第一章 旅路

荷解きは次の旅が終わるまで

 屋敷の白い大理石が午後の傾いた日差しを浴び、淡い金のような光を返していた。スレンバリル王国西部、王都ニヴェラの郊外に佇むこの古邸は、往年の貴族の威厳と、時を経てもなお失われぬ気品を漂わせている。涼やかな風が緑の庭を渡り、白木の枝を揺らす。その枝先では、小さなイーフ鳥が澄んだ声で囀り、夏の終わりを静かに知らせていた。


 アレウスは重い革製の旅行鞄を玄関の石床に置き、深くため息をつきながら、ソファーにどっかりと腰を下ろした。旅の埃がまだ背中にまとわりついているような気がする。


「まったく……泥と湿地、あと奇妙な踊りを見るためだけに、わざわざ南方まで行ったとはな」


「でも、踊りは素晴らしかったわよ」


 そう応じたのは、妻のレヴァニアだった。淡い金の髪、透き通るような蒼の瞳。彼女らしい無邪気な笑みを浮かべている。


「私は、あの土地が好きになったわ。あの人たちも皆親切だったし」


「親切? 詐欺に遭って湿地帯に一晩置き去りにされたこと、もう忘れたのか?」


 アレウスは膝を押さえながら、言った。


「些細な事じゃないの」レヴァニアは肩をすくめ、小さく笑った。「細かいんだから」


 そのとき、執事のノアが静かに現れ、厳かな所作で深く一礼した。白い髭を整え、頭の毛は寂しい。不老不死のパラントにしては老けすぎているが、彼の眼差しには揺るぎない忠誠と品位があった。


「お疲れの中、失礼致します」ノアは頭を下げた。「奥様、お手紙が届きました。王国博物館からです」


 ノアが差し出したのは、一通の封筒だった。封蝋には王国博物館の重々しい印章が刻まれている。


「ありがとう、ノア」レヴァニアはそれを受け取るや否や、指先で器用に封を切った。「また“援助”のお願いかしら」


 数行、視線を走らせただけで、彼女の瞳がぱっと輝き出す。


「……まさか……!」


「どうした?」と、アレウス。


「……嘘みたい!」


「だから、どうしたって?」


「……やった!!」


 その声には、胸の奥から湧き上がるような興奮が滲んでいた。そして彼女はようやくアレウスの方を向いた。


「アレウス、新大陸よ!」


「新大陸?」


「そう! 東海岸の密林地帯で、エルフの遺跡が発見されたんですって! それも、正式な博物館の調査団が組まれるそうなの。そして私が」


「まって、聞きたくない……」


「その一員に選ばれたのよ!」


 アレウスの顔には、絶望にも似た驚愕の色が浮かんでいた。長旅から戻って間もないこの瞬間、まさか次なる旅の話が飛び出すとは思ってもいなかった。


 大陸の遥か東、二つの海を越えた果てにある第二の大陸――レヴェーラ。ほんの数十年前、冒険家の一団によってその存在が確認されたばかりの、夢と未知に満ちた新世界。まだ地図にも記されぬ領域が広がり、人の営みはわずかな入植地に留まっている。残るは、密林、山脈、古代の謎。そして、数えきれぬ危険。


「この文書を見てちょうだい。調査期間は三ヶ月。しかも王国博物館が全面的に支援してくれるって。エルフ語の解読に、私の専門がどうしても必要なんだそうよ!」


 レヴァニアの声には熱と誇りがこもっていた。学者として、探求者として、長年夢に見た舞台が、今まさに手の届く場所に現れたのだ。


「エルフ語の学者なら、他にも山ほどいるだろ。別に、お前一人が行かなくたって──」


「でも、“私でなければいけない”って書いてあるの。断ったら調査自体が中止になるんですって」


「本当? 見せてみて」


「嫌よ」手紙を両手で守るレヴァニア。


 ほら嘘だったと言いたげにノアに笑みを見せるアレウス。


 苦笑するノア。ムッとするレヴァニア。


「そうよ。私が行かなくても調査は進む……」


「よし、なら家にいよう」


「だけど」

 レヴァニアは唇を尖らせ、アレウスに目を向ける。

「……あなた、それでいいの? 社会的使命を無視して、暖炉の前でうたた寝するつもり?」


「大袈裟なことを……遥か昔に滅びた種族の遺跡だぞ。物好き以外は誰も興味なんて持たないさ」


「その“物好き”が、目の前にいるんですよ。あなたの妻です」


 レヴァニアはソファーに腰掛け、アレウスの肩に手を回した。


「アレウス、あなただって興味湧くはずよ。想像してごらんなさいな。“まだ誰も足を踏み入れていない”遺跡、“何百年も沈黙していた”大陸の奥地。新世界での、壮麗な冒険──ワクワクしてきた?」


