第五話 1
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両手両足を床に付け、諂うように這い蹲る姿勢のまま、らいかは深々と頭を下げた。額を地べたに擦り付けるところまで行く頃には、クラスメイトの視線はその全てがらいかが頭を下げる先――つまり、一日ぶりに登校した、制服姿のボーカル少女、吠巻黒歌へと向けられていた。
「あんた……何してんの」
「土下座です」
らいかは敬語を使った。謝罪の時に必要な礼くらいは、弁えている。クロカにとってしてみれば、不幸にも。悲しいことに。
あまりにも必然の結果として、集うクラスメイトの視線が、一層強く恐怖を帯びる。
クロカは頬をひくつかせた。額には、きっと青筋が浮かんでいることだろう。おそらくは自分の人生の中で、もっとも強く。
「今すぐ立って、校舎裏に来なさい」
「はい」
クラスメイトに見送られながら、朝一番の授業前。二人は教室から消えていった。
今日この日より、吠巻黒歌のあだ名は裏番長で固定されることになるのだけれど、それを当人が知ることが、卒業まで終ぞなかったことだけが、唯一の救いであっただろう。
「で」
校舎裏。
頭のてっぺんから足のつま先まで、全身という全身を余すところなく使い倒して、『怒っています』という内心を隠し立てすることなく赤裸々に表現し切ってみせるクロカに対し、らいかはただただ縮こまるばかりであった。
「朝っぱらから私の評判を地に落としてまで、あんたは何がしたかったわけ?」
「謝罪だ」
「今ここでしろ」
らいかは一も二もなく土下座した。そこが今度こそ地面剥き出しの土の上であることなど、大して気にすることではない。むしろ土の下に潜り込めないことを恥じ入るばかりだ。穴があったら入りたい。墓穴ならばもう、二人分以上掘っている彼女だが。
下げられた頭を、クロカは躊躇なく踏み付けにする。
こっそり後を着けて来ていたクラスメイトの幾人かが遠巻きにその光景を目撃して、肝臓の温度をマイナス二三七・一五度まで冷やしながら一目散に逃げ出したことなど、クロカには知る由もないことだ。
「それで? 何? なんの謝罪? 私の学校生活を滅茶苦茶にしたこと?」
らいかの頭に靴の裏を擦り付けながら――という動作にしては、伝わる力があまりにも弱くて、彼女が加減してくれていることをらいかは感じ取れてしまったのだけれど――クロカは問い詰める。
「ああ、それとも何? 今更初日のことに罪の意識が芽生えたのかしら?」
らいかの返事を促すためか、彼女はらいかの頭から足を下ろした。
解放された頭を少し浮かせて、らいかは告解する。
「実は私、絵なんて描けないんだ」
「知っとるわボゲッ!」
ぱぁん、とらいかの後頭部に、彼女がどこかから取り出したハンカチが叩きつけられた。
「え……なんで」
「熟々丸から聞いたわよ! 『あの女、とんでもない嘘をついていたぞ』って。秒で教えてくれたわ!」
きしゃー、と威嚇の咆哮を上げながら、クロカは言った。
なるほど、密告があったらしい。
いや、特に口止めをできていたわけでもないから、密ですらないか。
ただの報告、だ。
「ちゅーか、なんで私より先に熟々丸に相談してんのよ! 連絡先交換したんだから私に直接言や良かったでしょ! 謝罪もまずそっちでやれ馬鹿タレ!」
「いやすまん、直接でないと心が伝わらないかなと」
「昭和か己は! 伝わったわよ! 私の風評をめちゃくちゃにしてやりたいってドス黒い悪意がね!」
ひとしきり叫び倒して、クロカはふん、と鼻を鳴らした。それが自らを落ち着かせるための区切りであったことは言うまでもない。
「それで?」
「それで、とは?」
「あんたが絵描けないことはわかったわよ。それを結構気にしてるってこともね。だったら、なんか代案立ててんでしょ? 聞かせなさいよ」
その言葉に。
らいかは、かなりびっくりした。
「私のことを、信じてくれているんだな」
「はぁ?」
両の手のひらを空に向け、クロカは『おかしいのは私の耳かあなたの頭かどちらでしょう?』のポーズをとった。
「思い上がってんじゃないわよ。もしもあんたが『私の力ではどうにもなりません』って言い出したら、次に会うのは法廷になるってだけの話よ」
わかったらさっさと頭を捻れ、とクロカは人差し指を突き付けた。
「あといい加減頭拭きなさいよ」
なんのためにハンカチ貸してやったと思ってんのよ、と彼女はらいかの後頭部を指した。
この辺りの気遣いをせずにいられないあたりというのが、クロカの良い点であり、また損をする部分なのだろうなと思いつつも。
らいかは体を起こして、加速度をつけて後頭部へ直接渡されたハンカチで後ろ髪を拭き始めた。
「代案……というか」
代筆というか。
「私の代わりに絵を描いてもらう、候補者に関しては、見つけてあるんだ」
「……それ、学校関係者?」
「だけど、お前の秘密が漏れるような相手じゃない」
