第12話「雨音のリハーサル」
七月十八日、金曜日。空は重たい灰色をしていた。
朝から空気がまとわりつくように湿っていて、誰もがなんとなく「降るな」とわかっていた。けれど、気象予報士は「夕方まで持つでしょう」と笑顔で言っていた。予報はあくまで“予報”であって、虹ヶ丘ランドの空には通じない。
その日の放課後、聖美と実希は、ボランティアメンバー十名を引き連れて、遊園地のメインステージに集合していた。
目的は、リハーサル。
十月の本番では、このステージで開園セレモニーとエンディングセレモニーを行う予定だった。だが設備の不具合や動線トラブルを避けるため、念入りな事前確認が不可欠だった。
「マイク、もう一回テストしますねー! ボランティア番号三番、壇上から声出してもらっていいですか?」
実希が片手に持ったメガホンで指示を飛ばすと、体育祭で赤組応援団だったという男子生徒が、少し照れながらステージに上がった。
「え、じゃあ……えっと……『ようこそ! 虹ヶ丘ランドへ!』」
やや棒読みだったが、ちゃんとスピーカーから音が返ってきた。
実希は親指を立てて笑い、続いて「後方スピーカー、確認しまーす!」と声を飛ばした。
一方そのころ、ステージ裏では聖美が、配線図とにらめっこしていた。ボランティアスタッフ数名が、コードの長さや巻き癖に戸惑っていたからだ。
「……ここのコード、巻き直す前にねじれを取ってから束ねて。そうしないと来月になった時、内線にダメージが残るかも。うん、ありがとう。次、搬入口の通路幅、計測お願い」
聖美は指示を出しながら、ひとつひとつ確認していく。笑顔は浮かべていたが、額にはじわりと汗がにじんでいた。
「……聖美、なんか疲れてない?」
実希がそっと近づいて声をかけると、聖美は一瞬だけ手を止めて、苦笑いを浮かべた。
「ううん、大丈夫。ただ、思ったよりも“やることリスト”が増えてて……びっくりしてるだけ」
「それな〜。私も“スピーカーの線が絡まる問題”とか想定外すぎて笑った」
そこまで言ったところで、空が一段、暗くなった。
ごぉお……という風の唸るような音が、遊園地の奥から近づいてきて――
――ざあああっ、と、突然の豪雨がステージを襲った。
「えっ、ちょ、これマジやばくない!?」
「全部、機材、濡れるっ!」
ボランティアたちはステージから一斉に退避し、ブルーシートを手に駆け回る。だが風も強く、ステージ袖に立てていた横断幕が音を立てて倒れた。
「荷台! 荷台、濡れてる物資引き上げてっ! そっち手が足りない人、回って!」
聖美が声を張り上げ、即座に指示を飛ばす。
実希は手近なビニール袋を破って即席のテントを作り、スピーカーをくるんだ。
「延長コード、外すよっ! 通電してたら危ないからっ!」
「水、機材の下に流れ込んでるっ!」
それはまさに、想定外の“リハーサル”。
だが、その雨音の中で、彼女たちは動いていた。
誰も泣かない。誰も怒鳴らない。
ただ、目の前にあるものを守ろうと、全員が、全力で――。
雨は容赦なく、空から叩きつけてくる。
風も、声をかき消すように唸っていた。
それでも、ステージの上には誰かがいた。
水を吸って重くなったブルーシートを持ち上げながら、実希が叫んだ。
「ビニール、もう一枚! あとロープ足りてないよっ!」
「持ってくるっ!」
腕まくりしたまま走っていくのは、普段おっとりしていたはずの女子ボランティアだった。いつの間にか靴も脱げていて、泥の中を素足で駆け抜けていく。
実希は、そんな姿に気づきながらも、叫び続ける。
「危ないから! 滑らないようにっ! 誰かロープ係お願いっ!」
そこへ、聖美が走ってくる。後方の機材ラックの搬出が終わったのだろう、腕には畳んだケーブルの束が抱えられていた。
「実希、あと五分で搬出完了! 舞台下に荷物を避難させたら、あとは後列のテント張り直しだけ!」
「オッケー! じゃあ今、最前列のスピーカーと看板守ってるとこ! 前から順に引き上げてく!」
「了解!」
二人はほとんど目を合わせることもなく、次々に指示を飛ばし、手を動かした。
誰かが叫び、誰かが走り、誰かが支え――そうしてこの場所は、ひとつの“有機体”のように動いていた。
しばらくして、雨が少しだけ弱まった。
その隙を見て、最後の一台のアンプをブルーシートで包み、実希がバツンと養生テープで留めた。
「……よしっ、こんだけ守れたら、たぶん大丈夫……!」
そこへ、聖美が戻ってきて、泥で染まった軍手を見せながら、少し笑った。
「防水って……完璧にはいかないけど、でもちゃんと守ったね」
実希は、雨で濡れた頬に手を当て、ふっと息を吐いた。
「なんとか、なった……いや、してみせた!」
聖美は小さくうなずいた。
「みんな、怪我してない。ケーブルもまだ使える。養生シートは破れなかった。……“想定外”だったけど、いい練習になったかも」
「うん。……ねえ聖美、これさ」
実希が泥の中に投げ出されたビニール傘を拾いながら、ぽつりとつぶやいた。
「今日、雨じゃなかったら、うちら、ここまで動けたかな?」
その言葉に、聖美は目を細めて答える。
「……わからない。でも、きっと“動ける”って信じてたし。今日、ほんとに動けたから、私は嬉しい」
