第25話 怒りに触れたもの

 ゼオニクスはザーマイン軍の兵士たちの上空十メートルほどまで降下すると、その巨大な口を開いた。


 喉の奥から赤い光が溢れ出し、周囲の温度が急激に上昇する。次の瞬間、真っ赤な炎のブレスが吹き放たれた。


 炎の奔流は、ルフたちのすぐ近くを通り過ぎて、ザーマイン軍の兵士たちに直撃した。


 その熱量は想像を絶するもので、鋼鉄の鎧すら一瞬で溶解させてしまう。ルフは慌てて手で顔を覆ったが、それでも肌が焼けるような熱さを感じた。


 ブレスが収まった後、兵士たちがいた場所を見ると、そこには人の姿はなく、溶けた金属が地面に流れているだけだった。


 空気中には焼けた金属の匂いと、言葉にできない異臭が漂っている。


「逃げろぉぉ!」


 その凄惨な光景を目の当たりにした兵士の一人が、恐怖に駆られて叫んだ。


 その声を合図に、ザーマイン軍の兵士たちは剣や鎧を投げ捨てて逃げ出し始める。統制の取れた軍隊は、一瞬にして恐慌状態の群衆と化していた。


 一方、ルシウスの護衛を務める四人の英雄たちは、異なる反応を示した。


「ルシウス様をお守りするぞ。リリア、ラドクリフ、ピアス、時間稼ぎを頼む」


 シドは瞬時に状況を判断し、主君の安全を最優先に考えた。彼の表情は険しく、右肩の傷から血を流しながらも、その意志は揺るがない。


 ドラゴンという存在は、英雄が束になっても勝てるかどうか分からない脅威だった。


「ええ、言われなくても」


 リリアは弓を構え直し、その美しい顔に決意を浮かべた。


「時間稼ぎどころか、俺がドラゴンを殺してやるよ」


 ラドクリフは地面に手を付き、既に魔力を大地に流し始めていた。


「ドラゴン相手か、腕がなる」


 ピアスは槍を構え、その切っ先をドラゴンに向けた。


 シドはルシウスを連れて、戦場からの離脱を図ろうとした。しかし、ルシウス自身は恐怖で震えながらも、その場から動こうとしない。


 ルフはその光景を見つめながら、自分の取るべき行動を考えていた。選択肢は三つある。


 一つ目は、この場から逃げ出すことだった。

 この状況では、ザーマイン帝国がカーマ王国に侵攻することは不可能だろう。それなら当初の目的は達成されているため、退却するのが賢明だった。


 二つ目は、ザーマイン軍と共にドラゴンと戦うことだった。

 もしこのドラゴンが縄張りを犯した者たちに対して激しい怒りを抱いているなら、カーマ王国にまで被害が及ぶ可能性がある。


 その場合、ここで食い止めなければならない。


 三つ目は、ドラゴンを無視してルシウスたちを狙うことだった。


 これは復讐心を優先することになるが、ここでルシウスを討てば、後の憂いを断つことができる。


 ルフがそこまで考えた時、ドラゴンの背に違和感を覚えた。


 人影のようなものが見えたのだ。注意深く目を凝らすと、その人影は見覚えのある存在だった。


「まさか……」


 その姿を見間違うはずがなかった。一瞬だけ見えた顔は、紛れもなく彼の主君であるアルス王その人だった。


 なぜアルスがドラゴンの背に乗っているのか。なぜこのタイミングでここに現れたのか。


 様々な疑問が頭を駆け巡る中で、ルフは一つの可能性に思い至った。


 もしかすると、アルスは最初からこの展開を予想していたのかもしれない。ドラゴンという圧倒的な存在を利用して、敵を一掃するつもりだったのかもしれない。


「フフフっ......ハハハハハ!」


 ルフは狂気じみた笑い声を上げた。その笑い声は戦場に響き渡り、周囲の兵士たちを戦慄させる。


 そして迷いを振り切るように、シドとルシウスの後を追い始めた。復讐の炎が、ルフの瞳の奥で燃え上がっていた。



 ドラゴニア山脈の岩肌に響き渡る轟音が、戦場の空気を重く支配していた。


 巨大なドラゴンの羽ばたきによって巻き起こされる風は、戦場の砂埃を舞い上げ、兵士たちの視界を曇らせる。


 その圧倒的な存在感の前に、これまで激しく戦っていた両軍の兵士たちは、武器を取り落とし、ただ茫然と見上げることしかできずにいた。


 最初に立ち上がったのはピアスだった。彼の瞳には恐怖ではなく、むしろ挑戦への燃えるような意志が宿っている。


 長年の戦闘経験が培った戦士としての本能が、この絶望的な状況でも彼を前に押し出していた。槍を握り直した手に汗が滲むが、その握力は決して緩むことはない。


