【完結済】斥候は、王宮魔術師を忘れられない

キノア9g

第1話 三年の空白、再会の瞳


 あの日、王都の空は、雲ひとつない快晴だった。


 煌びやかな王都の城下町は、まるで絵画のように整っていた。白石を敷き詰めた道には人波が絶えず、香ばしい焼き菓子の匂いや絹布のはためく音が、目まぐるしく感覚を満たしてくる。だが、そんな活気に満ちた景色の中で、ただひとり立ち尽くす自分には、すべてが遠く、まるで他人事のように感じられた。


 リオンが王城の門をくぐる瞬間、陽光を背にしたその姿はまばゆく、どこか別の世界へ昇っていくように見えた。青と銀を基調にした王宮魔術師の礼装が風に揺れ、光そのものを纏っているように映った。


 ――ああ、もう、届かない。


 息を潜め、建物の影からその背を見送ることしかできない自分が、ひどく惨めに思えた。


「……リオン」


 唇から漏れたその名は、風に攫われて消えていった。胸の奥に沈めてきた想いが、堰を切ったように疼き出す。


 自分はS級冒険者パーティー《暁の剣》に所属し、斥候として最前線に立っていた。その隣には、いつもリオンがいた。誰よりも信頼できる魔術師であり、かけがえのない恋人だった。


 リオンは若くして、卓越した魔術の才を示していた。王宮からの召し抱えの話が届くのも、時間の問題だった。


 誇らしさと不安が、同じだけ胸の奥に棲みついて離れなかった。


 泥と血にまみれる冒険の日々。命を担保にするような任務。そんな世界に、自分は属している。だが、リオンは違った。光の中を歩く人間だ。王宮魔術師として、知と力の象徴となる存在。


 ――彼の隣に、自分のような影の者がいていいはずがない。


 嫉妬でも諦念でもなかった。ただ、リオンの未来を思えば思うほど、身を引くべきだという考えが頭から離れなかった。


 それでも、別れを口にすることはできなかった。愛していたからだ。言葉にした途端、何もかもが壊れてしまいそうだった。だからこそ、自分はすべてを呑み込んで、ある日、黙って姿を消した。手紙も、何の言葉も遺さずに。


「……元気で、リオン」


 最後に呟いたその言葉が、祈りだったのか、呪いだったのかは、今でもわからない。


 《暁の剣》を脱退し、王都を離れた。誰にも知られず、ひっそりと。


 ◇◇◇


 それから三年が経った。


 風の強い季節だった。海の向こうから吹きつける潮風が、肌に塩を残していく。ここは辺境の港街アークス。王都から遠く離れたこの場所で、自分は小さな冒険者ギルドに身を置いていた。


 かつてのような名声は、とうに捨てた。今残っているのは、斥候としての腕と、できるだけ目立たずに生きるための知恵だけだった。


 受付嬢が依頼書を手に、カウンター越しに声をかけてきた。


「カイトさん、討伐依頼が入ってますよ。……ちょっと、厄介なやつですけど」


 差し出された羊皮紙に目を落とす。見慣れない印とともに、討伐対象の名が記されていた。


「……グリムボア、か」


 その名を見た瞬間、背筋にわずかな緊張が走った。全身を黒い剛毛で覆われた大型の魔物。大地を砕くような突進で知られ、危険度は高い。通常は森林地帯に棲むが、最近は人里にまで現れるようになったと聞いていた。


「王都から討伐隊が派遣されるそうです。合流指示が出ています」


「……王都?」


 その言葉の響きに、胸が微かにざわついた。


 まさか、という思いが一瞬よぎった。だが、三年も経っている。あの人が、こんな辺境に来るとは思えなかった。今さら顔を合わせたところで、何を言えるというのか。


 無言で依頼書を受け取り、装備を整えた。指定された集合場所へと、足を向ける。


 そこには、すでに数十人の冒険者と、王都から派遣されたと思しき騎士団が集まっていた。甲冑の鈍い光がちらつき、緊張が肌を刺すように漂っている。その中央に――彼の姿があった。


 金糸のような髪が、陽光を受けて輝いていた。蒼のローブを纏い、真っ直ぐに立つその姿は、記憶の中のどの彼よりも、遥かに強く、美しかった。


「……リオン、様」


 喉の奥から、自然にその名がこぼれ落ちた。誰にも聞こえないほど、微かな声だった。


 

 まるで何も変わっていない気がした。けれど――確かに、変わっていた。

 気品、威厳、そして一歩近づくことをためらわせるような距離。それが、王宮魔術師という肩書きの重みなのだと、思い知らされた。


 ふと、リオンの視線がこちらに向いた。目が合った――気がした。


 その瞬間、彼の身体がぴたりと止まり、視線の奥に何かが走ったように見えた。動揺なのか、驚きなのか、遠目には判別がつかない。けれど、ほんのわずか、呼吸が乱れたように感じられた。