「うん。……じゃあ、さ。これからも絶対、大丈夫だよね。もっとすごいこと、来ても」
「大丈夫。だって――」
聖美は、風で飛ばされそうになるカラーボードを押さえながら、静かに言った。
「今日、うちら“雨のリハーサル”やったんだよ。……こんな贅沢な準備、本番じゃ味わえないもん」
その言葉に、実希は思わず笑って、傘を回した。
雨粒がぱらぱらと飛び散る。もう、空は少し明るくなり始めていた。
夕方五時過ぎ。
小降りになった雨の中で、撤収作業はほぼ完了していた。
壊れたものは――横断幕の支柱が一本折れたのと、ステージ横のベンチがひっくり返って泥に沈んだくらい。肝心の音響機材や進行台本は、ほぼ無傷で守られていた。
それは奇跡でも偶然でもなく、「全員で対応した」からこそ。
ボランティアの一人が、壊れたベンチを見て「あーあ、祭りのとき直そっか」と苦笑いして、聖美に「スゴかったっすね、さっきの指示」と声をかけた。
「え? いやいや、私、ただ……」
そう口ごもった聖美に、実希が続けた。
「“声掛け→全員行動”の人だよね、あんたは」
「……それ、褒めてる?」
「当たり前でしょ。超かっこよかったよ。あの雷鳴ったとき、一瞬で動いたの、あんただけだった」
「……なんか、無意識だったけどね。でも、動けてよかった」
二人は笑い合う。
それは、虹ヶ丘ランドで何度も何度も繰り返されてきた笑顔と同じだった。誰かと一緒に、何かを守ったときにだけ見せる、ちょっと誇らしげな、そんな笑顔。
ふと、実希が濡れた段ボールの上にしゃがみ込み、ぼそっとつぶやいた。
「……でも、やっぱ天気って怖いね。本番でも、こんなん来たらどうしようって、思っちゃう」
それを聞いた聖美は、立ち上がったまま、黙って空を見上げる。
「たしかにね。でも……“怖いから準備する”って、悪くないかも」
「うん……わかる。私も、なんか今日で、“対策すること”が前より好きになったかも」
雨はまだ降っていたが、もはや恐ろしくはなかった。
怖さに備える術を、彼女たちは学んだから。
そして、守りきれた実感があるから。
そのとき、倉庫の方からバケツを持った男子生徒が駆けてきた。
「ねー! 機材用のカバー乾かすって、どこに干したらいい? ビニールだから滑るかもって」
「あ、だったらステージ裏の柵に引っかけよっか! さっき拭いたから乾きやすいと思う!」
実希が応じると、また別のボランティアが「俺も運ぶわ」と走り出す。
もう、誰に言われるでもなく、動けるようになっていた。
誰かの“指示待ち”ではない。誰かを“助けたい”という思いが、みんなの中で自然に育っていた。
雨のリハーサルは、終わった。
そして、次は“晴れの日”に向かって、また動き出す――。
翌日、梅雨が明けた。
桜峰市の空は、まるで昨日の嵐を忘れたかのように晴れ渡り、入道雲が夏の輪郭を描いていた。
放課後、桜峰中学校の生徒会室。
一翔、結衣、洋輔、幸平、蘭、裕介も集まっていた。昨日の“豪雨事件”の報告を兼ねて、次回の進行確認をする予定だった。
ドアを開けると、先に来ていた実希と聖美が、ホワイトボードに“雨天マニュアル”の項目を書き込んでいた。
「避難誘導の掛け声は統一したほうがいいね。“一列に並んで出口へ”とかさ」
「誘導係の配置、今回は偶然スムーズだったけど、次から明確に決めよう」
一翔が思わずつぶやく。
「うわ……めっちゃ本格的だな。昨日の嵐、まるで演習だったみたい」
実希が振り返り、少しだけ得意げに笑った。
「演習じゃなくて、初舞台だったのかもよ。『虹ヶ丘ランド一日復活大作戦』の、ね」
「そっか……確かにそうかも」
結衣は頷きながら机に書類を広げる。
「機材、ケーブル、テント、ブルーシート……損壊ゼロ。みんなが動いてくれたおかげ。ありがとう、ほんとに」
幸平が腕を組み、椅子を斜めに傾けてうなずいた。
「ま、俺の柔軟運動講座の成果が出たな」
すかさず洋輔が割って入る。
「いやいやいや! アイスでやる気出した俺の功績も忘れないで!」
「はいはい、お前の“アイス理論”は永久保存しとくから!」
全員が笑いながら、ホワイトボードの前に自然と集まる。
聖美がマジックペンを置き、ホワイトボードに一言、書き加えた。
《雨の日にも、笑顔の遊園地を。》
その言葉に、一瞬だけ全員が静かになる。
けれどその後、だれかが照れ笑いし、誰かが「やるじゃん」と口にする。
一翔は、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。
この仲間たちと一緒にいられること、この瞬間に立ち会えていること、それがたまらなく誇らしかった。
虹ヶ丘ランド――取り壊されるはずのあの場所が、たしかにもう一度“命”を得て動き始めている。
この感覚があれば、きっとまだどんな困難も乗り越えられる。
たとえ、次に何が来ようとも――。
カタッと、教室の窓が揺れた。
それは風のせいだったのか、あるいは、次の嵐の前触れだったのか――
そのときの彼らは、まだ知る由もなかった。
(第12話 完 / End)
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