第2話 怒れる感情、届かぬ心
「なぜ、ここにいる……カイト」
リオンの声は、微かに震えていた。その響きに、何か大きなものが揺れているような気がした。怒っているのか、驚いているのか。あるいは、もっと別の感情なのか。表情を直視することができず、カイトはとっさに視線を逸らした。
三年前、自分が何の説明もせずに姿を消したこと。その事実が、まるで刃のように心を抉ってくる。逃げるように立ち去ったあの日のことが、いまになって重くのしかかってきた。
言い訳を並べる気には、到底なれなかった。
「……ギルドの依頼で……グリムボアの討伐に……」
口をついて出た言葉が、自分のものとは思えないほど掠れていた。喉がひどく渇いていて、肩に力が入り、息が浅くなる。
リオンは小さく眉を寄せて、ゆっくりと息を吐いた。そのわずかな動きだけで、何かを堪えているのがわかるような気がした。
周囲では、討伐後の処理が始まっていた。負傷者の手当てにあたる者たち、隊列の整備、素材の回収――誰もが各々の仕事に従事している。だが、その合間に投げかけられる視線が、ひどく刺さる。こちらの異様な空気に気づかない者はいなかった。
「……話は、人目につかないところでだ」
リオンが一歩近づいてきた。
その腕に触れられた瞬間、反射的にカイトの身体が強張った。
「ちょ、離してくださいっ!」
振りほどこうとしたが、リオンの手は驚くほどしっかりと掴んでいて、まるで迷いがなかった。気づけば、林の奥へと半ば強引に連れて行かれていた。
枝が頬をかすめ、下草を踏み分ける音が乾いた。木々の陰に入ると、陽光は薄れ、あたりにじっとりとした静けさが満ちていった。
リオンが立ち止まり、カイトの襟をぐいと掴み上げた。
顔が近づき、カイトは息を詰めた。リオンの目に宿る強い光。その真意までは読み取れなかったが、そこにはただならぬ感情が滲んでいるようだった。
「なぜだ、カイト! なぜ何も言わずに消えたんだ?! 私がどれだけお前を捜したか、知っているのかっ!」
声がはっきりと怒気を含んでいた。怒鳴り声のはずなのに、耳に刺さるのは怒りだけではなかった。
一筋の雫が、リオンの頬を伝って落ちた。
その瞬間、胸の奥が鋭く締めつけられた。謝罪の言葉さえ、すぐには出てこなかった。
「リ……リオン様っ……」
口から漏れた呼びかけに、リオンの目が大きく揺れた。
「リオン様、だと? なんだ、そのよそよそしい呼び方はっ!」
手が襟から離れ、今度は肩を強く掴まれた。
「お前は、私のことをリオンと呼んでいたはずだろう?! なぜ、そんなふうに変わってしまったんだ!」
言葉の一つひとつが、皮膚の下まで突き刺さるようだった。
この三年間、何度も繰り返し胸の内で呟いてきた言葉があった。けれど、いざそれを口にするとなると、喉の奥が焼けつくようだった。
「……僕は……リオン様に、ただ幸せになって欲しかったんです」
遠くから誰かが喋っているような、他人事のような響きだった。
「リオン様は、王宮魔術師として、もっと……遠くまで行ける人だから。僕が隣にいれば、きっと……」
言いながら、自分の中で何かが崩れていくのを感じた。
「……僕が隣にいては、リオン様の評判に傷がつく。だから、僕は……っ」
「だから、お前は勝手に、私の幸せを決めつけたっていうのか?!」
リオンの声が、鋭く空気を裂いた。その勢いに、思わずまばたきをした。
「私の未来に、お前が必要なかったとでも言うのか?! 私が、お前がいなくなって、どれだけ……どれだけ絶望したか、分かるのか……っ!」
またしても、リオンの目から涙が溢れた。今度は隠すような素振りもなく、彼は顔を歪め、拳を握りしめた。
「お前がいなくなった後、私はひたすらお前を捜し続けた。ギルドも、王宮の伝手も使った。でも、どこにもいなかった。まるで、最初からこの世に存在しなかったみたいに……っ!」
呼吸が乱れていた。肩が上下し、声が途切れ途切れになる。目の前のリオンは、どこか痛々しいほどだった。
「お前がいなくなってから、私はまるで心にぽっかり穴が開いたようだった。魔術の鍛錬も手に付かない。食事も喉を通らない。周りの連中は、私が王宮魔術師になれて喜んでいるとでも思いやがって……!」
唇の端に浮かんだ笑みは、どこか自嘲気味に見えた。
「だけど私は……私は、ただお前が隣にいないことが、辛くて、苦しくて、たまらなかったんだ……っ!」
その声が掠れた。何も言えず、ただ見つめ返すことしかできなかった。
「そんな中で、私は考えたんだ。お前が私の前から消えたのは、私に何かが足りなかったからだと。お前が、私を必要だと思うくらい強くなれば、きっと戻ってくると……」