 こちらもまた、動けなかった。


 三年という時が、まるで壁のように、ふたりの間に立ちはだかっていた。


 だが、リオンはすぐに顔を上げ、何事もなかったように視線を巡らせた。冷静で、指揮官としての態度を崩すことなく、場を統べていく。


 カイトは、ただ黙ってその様子を見ていた。何かを思い出すことすら、今はできなかった。心の奥が、鈍く痛んでいた。


「私は王宮魔術師、リオン・ルシフェリア。今回の『グリムボア』討伐隊の指揮を執る」


 響き渡るその声には、かつてよりも凛とした硬さがあった。どこか張り詰めた空気すら感じる。


「諸君には、秩序ある行動と、最大限の協力を求める」


 誰もが、その声に導かれるように姿勢を正していた。見慣れた後ろ姿が、遠い場所にあるように思えた。


 カイトは、一歩だけそっと後ろに下がる。人垣の中に身を沈め、リオンの視界に映らぬように努めた。目立たぬように。ただ、それだけを祈るように。


 討伐の準備が進み、隊列の最終確認が行われていた頃だった。


 森の奥から、怒号とともに、乾いた枝の砕ける音が響いた。


「――グリムボアだ! 奇襲だ!」


 地鳴りのような咆哮。次いで、漆黒の巨体が木々をなぎ倒して現れる。あの巨体、鈍く光る硬質な毛皮、口元に覗く無数の牙――見間違いようもない。


 想定を超える速さだった。整列する間もなく、討伐隊はたちまち混乱に陥る。


「落ち着け! 後衛は牽制を、前衛は防御に回れ!」


 リオンの声が、空気を裂くように飛んだ。その一言で、周囲の気配がわずかに立ち直った気がした。揺れる視線の中で、人々が再び動き出す。


 けれど、その一瞬。


 あの魔物の視線が、まっすぐリオンに向いた。次の瞬間には、巨体が地を蹴っていた。一撃で致命になる――その突進の軌道に、言葉よりも早く身体が反応していた。


 カイトは地を蹴り、空気を裂くように駆けた。足の裏に伝わる土の感触すら覚えていない。ただ、本能が一つの方向だけを指していた。


 咄嗟に腰の短剣を抜き、リオンと魔物の間に滑り込む。


 こんな刃では、毛皮一枚すら傷つけられないことは分かっていた。だが、進路を逸らすことくらいは、できるかもしれない。


 体を横に入れて肩をぶつけ、足を踏ん張る。衝撃が骨を鳴らし、視界が一瞬、白く染まった。


 それでも、リオンの前に立ちはだかるように、腕を広げる。


「リオン様、早く……下がってください!」


 叫ぶと同時に、牙の一つが右腕をかすめた。熱いものが弾け、皮膚が裂けるような感覚が走る。


 だが、今はそれどころではなかった。押し潰されそうな圧力の中で意識を繋ぎ止めていたのは、たった一つの思いだった。


 ――彼を、守らなければ。


 それだけだった。


 そのとき、耳の奥を風のような詠唱が震わせた。


 すぐに、白銀の閃光が魔物の脇腹に叩き込まれる。焼け焦げたような臭いと、鋭い咆哮。リオンの魔術――鋭く、正確で、研ぎ澄まされた一撃。


「カイト、下がれ!」


 鋭い声が飛ぶ。刃のような言葉に、反射的に地を蹴って後方へ飛び退いた。膝をつきながらも、目だけは彼を追っていた。


 リオンはすでに、次の魔術陣を描き始めていた。指の動きに迷いはなく、その速さに見惚れそうになる。


 周囲では魔術師たちが詠唱を再開し、剣士たちが陣形を立て直していった。


 剣と魔術の閃光が、グリムボアの巨体を連続して撃ち据える。次第に、戦場が本来の形を取り戻していくのがわかる。


 そして――巨体が、呻き声とともに崩れ落ちた。土煙が舞い上がり、地面が低く唸った。


 一瞬の静寂。そのあとで、討伐成功の歓声が広がっていった。


 周囲の熱気が高まり、仲間同士の声が飛び交う。だが、カイトの耳にはそのすべてが遠く感じられた。


 痛みも、声も、霞の向こうにあるようだった。


 ただ、リオンの姿だけが、鮮明に映っていた。


 彼は、生きている。その事実が、胸の奥でゆっくりと熱を帯びて広がっていく。


 リオンがこちらを見ていた。


 その瞳に、威圧や怒りの色はなかった。どこか押し殺されたような、掴みきれないものが潜んでいる――そんな気がした。


「お前……」


 一言だけ発して、こちらに向かってくる。


 一歩。ゆっくりと、けれど迷いのない足取り。


 そのたびに、胸が締めつけられるようだった。目を逸らしたかった。何か言われるのが、怖かった。


 だが、逃げることはできなかった。


 足を止めたリオンが、静かに口を開いた。


「……なぜ、ここにいる。カイト」


 抑えた声色が、耳に染み込んでくる。怒りとも、困惑とも、断じきれない。

 どこかで拒絶を感じた気がして、同時に、迷いにも似た揺らぎが滲んでいるように思えた。


 言葉が出なかった。喉が、からからに乾いている。


 ただ、彼の瞳の奥に燃える何かだけが、否応なく心に突き刺さった。


 三年前に終わったはずのものが、何一つ終わっていなかったような気がした。


 終われないものが、まだここにある。そんな予感が、胸の奥で静かに疼いていた。

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