「俺たちが食い止めなければ、ルシウス様が危険にさらされる」


 ピアスは仲間たちに向かって叫ぶと、地面を強く蹴って走り出した。彼の足音が岩場に響く中、巨大なドラゴンは悠然と空中に浮いている。


 その赤い鱗は陽光を反射し、まばゆいばかりに輝いていた。ドラゴンの瞳は血のように赤く、見る者の魂を凍り付かせるような凶暴性を秘めている。


 ピアスは巧みに岩陰を利用しながらドラゴンに接近し、一瞬の隙を見つけて懐に飛び込んだ。そして渾身の力を込めて、槍をドラゴンの腹部に向けて突き出す。


 長年鍛え上げた腕力と技術が込められた一撃は、確実にドラゴンの鱗を貫いた。


「グギャアア!」


 ドラゴンの叫び声は雷鳴のように山肌に響き渡り、近くにいた兵士たちは思わず耳を塞いだ。


 その音量は人間の鼓膜を破らんばかりで、地面すら震動させる。ピアスの槍は確かにドラゴンの腹部に突き刺さり、赤い血が滴り落ちていた。


 しかし、その傷はドラゴンの巨体に比べれば針で刺されたようなものでしかない。


 逆に、その攻撃はドラゴンの怒りに火を注ぐ結果となった。ドラゴンの瞳がさらに赤く燃え上がり、口元が邪悪な笑みを浮かべたように見える。


 そして巨大な腕を振り上げると、鋭いかぎ爪を光らせながらピアスに向けて振り下ろした。


 ピアスは戦闘経験から危険を察知し、地面を大きく蹴って宙に舞い上がった。


 かぎ爪は彼がいた場所の岩を粉砕し、破片が四方に飛び散る。しかし、空中に逃れたピアスの行動は、まさにドラゴンの思惑通りだった。


 空中で身動きの取れないピアスに向けて、ドラゴンは数メートルはある太い尻尾を鞭のように振るった。


 その尻尾は風を切り裂きながら猛烈な速度でピアスに迫る。回避不能の状況で、ピアスは咄嗟に槍を構えて防御の姿勢を取ったが、ドラゴンの力の前では焼け石に水だった。


 尻尾がピアスの胴体に直撃した瞬間、破裂音のような鈍い音が戦場に響いた。


 ピアスの身体は人形のように宙に舞い上がり、恐ろしい勢いで数百メートル先の山肌に向かって飛んでいく。


 その軌跡には血飛沫が弧を描き、やがて遠くの岩壁に激突する音が聞こえてきた。


 視力の良いリリアが恐る恐るピアスが消えた方向を見つめると、遥か遠くの山の岩肌に人影がめり込んでいるのが見えた。


 それが動く気配はない。彼女の美しい顔が恐怖で青ざめ、額から冷たい汗が流れ落ちる。


「ピアス!? くそったれぇぇ!!」


 ラドクリフの怒声が戦場に響いた。仲間が一瞬で倒されたことへの怒りと悲しみが、彼の理性を吹き飛ばしていた。


 怒りに駆られた彼は、地面を踏みしめながらドラゴンに向かって突進した。


「ダメ! ラドクリフ!」


 リリアの必死の制止の声も、もはや彼の耳には届かない。ラドクリフは全身に魔力を込めて剣を振り上げ、ドラゴンの巨大な頭部に向けて斬りかかった。


 その一撃には彼の全ての力が込められており、通常の敵であれば一刀両断できるだけの威力を持っていた。


 しかし、ドラゴンはまるで子供の遊びに付き合うかのように、その剣を大きな口で軽々と受け止めた。


 鋼鉄の剣がドラゴンの牙に挟まれ、金属音が響く。ラドクリフは必死に剣を引き抜こうとするが、ドラゴンの顎の力は想像を絶するものだった。


 ドラゴンの喉の奥が赤く光り始める。それは炎のブレスの前兆だった。


 温度が急激に上昇し、周囲の空気が歪んで見える。ラドクリフは危険を察知し、剣を諦めて転がるように身を翻そうとした。


 しかし、それは無意味な足掻きでしかなかった。ドラゴンは口を大きく開けて剣を吐き出すと、逃げようとするラドクリフに向けて巨大な口を向けた。そして次の瞬間、地獄の業火が解き放たれる。


 真っ赤な炎の奔流がラドクリフを直撃した。その熱量は鋼鉄をも溶かすほどで、周囲の岩石すら赤熱化させる。


 炎はラドクリフだけでなく、その周辺一帯に広がり、近くにいたザーマイン軍の兵士たちをも巻き込んだ。


 兵士たちは炎に包まれながら悲鳴を上げ、地面を転げ回る。しかし、その炎の温度の前では、どのような防具も無意味だった。


 やがて炎が収まると、リリアは震える足でラドクリフがいた場所を確認した。


 そこには人の姿はなく、ただ溶けて液状になった金属が地面に流れているだけだった。

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