濁しつつ、らいかは言う。このように複雑な(らいか基準で)気遣いは彼女の苦手とする技能なのだけれど、だからと言って避けては通れない。あるいは跨いで通ることも、踏みつけて通ることも。
「それ、誰なわけ?」
「美術部の後輩だ」
「……あんた、絵描けないくせにそういう付き合いはあんのね」
ため息と共に、クロカはこめかみを抑える。
それは完全に誤解であって、付き合いどころかむしろ、美術部員は上から下まで一人残らず全員から、完全な厄介者として見られているのが今現在のらいかなのだけれど、都合の良い勘違いをあえて訂正する必要もないだろう。
「じゃ、そいつを連れてくればいいじゃない」
「それが、問題があってな」
「どんな?」
「本人に描く気がないんだ」
「クロカぱーんち」
ご、と。
鎖骨のあたりをグーで殴られた。
「痛い」
「痛いじゃないわよこのアホッ! どこが候補者なのよ完全に断られてんじゃないのよ!」
ちゅーか私に相談もせず勝手に依頼するな! と叫んで、クロカはもう一度らいかに拳を叩き込んだ。
「え、何? あんたマジで私と法廷で会いたいわけ?」
「いや違うんだ待ってくれ」
両手を前に突き出して、怒りのあまり逆に無表情になり始めたクロカを制する。
「説得は私では無理だった、というだけの話だ」
「性犯罪って、軽度でも厳罰化が進んでるのよね」
「話は最後まで聞いて欲しい。つまりだ。その子が話を断ったのは、私だったからだと思う。さっきクロカが言った通り、本当の依頼主を無視して頭越しに行った交渉だ。決裂以前に開始前でさえあると言っても過言じゃない」
「そうかしらね。どのみち、依頼主が私たちのバンドである、ってことは言ったわけでしょ? それでダメだったんなら、私が行っても無理でしょう。むしろ逆効果でさえあるわよ。少なくとも私だったらね。自分の作品を提供しろと言われて、一回嫌ですって断ったのに、それが代理人の勝手だったからとかわけのわかんない理由をつけて、今度は依頼主本人が直々に頼みに来ちゃったりなんかしたら、恐ろしくって仕方がないわよ。一度NOを突きつけた相手が今度は直接会いに来るなんて、悪夢以外の何ものでもないわ。脅しをかけられてるようなもんじゃない?」
「そうとも限らん。嫌だと思った理由にもよるだろう」
「何よ、どんな特殊な事情があるってわけ? まさか昨日が仏滅だったからなんて話じゃないわよね」
「安心しろ。それよりはもう少し芽のある理由だ」
つまり――
「彼女は〈ライカーズ〉のファンだからこそ、その仕事は受けられないと断ったんだ」
「はぁ?」
もう一度、彼女は手のひらを太陽に向けたけれど、無理もない話だろう。
「つまり〈ライカーズ〉が好きすぎて、そんなバンドを自分の絵で穢すことはできない――と、そんなふうに、見当違いに卑屈にも、彼女は思ってしまっているわけだ」
「どういうことよ。そんなに下手なわけ? そいつの絵ってのは」
「いいや。むしろ、かなり上手い方だと思う」
らいかは素直に言った。
「だとしたら余計に、ファンだからってのは断るための方便なんじゃないの? 素直に「そんな低俗なバンドに私の絵を使われたくなんてありません」なんて言ったら角が立つとでも思ったんでしょ」
「そうマイナスにばかり取らなくてもいいんじゃないか? 少なくとも私が見る限り、彼女は間違いなく本当のことを言っていたよ。嘘でも方便でもない。正真正銘の正直な本音だった。ライカーズを低劣なバンドだなんて、言われたら彼女は怒るだろう」
なにせ、そのメンバーの一人なのだから。
六町らいかの後輩にして、ライカーズのMVのイラストレーター候補――すなわち獅子堂熟々丸の、その正体たる師鬣未熟。
彼女に欠けているのは、自己肯定感だ。
「彼女の絵は、間違いなく天下一品だ」
それはもちろん京都発のラーメンチェーンのスープように濃厚に脂が乗っている、なんて回りくどい比喩表現というわけではない。
あるいはそれでも間違いではないかもしれないが。
今回に限っては、そのものずばりの直裁直喩だ。
「あるいは尋常の絵としては、決して万人受けするものではないかもしれない。しかしことライカーズの曲に合わせる絵としては、あれ以上のものはこの世に存在しないだろう」
誰よりも身近に、吠巻黒歌の歌に焦がれ続けた彼女だからこそ。
誰よりも身近に、ライカーズの一員として曲に向き合い続けた彼女だからこそ。
誰よりも素晴らしく、その音楽を彩る絵を描ける。
しかし彼女自身がそれを自覚できていない。というより、それを自負する勇気がない、というべきか。
「だからこそ、お前に説得を頼みたいんだ」
彼女の棟梁であるクロカ自身がその絵を認めてくれたなら、それは強固な自信に繋がるだろう。
「――わかったわ」
ため息と共に、クロカは一つ頷いた。視線をまっすぐにらいかに向け、結論を出す。
「とりあえず、その絵を見に行かせて」
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