第20話:バグの“デバッグ”とエレイザーの贖罪

 俺の精神世界の中で、そしてそれに呼応する現実の「禁断の聖域」で、壮大な「デバッグ」作業が続いていた。

 俺の覚醒したスキル、《万象蒐集ばんしょうしゅうしゅう》の力は、「世界のバグ」を覆い尽くしていた「歪んだ情報ノイズ」や「負の感情データ」を、まるで手術のように的確に、そして優しく「ゴミ」として分離・除去していく。

 憎しみ、絶望、恐怖、嫉妬しっと、後悔…。

 それらのどす黒い感情の塊が、バグの本体から次々と剥がれ落ち、そして俺のスキルによって「廃棄」され、無にかえっていく。


 バグは、最初は苦しむように身悶みもだえていたが、やがてその黒いオーラはみるみるうちに薄れていき、その抵抗も次第に弱まっていった。

 現実世界でも、劇的な変化が起こっていた。

 エレイザーの体を乗っ取っていた黒い影が、まるで朝霧が晴れるように消え去り、書庫全体を揺るがしていた激しい振動も、完全に収まっていた。

 そして、白紙になっていた本棚の本には、再び美しい古代の文字が浮かび上がり始めていたのだ。


「…すごい…書庫の情報が、修復されていく…」


 瑠奈が、信じられないといった表情でその光景を見つめている。

 俺の頭の中では、ソフィアさんの声が、感嘆かんたんの響きを帯びてささやいていた。


『悠人様…あなたは、世界のことわりそのものを“掃除”しているのですね…』


 掃除、か。

 うん、まあ、俺のスキルには、それが一番しっくりくる表現かもしれないな。


          ◇


 やがて、長いようで短かった「デバッグ」作業は、終わりを迎えた。

 「世界のバグ」を覆っていた、全ての「負のゴミ」が完全に取り除かれ、その中核にあったものだけが、俺の目の前に姿を現した。

 それは、赤ん坊の拳ほどの大きさの、温かく、そしてどこまでも純粋な光の玉だった。

 かつて古代の人々が抱いた、「純粋な知識欲の核」。

 それが、バグの本来の姿だったのだ。


 俺の意識が、ゆっくりと現実世界へと戻っていく。

 目の前では、バグの支配から完全に解放されたエレイザーが、その場に崩れ落ち、深い呼吸を繰り返していた。彼の顔には、もうあの絶望の色はない。ただ、深い疲労と、そして何かを悟ったかのような、静かな表情を浮かべていた。

 俺たちの周りには、浄化されたバグの核…光の玉が、まるで感謝するように、親しげにふわりふわりと飛び回っている。俺は、何となくそいつを「ウィスプ」と呼ぶことにした。


 エレイザーは、ゆっくりと体を起こすと、俺たちに向かって、深々と頭を下げた。

 その瞳からは、大粒の涙が、後から後から溢れ落ちている。


「すまなかった…!私が…私が間違っていた…!」


 彼は、自分が犯した過ちの全て…アーヴィング博士を誤解し、あやめてしまったこと、その罪悪感から「忘却の徒」を率いて、多くの知識を闇に葬ってきたこと…それらを、涙ながらに、そして誠実に俺たちに告白し、謝罪した。


「私は親友を、世界を、そして自分自身をも見誤っていた…。博士が生きていたら、私を止めてくれただろうか…いや、違う…私が、彼の言葉に、彼の真意にもっと耳を傾けていれば…こんなことには…ならなかったのだ…!」


 彼の慟哭どうこくは、もはや聖域の壁を震わせるほどの力はなかったが、その一言一言が、俺たちの胸を強く打った。

 彼は、その場で、「忘却の徒」の即時解体を宣言し、残りの人生を、アーヴィング博士の研究――「希望の設計図」の実現――の支援と、自らが歪めてしまった歴史の修正に捧げることを、固く誓ったのだった。


          ◇


 俺の頭の中で、ソフィアさんの声が響いた。

『エレイザー様…』

 その声を聞き、エレイザーははっと顔を上げた。


「ソフィア君…なのか…?君は、まだ…」

『はい。悠人様のおかげで、コアメモリだけですが、意識を保っています。…エレイザー様、父様は…アーヴィング様は、きっと、あなたをゆるしてくださるでしょう。そして…感謝しているはずです。彼の遺したものを、あなたが守ろうとしてくれたことに…』


 ソフィアさんの言葉には、怒りも恨みもなかった。ただ、深い悲しみと、そしてエレイザーへの赦しが込められていた。

 エレイザーは、ソフィアさんのその言葉に、再び嗚咽おえつを漏らし、そして、まるで子供のように泣きじゃくった。

 長年の呪縛から解き放たれた、彼の魂の叫びだったのかもしれない。


 こうして、書庫にはひとまずの平和が戻った。

 エレイザーは、元々創造魔法の大家だったという。これからは、その卓越した知識と技術が、俺たちの大きな力となってくれるだろう。

 浄化されたバグの核であるウィスプは、すっかり俺に懐いてしまったようで、俺の周りを嬉しそうに飛び回っている。時折、瑠奈の頭にこつんとぶつかって、彼女に「きゃっ」と可愛い悲鳴を上げさせたりもしていた。俺がそれを見て少しニヤけると、瑠奈に睨まれた。


 そんな和やかな雰囲気の中、ウィスプが、どこからか拾ってきたのか、一枚のデータ片のようなものを、俺の目の前にひらりと落とした。

 瑠奈がそれを鑑定すると、顔をしかめた。


「…これは、ソフィアさんが作ったであろう、完璧な栄養バランスの(しかし、恐ろしく味気ないであろう)非常食レシピのデータ片ね…。ウィスプ、あなた、もしかして私に嫌がらせしてる…?」

 ウィスプは、瑠奈の言葉が分かったのか分からないのか、ただキラキラと輝きながら、楽しそうに飛び回っている。どうやら、こいつは「情報」そのものが大好物らしい。俺が何か新しい「情報(ゴミ)」に触れるたびに、キラキラと輝いて反応するようになった。


          ◇


 だが、平和な時間は、長くは続かなかった。

 俺の頭の中で、ソフィアさんの声が、どこか寂しげに響いた。


『悠人様、瑠奈様…エレイザー様…。私のコアメモリのエネルギー残量が、限界に近づいています…』


 その言葉に、俺たちははっと息をのむ。

 そうだ。彼女の本体ボディは失われ、今の彼女は、俺たちから供給される微弱な魔力だけで、その意識を保っているのだ。


『あなた方が、世界のバグを浄化し、エレイザー様を救ってくださった。そして、父様の“希望の設計図”も見つけ出してくださった。私の役目は…もう、終わったのです』


 ソフィアさんの声は、どこまでも穏やかだった。だが、その言葉は、俺たちにとって受け入れがたい「別れ」を意味していた。


「そんなこと言うなよ、ソフィアさん!何か方法があるはずだ!エレイザーさん、あんたの創造魔法で、ソフィアさんのボディを…!」

 俺が必死に叫ぶと、エレイザーは、悲しげに首を横に振った。

「…無理だ。彼女のボディは、あまりにも複雑で、高度すぎる。私の今の力では、それを完全に修復することは…」


 ソフィアさんは、そんな俺たちを慰めるように、優しく語りかけた。


『いいのです、悠人様。私は、あなた方と出会えて、本当に幸せでしたから。…最後に、私の全ての知識と…この書庫の未来を…あなたたちに託します』


 彼女の声は、次第に弱々しくなっていく。

 俺たちは、ただ、その声に耳を傾けることしかできなかった。

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