第7話:リリスの来訪と不吉な予感
昨夜の襲撃者の後始末は、町の衛兵に引き渡すことでつつがなく終わった。アッシュが捕らえた男は、ただの強盗として処理されるだろう。アッシュが余計なことを話さなかったからだ。
だが、問題が解決したわけではない。むしろ、始まりに過ぎない。
アッシュは工房でパン生地を捏ねながらも、意識の半分は店のカウンターにいるエリーゼに向いていた。
彼女は、昨夜アッシュが「守る」と約束してから、少しだけ様子が変わった。怯えの色はまだ残っているが、その瞳の奥に、何かを決意したような強い光が宿り始めている。アッシュのそばを離れようとせず、仕事を手伝う時も、その距離は以前より近くなっていた。
それは信頼の証であり、アッシュにとっては嬉しい変化だったが、同時に彼の胸を重くもさせた。彼女が自分を頼れば頼るほど、守りきらねばならないという責任が、ずしりと肩にのしかかる。
カラン、と店の扉に付けられたベルが軽やかな音を立てた。
「いらっしゃいませ」
アッシュが工房から顔を出すと、そこに立っていたのは見慣れない一人の女性だった。
歳の頃は二十代半ばだろうか。身体の線を惜しげもなく強調する、深紅のドレス。腰まで届く艶やかな黒髪に、血のように赤い唇。その全身から、熟れた果実のような甘く危険な香りが漂っていた。辺境の町の、素朴なパン屋にはあまりにも不似合いな、妖艶な美女。
店の空気が、彼女一人が入ってきただけでねっとりと色を変えた。
常連客の男たちが、皆、彼女に目を奪われて呆然としている。
アッシュは、その女の顔を見て、内心で深く舌打ちした。
(よりにもよって、一番面倒な奴が来たか…)
女は客たちには目もくれず、真っ直ぐにアッシュの元へと歩み寄る。そして、その赤い唇を
「見つけましたわ、アッシュ様。こんな辺鄙な場所で、パン屋ごっこだなんて…ずいぶんとお可愛らしい趣味ですこと」
その声は、蜜のように甘く、しかしどこか
「……リリス。何の用だ」
アッシュは、低く抑えた声で名を呼んだ。リリス――かつて、魔王軍で彼の副官を務めていたサキュバス。変幻自在の能力と狡猾さで、数々の諜報活動を成功させてきた、彼の右腕だった女だ。
彼女は今、その能力で人間の姿に擬態しているが、アッシュには彼女の正体も、その底意地の悪さも、手に取るように分かっていた。
リリスはアッシュの素っ気ない態度にも構わず、彼の腕に自分の豊満な体を絡みつかせる。
「まあ、そんな冷たいことおっしゃらないで。わたくしがアッシュ様を探して、どれだけ苦労したとお思いですの?」
「断る。帰れ」
「つれないんですから」
リリスはクスクスと笑うと、ふと、アッシュの後ろに立つエリーゼの存在に気づいた。彼女は、リリスの登場に圧倒され、小さな身体を硬直させている。
リリスの目が、すうっと細められた。品定めをするような、冷たい視線。
「あら、そちらの小娘は? まさか、アッシュ様の新しいおもちゃ、ですの?」
その言葉には、隠しようのない嫉妬と
エリーゼの顔が、さっと青ざめる。
アッシュはリリスの腕を振りほどくと、エリーゼを庇うように一歩前に出た。
「彼女は、この店の従業員だ。お前には関係ない」
「まあ、怖い。そんなに大事になさって…」
リリスは面白そうに唇を舐めずると、わざとらしく大きなため息をついた。
「はあ、仕方ありませんわね。仕事の話をしましょうか。少し、お時間をいただけます?」
その言葉に、アッシュは無言で工房の奥を指差した。これ以上、店の中で騒がれるのは御免だった。
アッシュがリリスを連れて工房の奥に消えると、店にはエリーゼと、何事かと様子を窺っていた数人の客だけが残された。
エリーゼは、先程アッシュが庇ってくれたことに胸をときめかせながらも、それ以上に、リリスという女性の存在が心に重くのしかかっていた。
アッシュ様、と彼女は言った。あの親密な様子は、ただの知り合いではない。そして、自分に向けられた、あの嫉妬に満ちた視線。
(あの人は、アッシュさんの、なんなの…?)
