第8話:過去の力の片鱗

 リリスが嵐のように去ってから、店の空気はどこかぎこちないものになった。

 エリーゼは、あからさまに不機嫌だった。アッシュが何か話しかけても、「…はい」「…別に」と短い返事しか返ってこない。カウンターを拭く布巾ふきんの動きも、心なしか力が入っているように見える。

 (これは…拗ねているのか?)

 アッシュは、女性の機微にそれほど詳しいわけではない。魔王軍時代は、色恋沙汰などとは無縁の、ただ剣と血に塗れた日々だった。だが、目の前の少女が、先程のサキュバスの言動に心を乱されていることだけは、鈍い彼にも分かった。

 どうしたものか、と思考を巡らせていると、店の外が急に騒がしくなった。


「どけ、どけ! この店か!」

「へへへ、いい儲け話じゃねえか」


 品のない怒声と共に、店の扉が乱暴に蹴破られるように開かれた。

 入ってきたのは、見るからに柄の悪い男が三人。町のチンピラたちだった。普段は裏路地でカツアゲまがいのことをしている連中だが、白昼堂々、店に押し入ってくるとは穏やかではない。

 彼らは、カインの手下ではない。ただの、町の厄介者だ。だが、その目は欲望と悪意で濁っている。

 リーダー格らしい、図体の大きい男が、ニヤニヤと下卑げびた笑みを浮かべながらエリーゼを指差した。


「おい、そこの嬢ちゃん。お前、貴族の出なんだってな。家出して、こんなパン屋にかくまわれてるって話だぜ」

 エリーゼの顔から、さっと血の気が引いた。

 どこからか、彼女の素性が漏れたらしい。あるいは、ただの憶測か。どちらにせよ、厄介なことになった。

 男は続ける。

「身代金でも要求すりゃ、大金持ちになれるかもしれねえなあ。大人しく俺たちと来てもらおうか」

「…っ!」

 エリーゼは恐怖に身をすくませ、後ずさる。

 アッシュは、静かに工房から出てくると、エリーゼの前に立ちはだかった。


「客なら歓迎するが、それ以外の用なら帰ってくれ。うちはパン屋なんでな」

 その声は、普段と変わらない穏やかなものだった。だが、その瞳の奥には、氷のような冷たい光が宿っている。

 チンピラの一人が、アッシュを嘲笑あざわらった。

「なんだぁ、このパン屋のオヤジ。英雄気取りか? 引っ込んでろ!」

 男がアッシュを突き飛ばそうと手を伸ばす。

 しかし、その手はアッシュに届かなかった。


 アッシュは、最小限の動きで男の手首を掴むと、軽く、しかしありえないほどの力で捻り上げた。

「ぐあっ!?」

 男の顔が苦痛に歪む。骨が軋む嫌な音が、静かな店内に響いた。

「言ったはずだ。帰れ、と」

 アッシュの声は、地を這うように低い。

 リーダー格の男は、仲間がやられたのを見て逆上した。

「て、てめえ…! やっちまえ!」

 残りの二人が、腰に下げていた短剣を抜き放ち、同時にアッシュに襲い掛かる。

 狭い店内。エリーゼは悲鳴を上げそうになり、咄嗟に口を押さえた。


 だが、アッシュは動じなかった。

 彼は掴んでいた男を盾にするように前に突き出し、襲い来る二人をいなす。そして、流れるような動きで相手の懐に潜り込むと、一人の鳩尾みぞおちに的確な肘鉄を叩き込み、もう一人の顎を掌底で打ち上げた。

 ドサッ、ドサッと、重い音が二つ。

 チンピラたちは、白目を剥いて床に崩れ落ちていた。

 その間、わずか数秒。

 あまりにも鮮やかな、そして無慈悲な制圧劇だった。


 アッシュは、最初に手首を掴んだ男を床に投げ捨てると、冷たく言い放った。

「さっさと、そいつらを担いで消えろ。二度と、この店の敷居を跨ぐな」

 男は恐怖に顔を引きつらせ、仲間を引きずるようにして、這う這うのほうほうのていで店から逃げ出していった。


 嵐が去った店内に、再び静寂が戻る。

 アッシュは、何事もなかったかのように、乱れた椅子を直し始めた。

 だが、エリーゼは、その場から一歩も動けずにいた。

 彼女は見てしまったのだ。

 アッシュがチンピラたちを制圧した、その一瞬。

 彼の周りに、黒いオーラのようなものが揺らめいたのを。

 それは、ただの気のせいではなかった。禍々まがまがしく、濃密な魔力の奔流ほんりゅう。しかし、不思議なことに、その力はどこか深い悲しみを帯びているようにも感じられた。

 (あれは…何…?)

 パン屋の主人が持つには、あまりにも異質で、強大な力。

 それは、彼女が今まで見てきたどんな魔法とも違っていた。勇者カインの聖なる力とも、もちろん違う。むしろ、魔族が使うという闇の魔法に近かった。


 アッシュが、ゆっくりとこちらを振り返る。

 その顔は、いつもの穏やかなパン屋のアルフレッドだった。だが、エリーゼにはもう、彼がただのパン屋ではないことが分かってしまった。

 これまでの優しさ。温かいパン。自分を守ってくれた言葉。それら全てが、目の前の光景と結びつかない。

 信じたい気持ちと、目の前で起きた現実との間で、彼女の心は激しく揺れ動いていた。

 恐怖と、不信と、そして、ほんの少しの失望。

 裏切られた、とさえ思った。この人も、他の人間たちと同じように、何かを隠し、自分を利用しようとしているのではないか。


「……あなた…」

 エリーゼの声は、震えていた。

「一体、何者なの…?」

 問いかけに、アッシュは答えなかった。

 ただ、その瞳には、今まで見たことのない、深い苦悩の色が浮かんでいた。

「その力は…何…?」

 エリーゼは、重ねて問う。

 アッシュは何も答えられず、ただエリーゼの視線から逃れるように、そっと目を伏せた。

 その沈黙が、何よりも雄弁に、二人の間に生まれた深い溝を物語っていた。

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