リオンの拳が、わずかに震えていた。
「だから私は、必死で勉強した。魔術を磨いた。地位を高めたのも、名誉も……全部、お前を取り戻すためだった」
その言葉に込められた想いの重さは、言葉にならないほどだった。
「お前が、私の隣に帰ってくるように。立派な存在になるために、私は……」
ぐらりと、視界が揺れた。何かを見誤っていた。いや、ずっと、最初から間違っていたのだ。
「そんな……っ」
膝から力が抜け、カイトはその場にしゃがみ込んだ。
自分が選んだと思っていた道が、結果として彼を深く傷つけていた。そう思うと、全身が鉛のように重くなった。
「僕は……僕は、ただ……リオン様が、もっと輝けるようにって……っ、僕なんかが隣にいるより、もっと、リオン様にふさわしい人がいるって……そう、思い込んで……っ」
喉の奥が焼けるように痛かった。言葉にするたび、過去の決断の軽さが突きつけられてくる。
けれど、それはリオンの怒りを鎮めるどころか、火に油を注ぐことになった。
「思い込んで? なぜそれを、私に相談すらせずに、全部ひとりで決めたんだっ!」
その声に込められた悲しみが、否応なく胸を貫いた。
「私の未来には、お前が不可欠だったんだ! それなのに、お前は、私から何もかも奪って、勝手に消えた! 私の心に、消えない傷を残して……っ!」
リオンは顔を背け、金の髪がゆっくりと揺れた。その隙間から、濡れた頬がちらりと覗いた。
震えていたのは、声だけではなかった。肩も、背中も、小さく揺れていた。
――リオン・ルシフェリア。王宮筆頭魔術師。誰よりも強く、冷静で、誇り高い人。
そんな彼が、こんなにも傷ついた姿を晒している。それほどまでに、自分は彼を追い詰めていた。
「……ごめんなさい……ごめんなさい、リオン様……っ」
それしか言えなかった。何を言っても足りないと分かっていても、それでも、謝らずにはいられなかった。
そのときだった。
森の向こうから、誰かの声が響いた。
「リオン殿ー! 王都からの伝令でございます!」
緊迫を帯びた呼び声に、胸の奥がざわついた。馬の蹄が地を打つ音が近づいてくる。葉擦れに混じって、鎧の擦れる音が風に運ばれてきた。
リオンが顔を上げた。その一瞬、彼の表情から熱が引いていくように見えた。どこか遠くへ意識を切り離したような、凍りついた目の奥。静かで、けれど息が詰まるような空気に変わる。
――あれが、王宮魔術師の顔だ。
職務に徹するために、何もかもを内にしまい込むような、厳しい目だった。
その変化に、カイトは言葉を失った。彼が私情をすべて胸に沈めたことを、言葉にされずとも察してしまった。
「……先に戻る」
リオンは短くそう言って、背を向けた。
ついさっきまで熱くぶつけてきた感情が嘘のようだった。低く、乾いたその声は、どこか事務的で、冷えていた。まるで、ここで交わされた言葉など最初からなかったかのように。
カイトは膝をついたまま、その背中を見送った。濡れた土の感触がじわりと膝に染み込んでくる。だがその冷たさすら、当然のことのように思えた。
──王都からの伝令は、緊急のものだった。
港街アークス周辺で、魔物の異常出現が相次いでいるらしい。しかもそれは、グリムボアだけではなく、さらに強力な個体、あるいは群れを束ねる存在が潜んでいる可能性があるという。
周辺の村にも被害が出ており、王都直轄の討伐隊が再編されるとのことだった。
「また、ギルドマスター殿の推薦により、カイト殿にも引き続き、討伐隊の斥候として任務に就いていただきたいとのことです」
そう言われた瞬間、カイトは思わず顔を上げた。予想していなかった言葉に、胸が詰まった。
リオンは一拍の間も置かず、静かに応じた。
「承知いたしました」
その声に、感情の起伏は感じられなかった。王宮魔術師としての整った語調――敬意と冷静をまとった声だった。
そして、その間ずっと、リオンの目がこちらを向くことはなかった。
──また、彼の隣で任務に就く。
けれどそれは、もう“あの頃の二人”ではない。何気ない言葉を交わし、肩を並べて笑い合った日々は、遠く手の届かない場所にある。
気づかぬうちに、二人の間には深い溝ができていた。ただの想いでは埋まらない、静かで重たい距離が。
それでも。
それでも、彼の力になりたいと思った。
過去を償うように、失ったものを取り戻すように。いまの自分にできることを、ひとつずつ積み重ねていくしかなかった。
――それだけが、自分を支えているものだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。