エピソード4「光の治癒」

事故から一時間後、倉庫内の片付けは一段落していた。クレーンは完全に使用不能になり、専門の業者が呼ばれるまで立入禁止の黄色いテープが張られている。有樹は疲れた表情でミカと共に休憩スペースに座っていた。


「まさか今日こんなことになるとは...」


有樹は小さくため息をついた。彼の怪我は完全に治っていたが、精神的な疲労は残っていた。ミカは隣に座り、黙ってアイスを食べている。有樹が買ってきた抹茶味のアイスだ。


「お前さ、なんでいつも無表情なのに、あの時だけ俺の名前を呼んだんだ?」


有樹は気になっていた疑問をようやく口にした。ミカはアイスから目を離さず、しばらく沈黙していた。


「...危険だったから」


「それだけか?」


「...」


ミカはアイスを食べ終え、空の容器を見つめていた。そして、珍しく長い言葉を紡いだ。


「名もなき者...と呼ぶように教わった。でも、あの瞬間...本当の名前を呼びたかった」


「教わった?誰に?」


「...覚えていない。記憶の中の誰か」


有樹は思わず身を乗り出した。ミカが自分の過去について話すのは珍しいことだった。


「あの光は...」有樹は自分の胸に手を当てた。「怪我を治したんだよな。前にもやったことあるけど、今日は人前で...」


「...あなたを助けたかった」


その言葉に、有樹は胸が締め付けられるような感覚を覚えた。これまで「名もなき者」と呼び、感情を表に出さなかったミカが、自分を助けるために力を使い、名前を呼んだのだ。


「...ありがとう」


有樹は素直に感謝の言葉を口にした。ミカは小さく頷いた。


休憩スペースにやってきた佐藤は、二人を見て微笑んだ。


「お疲れ様!大丈夫?」


「ああ、なんとか」


佐藤はミカの隣に座った。「ミカさん、本当にありがとう。僕、助けてもらったよね」


ミカはただ頷くだけだった。


「でも、さっきの...」佐藤は言葉を選んでいるようだった。「天使っていうのは本当?」


有樹は注意深く佐藤の反応を見ていた。驚くべきことに、佐藤の表情には恐怖や不信感はなく、純粋な好奇心だけが見えた。


「佐藤、今日見たことは...」


「秘密にするよ!」佐藤は有樹の言葉を先取りした。「だって、こんなこと話したら誰も信じないし、ミカさんが困ることになるでしょ?」


有樹は安堵のため息をついた。「そうだな...ありがとう」


「でも...」佐藤は少し興奮した表情で続けた。「本物の天使に会えるなんて、すごいことだよね!僕、子供の頃から天使とか超常現象とか好きだったんだ。だから、ミカさんのこと、もっと知りたいな」