「いや、まったく」


 レヴァニアは上唇を噛み、真剣な瞳で彼を見つめた。


「帰ってきたばかりだぞ。ちょっとくらい、屋敷でゆっくり過ごさせてくれよ」


「ゆっくりできるわ。船の中でね。二週間もあるもの」


「……違う。俺はこの家で、暖炉の前で、ゆっくり──二週間?!」


「正確には二週間と半分」


「……断る」


「でも……」


「今回は、絶対に行かない。決まりだ」


「……そう。だったら、私も……諦める」

 レヴァニアは悲しげに微笑み、手紙をそっと畳んだ。

「冒険は夢だけど、あなたを置いてはいけないもの……ノア、暖炉に手紙を投げ入れて」


「……かしこまりました」


 差し出された手紙を受け取ろうとするノア。しかし、レヴァニアは手紙をヒョイッと引っ込めた。


「……行きたかったな、新世界」彼女は切なげに呟いた。「忘れるわ。全部」


「そうか。早くノアに手紙を渡せよ。旅は諦めるんだろう?」


「……悲しいな……」


「レヴァニア? はやく」


「……泣いちゃいそう」


「旦那様」


 行ってやれよ、旦那様と訴えるノアの目、潤々した目で見つめるレヴァニア。これは


「……わかったよ」アレウスは立ち上がった。「行けばいいんだろ……」


「そうこなくっちゃ!」


 レヴァニアはぱっと笑顔を咲かせ、勢いよくアレウスに飛びついた。


「大好きよ、アレウス!」


「分かってる、分かってる……荷を解く間もないとはな」


「いいじゃない。また、すぐに夢の始まりよ!」



  翌日。陽光が白い屋敷をゆっくりと照らし始める頃、アレウスとノアは馬車に乗り込んでいた。


 アレウスは革の帽子を深く被り、ぼんやりと窓の外を見つめていた。薄く目の下に残る隈が、彼の寝不足を物語っている。荷解きもろくにできず、ほぼ徹夜の再準備。かと思えば、朝になっても現れぬ妻を前に、軽く諦めかけていた。


 そこへ、数分の遅れで飛び込んできたのが、レヴァニアである。


「ごめんなさーい!」


「おはようございます、奥様」


「おはよう!」


 レースの衣服に黒ブーツ。馬車に乗り込んできた彼女は、何食わぬ顔でアレウスの隣に腰を下ろした。


「……見事な寝坊だったな。おかげで旅の初まりが、“発車5分前の滑り込み”になりそうだよ」


「それも含めて冒険よ!」レヴァニアはにっこりと笑ってウィンクを飛ばす。「お願い!」と馬車の御者に声を掛けた。


 ガタガタと揺れる馬車。


 馬車が石畳を抜け、緩やかな丘を下りはじめる。アレウスは窓越しにそれを振り返り、ため息をひとつついた。


 レヴァニアは隣で旅の予定表を広げ、眉を寄せて読みふけっていた。


「最初の目的地は港町ベルグレイド。そこから船で南東の航路に乗って、イニシエに寄港して、大陸縁の入植都市・ザラティアへ。あとは……」


「当ててやる、そのあとは密林。泥と湿地と毒虫と、夜に動く何かだらけの密林だな」


「すごーい、良く当てたわね。大正解よ」

 皮肉めいた笑みを浮かべるレヴァニア。

「恐ろしい現地民を忘れてるけどね。彼ら敵の首を切って投げ合うんですって」


「やっぱり……引き返そうぜ」


「嘘よ、冗談」


 冗談だと分かっていても、アレウスの顔は引きつったままだった。レヴァニアは構わず、愉快そうにスケジュール帳をパタンと閉じ、ふっと息をつく。


「でも、怪談話はあるけどね。最近、東大陸から戻った探検隊の報告に、"夜だけ動く影"の記録があったらしいわ。正体不明のもの。人か、獣か、それとも──」


「おい。そういう話、昨日のうちにしといてくれよ」


 レヴァニアはくすくすと笑った。


「だって、昨日言ってたら、あなた絶対来なかったでしょ?」


「……馬車のドア、開くかな?」


「ダメよ。もう引き返せないわよ」


「まったく……」


 アレウスは腕を組み、窓の外に目を戻した。丘を下りきり、馬車は広い幹線道路へと出る。


「だけど、アンデッドなんていっこないわ。探検隊が見たのは幻かなんかよ」


「……そう願うよ」アレウスは自分の鞄を見た。「まぁ、アンデッドでも現地民だろうと備えはしてあるが」と呟いた。


 

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