もやもやとした、今まで感じたことのない感情が、胸の中で渦巻く。
それは、一般的に「やきもち」と呼ばれる感情だったが、エリーゼ自身はまだそれに気づいていない。
ただ、無性に腹が立って、そして、悲しかった。アッシュの側に、自分以外の女がいることが、たまらなく嫌だった。
彼女は、先程まで丁寧に拭いていたカウンターを、少しだけ乱暴にゴシゴシとこすり始めた。その唇は、固く結ばれている。
工房の奥。
リリスは、軽薄な態度を消し、真剣な表情で口を開いた。
「単刀直入に申し上げます。カイン・ウォーカーが動いています」
「昨夜、手下が来た」
「まあ、仕事が早いですこと。なら話は早いですわね」
リリスは、懐から取り出した小さな水晶に魔力を通した。すると、水晶から光の地図が浮かび上がる。
「カインは現在、古代の遺物を探して各地を移動中。その最終目的地は、おそらくこのカーム周辺です。そして…」
リリスは地図上の一点を指差す。
「奴の背後には、人間国家の軍部、特にヴァルケンハイン将軍の影があります。カインは、あの男に資金と戦力を提供されているようですわ」
「ヴァルケンハイン…あの戦争狂いか」
アッシュの眉間に、深い皺が刻まれた。ヴァルケンハイン将軍。魔王軍との戦いで、非情な戦術と
リリスの表情が、一瞬だけ曇った。それは、アッシュだけが気づく、微細な変化。
「アッシュ様、どうかご油断なきよう…あの方々は、魔王様亡き後の世界で最も危険な存在かもしれません。彼らは、あなたや、かつての我々の力を、今も恐れている。そして、利用しようと企んでいる」
その声には、いつもの嘲りではなく、アッシュの身を案じる純粋な忠誠心と懸念が滲み出ていた。彼女はただの気まぐれでここに来たのではない。元上官の身を案じ、危険を知らせるためだけに来たのだ。
「…分かっている」
アッシュが短く答えると、リリスは再びいつもの妖艶な笑みを浮かべた。
「ご理解いただけたなら、それでよろしいのです。さて、わたくしからの警告はここまで。褒美は、期待しておりますわよ?」
そう言って、彼女はアッシュの胸に指を這わせる。
アッシュは、その手を無言で払い除けた。
リリスは店先に戻ると、まだむすっとした顔でカウンターを磨いているエリーゼに、勝ち誇ったような笑みを向けた。
「じゃあね、おチビちゃん。アッシュ様のことは、くれぐれもよろしくお願いするわ」
そして、アッシュに向き直る。
「アッシュ様も、あんな小娘にかまけてないで、もっと大きなことを考えたらどうです? 例えば、魔王軍の再興とか…なんちゃって」
彼女はウインクすると、くるりと背を向けた。
しかし、店を出る直前、彼女は足を止め、小さな声で呟いた。
「…でも、今のあなたも…悪くないかもしれませんね」
その横顔は、ほんの少しだけ、寂しそうに見えた。
カラン、とベルを鳴らし、リリスは嵐のように去っていった。
後に残されたのは、重い沈黙と、二人の男女。
アッシュは、リリスがもたらした情報に、事態が予想以上に深刻であることを悟っていた。ヴァルケンハイン将軍。その名が出てきた以上、これはもう、ただの追っ手から逃げるだけでは済まない。
彼は、エリーゼの方を見た。彼女は、まだリリスが出ていった扉を、不機嫌そうに睨みつけている。
(やれやれ…)
アッシュは、頭痛をこらえるようにこめかみを押さえた。
迫り来る強大な敵と、初めての感情に戸惑う、不器用な少女。
守るべきものが、また一つ、増えてしまったようだった。
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