分は死ぬんだな――なんて、ともすれば呑気にさえ、思う。自分はもうここまでなんだ、ここから先はないんだ、という納得。それがクロカの心を満たし、穏やかにと言えるほど凪がせていた。
後悔は、ある。夥しいほどに。まだ自分は何も成し遂げていない。音楽家として、ようやく日の目を見れそうだ、というところで、死ななければいけないなんて、最悪にも程がある。まだまだやりたいことは沢山あった、けれどそれも、もうできない。
もしも死後の世界というものがあるのなら、もう一度熟々丸に会いたい。そんなことだけを思って、彼女は振り下ろされる残酷に目を瞑り――
カァン、と。
高らかなる雷鳴が、響き渡る。
彼女は再び、目を見開いた。
見れば。
クロカの眼前にいた怪人が、吹き飛ばされていた。
「――遅くなって、悪い」
彼女は。
クロカの眼前に立ち塞がるようにして――その青い羽織を、翻した。
「助けに来たぞ、クロカ」
白いTシャツ、ジーンズに、青い羽織と高下駄を合わせるミスマッチ。
それはあたかも――ヒーローのように。
蒼き月光に照らされながら――彼女は鮮やかにも、参上した。
「何もんだ、お前――」
現れた闖入者に、怪人は己の腹部を押さえながら、問いかける。口の端から、泡立つ血がこぼれ落ちていた。血の色は、人間と同じなのか。クロカはぼんやりと、思う。
眼前の少女は――
「私の名は、六町らいか」
凛、と。
澄み渡るように、名乗りをあげて。
「『ガンマン』をやっている」
ダァ――ン。と。
雷鳴が響き渡り。
怪人の顔面――その右半分が、砕け散った。
「ぐ、ぎぃいいいいッ!」
悲鳴が響き、怪人は、砕けた顔面を手で押さえる。
重症――だが、致命傷には遠く。
六町らいかは――その怪人へと近づいていく。
「ひっ――アァッ!」
ぶん、と大ぶりの、鉤爪による一撃。
だが、そんなやぶれかぶれが彼女に通用するはずもなく――
ダァ――ン、と。
雷鳴が轟き。
その鉤爪が、腕の根本から砕け散る。
怪人は無い肩を抑えて、その場に蹲った。
「お前じゃあたしには勝てないよ」
残念だったな――と、らいかはその現実を突きつける。
呟く彼女の、前で。
「嫌だ!」
怪人は。
「こ――殺さないでくれ!」
まるで人間のように、命乞いをした。
「た、頼む、死にたくない――!」
そんなことを、泣き叫ぶ怪人に――
彼女は。
「嫌だね」
残酷にも、最終通牒を突きつけた。
「お前は――ここで殺す」
その決意は揺るぎなく、だからこそ。
「待って!」
それに待ったを掛けたのは、その戦いとすら言えない一方的な蹂躙を背後から見ていた、吠巻黒歌だった。
「そいつのこと、こ、殺すの?」
なぜか。
クロカはひどく、焦っていた。
「ああ、殺す」
「あんた、圧勝してるじゃない! もうそいつ、動ける状態じゃないわ! 何も殺さなくても――」
「怪人は」
彼女の声を遮るように。六町らいかは言う。
「人を殺すごとに、その異形度を増す」
こいつは、少なくとも五人は殺しているだろう。
らいかは氷のように冷たく言った。
「人を、殺すごとに――」
「そうだ。怪人は、人類の敵性種なんだよ」
だから、殺す。
彼女は言う。
言うけれど――
「そ、それでも!」
彼女はそれでも、食い下がる。
「それでも、あれよ……裁判を受ける権利とか、あるはずよ!」
自分でも、何を言っているのかわからない。
なぜそんな怪人を、自分を襲って来たような相手の命を、救おうとしているのかもわからない。
ただ一つ。
彼女の心に浮かぶのは。
気に食わないという思いだった。
このまま。
このまま怪人が殺されて、それでめでたしめでたしなんて終わりは――気に食わない。
なぜか、なんてのはわからないけれど。
それでもなぜか、とてつもなく嫌なのだ。
「わ、私は」
私は――
「私はあんたが人を殺すところなんて、見たく無い……」
震える声で、彼女は呟く。
「人か」
らいかは、振り向かない。
「これが、人か?」
これが。
こんな異形が。
こんな異形に成り果てるほどの、人殺しが。
それでも、人か?
「ひ、人よ」
クロカは、声を張り上げた。
「言葉が通じるなら、人でしょ」
それはきっと、吠巻黒歌のというよりも、ライカーズの主としての、ミュージシャンとしての、クロカの主張だったのだろうと思う。
だからこそ――それを受けて。
六町らいかは。
「――そうか」
と。
短く答えた。
「おい、お前」
怪人へ向けて、らいかは言う。
「だ、そうだ。聞いていたな? 人間体に戻れ」
言われれば――彼は、その体をぐじゅぐじゅと変質させ、人間の姿へと、戻った。
腕を失くし、顔の半分を破壊された――哀れな中年男性の姿が、顕になる。
「近場の交番で、自首しろ」
全ての罪を告白しろ、と。彼女は顎をしゃくる。
「どんな判決が出たとしても、従え。いいな? 脱獄なんかは、考えてくれるな。一度見逃した相手を殺すのは、寝覚が悪い」
「わ、わかった――」
しきりに頷いて、彼はゆっくりと立ち上がり、階段を登っていく。
「――ありがとう」
最後の最後、振り向きざまに呟かれたその言葉が、誰に向けられたものだったのかは――だからきっと、明白だった。
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