ミカは佐藤をじっと見つめた。「...なぜ恐れない?」


「恐れる?どうして?」佐藤は首を傾げた。「ミカさんは僕を助けてくれたんだよ?怖いなんて思わないよ」


ミカの表情に、わずかな変化があった。驚きのようなものだ。


「それに」佐藤は続けた。「天使って善い存在でしょ?だったら怖がる理由なんてないよ」


有樹は佐藤の単純明快な思考に苦笑した。「単純に考えるもんだな」


「複雑に考える必要ある?」佐藤は笑った。「僕はただ、今日のことを感謝してるだけだよ」


その時、木村が休憩スペースにやってきた。「お疲れ様です。皆さん大丈夫ですか?」


「はい、なんとか」


木村は三人の前に座った。「山下さんが警備会社と保険会社に連絡しました。明日、業者が来て修理の見積もりをするそうです」


「そうですか」


木村はミカを見た。「ミカさん、あなたのおかげで大事には至りませんでした。ありがとう」


ミカは小さく頷いた。


「それと」木村は声を潜めた。「映像の件は、完全に処理しました。心配ないです」


「ありがとうございます」有樹は感謝した。


佐藤は好奇心に満ちた眼差しで木村を見ていた。「木村さんも...何か知ってるんですか?」


木村は微笑んだ。「私も...少しだけ、ね」


具体的な説明はなかったが、木村が特別な存在を知っていることは明らかだった。有樹は木村のことをもっと知りたいと思ったが、今は聞くべきではないと判断した。


「今日の作業はここまでにしましょう」木村は立ち上がった。「皆さん、お疲れ様でした」


有樹とミカも立ち上がった。帰り支度をしていると、佐藤が声をかけてきた。


「あの、土田さん、ミカさん。また会えますか?」


「また会える?」有樹は驚いた。


「うん、今度は普通に...友達として」


佐藤の素直な申し出に、有樹は少し考えてから答えた。「まあ、構わないけど...」


「やった!連絡先、教えてもらえますか?」


佐藤と連絡先を交換した後、有樹とミカは倉庫を後にした。駐車場に停めてあった車に向かいながら、有樹は今日の出来事を振り返っていた。


「なんだか長い一日だったな」


ミカは黙って車に乗り込んだ。有樹もハンドルを握り、エンジンをかけた。


帰り道、車の中は静かだった。有樹は時々、助手席のミカを見ていた。ミカはいつもと変わらない無表情で窓の外を眺めていたが、何かが違っているように感じた。


「ミカ」


「...」


「これからは...俺を名前で呼んでくれるのか?」


ミカはしばらく黙っていた。「...呼べばいい?」


「ああ、俺はそっちの方がいい」


「...わかった、有樹」


その言葉に、有樹の胸の奥が温かくなった。なぜだか、目頭が熱くなる。


「そうか...」


車は静かに走り続けた。マンションに帰るまでの道のりで、二人はほとんど言葉を交わさなかったが、それは不快な沈黙ではなかった。何かが変わった。何かが始まった。そんな感覚だった。


帰宅すると、有樹はリビングのソファに座り込んだ。疲れた体に力が入らない。ミカは冷蔵庫に向かい、アイスを取り出した。


「また食うのか...」


「...美味しいから」


有樹は笑った。「お前、単純だな」


ミカはアイスを持ってソファに座った。有樹の隣だ。いつもなら少し離れた場所に座るのに、今日は違った。


「ミカ」


「...」


「今日、俺を助けてくれてありがとう」


ミカはアイスを口に入れながら、小さく頷いた。


「でも、不思議だよな。お前が天使かどうかなんて、別に俺には関係ないはずなのに...」


「関係...ない?」


「そうだよ。俺とお前は、何の関係もないはずだ。ただ偶然出会って、一緒に住んでるだけで」


ミカはアイスを食べるのを止め、有樹を見た。


「でも」有樹は続けた。「今日、お前が俺の名前を呼んだとき...なんだか嬉しかった」


ミカの表情に、微かな変化があった。驚きだろうか、それとも...


「有樹」


「なんだ?」


「...私は天使...なのか?」


有樹はミカを見つめ返した。「そうだろう、たぶん。普通の人間じゃないことは確かだ」


「でも、記憶がない」


「ああ、それは知ってる」


ミカは空になったアイスの容器を見つめた。「もし...天使でないなら?」


「天使だろうが何だろうが、お前はお前だ」有樹は肩をすくめた。「俺にとっては、ミカはミカでいい」


ミカの目に、わずかに光が宿ったように見えた。


「...有樹」


「なんだ?」


「...ありがとう」


その言葉に、有樹は思わず目を見開いた。「お前が俺にお礼を言うなんて、珍しいな」


「...そうか?」


「ああ、かなり珍しい」


ミカは立ち上がり、空のアイス容器をゴミ箱に捨てた。そして窓際に立ち、夜空を見上げた。


有樹も立ち上がり、ミカの隣に立った。


「空を見て何か思い出すか?」


「...少しだけ」


「どんなこと?」


ミカは言葉を選ぶように少し間を置いた。「光...そして使命」


「使命?」


「...覚えていない。でも、何かをするためにここにいる」


有樹はミカの横顔を見た。月明かりに照らされたミカの姿は、確かに人間離れした美しさがあった。


「お前の使命が何であれ、俺にできることがあれば言ってくれ」


ミカは有樹を見た。「...本当に?」


「ああ、当然だ」


「なぜ?」


「なぜって...」有樹は言葉に詰まった。なぜだろう?なぜ自分はこの不思議な存在を助けようと思うのか?「俺たちは...一緒にいるからだ」


簡単な言葉だったが、それがミカには通じたようだった。小さく頷き、再び夜空に目を向けた。


「有樹」


「なんだ?」


「...私は、ここにいていいのか?」


その質問に、有樹は迷わず答えた。


「ああ、いいに決まってるだろ。俺とお前は...」言葉を選びながら、「一緒にいるべきなんだと思う」


「...そうか」


ミカの口元に、かすかな笑みが浮かんだように見えた。それは月明かりの錯覚かもしれないが、有樹にはそう見えた。


二人は黙って夜空を見上げていた。今日の出来事が二人の間に何かを変えたことは確かだった。ミカが有樹の名前を呼び、有樹を守るために力を使ったこと。その全てが、二人の関係性を深めていた。


「ミカ」


「...」


「明日も...バイト、行くか?」


ミカは少し考えてから答えた。「...行く」


「そうか」有樹は笑った。「なら、明日もよろしく頼む...ミカ」


「...わかった、有樹」


その夜、有樹は久しぶりに安らかな眠りについた。明日も、明後日も、その先も、この不思議な共同生活は続いていく。そして、いつか明かされるであろうミカの正体と使命。それまでは、有樹はミカと共に道を歩んでいくことを選んだ。


それが「天使」と呼ばれる存在と「名もなき者」ではない人間との、奇妙な絆の始まりだった。

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