エピソード2「3時33分の声」
2日目の夜、有樹とミカは再び桜丘高等学校にやってきた。
「今日も平和に終わるといいんだがな」
有樹は懐中電灯を手に取りながら呟いた。昨夜のミカの言葉が気になっていたが、結局何も起こらなかった。きっと今夜も同じだろう。
「……そうはいかない」
ミカが小さく呟いた。
「は?」
「……何でもない」
ミカは首を振ったが、その表情はいつもより緊張しているように見えた。
最初の見回りは午後11時。校舎は相変わらず静まり返っており、非常灯の薄明かりが廊下を照らすだけだった。各教室を回り、異常がないことを確認する。体育館、図書館、職員室。どこも問題ない。
午前1時の見回りも同様だった。ただ、ミカが時々立ち止まって3階の方を見上げることがあった。
「おい、何が気になるんだ?」
「……もうすぐだ」
「もうすぐって何が?」
ミカは答えなかった。
午前3時、3回目の見回りが始まった。有樹は時計を確認する。3時27分。山田が言っていた「3時33分」まであと6分だ。
階段を上がりながら、有樹は自分の心拍が少し早くなっているのに気づいた。別に何が起こるわけでもないのに、なぜか緊張している。
3時30分。3階の廊下を歩いていると、ミカが突然立ち止まった。
「……来る」
「何が来るって?」
有樹が尋ねた瞬間、どこからか時計の音が聞こえた。カチン、カチン、カチン。秒針が刻む音だ。
3時33分になった瞬間だった。
「問題3番の答えは…」
微かな声が聞こえた。有樹は振り返る。
「今の聞こえたか?」
「……ああ」
ミカは頷いた。
「時間が足りない…」
「まだ10分しか経ってないよ」
「集中して、集中して…」
複数の声が重なって聞こえてくる。すべて若い声だった。高校生くらいの年齢に聞こえる。
「おい、これって…」
有樹は慌てて声のする方向を探した。3年A組の教室から聞こえているようだ。教室の扉に近づくと、声がはっきりと聞こえるようになった。
「この問題、分からない…」
「もう少し、もう少し時間があれば…」
「誰かが夜中に勉強してるのか?」
有樹は教室の窓から中を覗き込んだ。しかし、教室には誰もいない。机と椅子が整然と並んでいるだけだ。
「……彼らは試験を受けている」
ミカが後ろから静かに言った。
「彼らって誰だよ。教室には誰もいないじゃないか」
「君は彼らが見えないのか?」
ミカの表情がいつもより真剣になった。
「見えないって何が? 誰もいないだろ」
有樹は再び教室を見回した。やはり誰もいない。しかし、声は確実に聞こえ続けている。
「もう時間がない…」
「答えが書けない…」
「先生、もう少しだけ時間を…」
声に混じって、ペンで紙に文字を書く音や、消しゴムで消す音も聞こえてくる。明らかに複数の人間が何かを書いている音だ。
有樹は教室の扉を試してみたが、鍵がかかっていて開かない。
「おかしいだろ、これ。声は聞こえるのに誰もいない」
「……彼らはここにいる。ただ、君には見えないだけだ」
ミカは教室の扉に手を当てた。
「君には何が見えてるんだ?」
「……受験生たちが試験を受けている。12人いる」
「12人?」
「みな苦しそうな表情をしている。時間に追われて、必死に答案用紙に向かっている」
ミカの声に、いつもの無感情さとは違う何かが混じっていた。
「でも、なんで俺には見えないんだ?」
「……分からない。でも、彼らは確実にそこにいる」
その時、声が止んだ。急に静寂が戻る。
有樹は時計を確認した。3時45分。声が聞こえていたのは12分間だった。
「終わったのか?」
「……また明日の同じ時間に始まる」
ミカは教室から離れながら言った。
「毎日? 毎日同じことが起こるのか?」
「……そうだ」
見回りの残りを終えて警備員室に戻ると、有樹は混乱していた。確実に声は聞こえた。しかし、教室には誰もいなかった。ミカには12人の受験生が見えているという。
「おい、あの受験生って何者なんだ?」
「……分からない。でも、彼らは長い間そこにいる」
「長い間って、どのくらい?」
「……とても長い間だ」
ミカはそれ以上答えなかった。
翌朝6時、勤務が終わって車に向かう途中、有樹は決心した。
「学校の人に聞いてみよう」
「何を?」
「この学校の歴史だ。何か事件でもあったのかもしれない」
ミカは振り返って校舎を見つめた。
「……彼らはまだそこにいる」
その瞳に、昨夜よりもさらに深い影が宿っているように見えた。
車を運転しながら、有樹は昨夜の出来事を整理しようとした。声は確実に聞こえた。ミカには受験生が見えているらしい。そして、それが毎日繰り返されているという。
「一体何が起こってるんだ…」
有樹は呟いた。今日は学校の事務員に話を聞いてみよう。きっと何か重要な情報があるはずだ。
帰宅途中、有樹は後ろの席のミカを見た。ミカはずっと校舎の方を振り返っている。まるで、そこに誰かを残してきたかのように。
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