第14話 宣戦布告

 その日の朝、アルスは久しぶりに心地よい目覚めを迎えていた。枕の上で伸びをしながら、昨日と同じように何もしない一日を過ごそうと決めていた矢先だった。


 王室の執事が血相を変えて部屋に駆け込んできたのは、アルスがようやく寝具から這い出した時のことだった。


「陛下! 大変なことが起こりました! すぐに会議室へお越しください!」


 その切迫した様子に、アルスの心臓が嫌な予感で鼓動を早めた。平穏な日々が終わりを告げる前兆を、彼の本能が察知していた。


「何事だ? そんなに慌てて……」


「ザーマイン帝国から緊急の書状が届いております! 内容を確認次第、すぐに緊急会議を開かねばなりません!」


 執事の焦燥した声音に、アルスは嫌な汗が背筋を伝うのを感じた。慌てて身支度を整え、足早に会議室へと向かう。


 重厚な会議室の扉を勢いよく開け放つと、既に王国の高官らが集結していた。石造りの広間には緊張した空気が漂い、普段は威厳を保っている重臣たちの表情にも動揺の色が見て取れる。


 長い会議テーブルを囲んで座る彼らの視線が、一斉にアルスに注がれた。


「おい! 報告は本当なのか!?」


 アルスが入室するや否や、その場にいた全員に問いかける。自分でも驚くほど大きな声が出ていた。


「残念ながら事実でございます。こちらをご覧になった方が早いかと」


 外交官の一人であるフェリペ伯爵が、震える手でアルスに一通の手紙を差し出した。羊皮紙に記された文字は、ザーマイン帝国の公式な印章で封印されている。その重厚な封蝋を見ただけで、事の重大さが伝わってきた。


 アルスは手紙を受け取ると、慎重に封を切って内容を読み進めた。文面を目で追うごとに、彼の顔色は青ざめていく。


 そこに記されていたのは、カーマ王国への正式な宣戦布告だった。


 理由として挙げられていたのは、次期皇帝ルシウスの暗殺を企てた剣聖ルフを、カーマ王国が庇護し、さらに自国の兵として雇い入れたことだった。


 カーマ王国がルフを誘惑して自国に引き込み、そのルフを使ってルシウスの殺害を企てたという、身に覚えのない罪状が並んでいる。


「これは……」


 アルスの手から力が抜け、手紙がひらりと床に舞い落ちた。百年間平和を保ってきたカーマ王国にとって、これは青天の霹靂だった。会議室に集まった貴族たちの間にも、どよめきが広がっている。


 だが、アルスを襲った不幸はそれだけではなかった。


「ところで宰相は? こんな緊急事態にどこにいるのだ?」


 アルスが会議室を見渡すと、いつもの席に座っているはずの宰相ゴレームの姿がない。普段なら真っ先に駆けつけているはずの彼の不在に、アルスの不安は更に深まった。


 高官らは互いに困惑した視線を交わし合い、やがて一人の男が重い口を開いた。


「陛下……実は宰相は、ザーマイン帝国からの宣戦布告を聞いた途端、あまりの衝撃に気を失って倒れてしまいました」


「何だと……」


「現在も意識不明の状態で、侍医が治療に当たっておりますが……」


 その報告を聞いた瞬間、アルスの脳裏に逃げ出したいという衝動が駆け巡った。頼りにしていた宰相がいない状況で、この国難をどう乗り切ればいいのか。王としての責任の重さが、改めて肩にのしかかってくる。


 しかし、ここで逃げ出すわけにはいかない。会議室に集まった重臣たちの視線が、答えを求めてアルスに注がれている。


「……分かった。宰相がいないのなら仕方がない。会議を始めるぞ」


 アルスは内心の動揺を押し殺し、できる限り平静を装って会議の開始を宣言した。

 その時、バーグス公爵が立ち上がった。白髪の初老の男性で、カーマ王国でも指折りの名門貴族の当主である。


「陛下、恐れながら一つ提案がございます」


「何だ?」


「宰相が意識不明という緊急事態においては、まず新たな宰相を選出する必要があるのではないでしょうか」


 その提案に、会議室内の空気が一変した。


「確かにその通りだ」「当然のことですな」「では誰が適任か」「それは王がお決めになることだ」


 様々な声が飛び交う中、バーグス公爵は再び口を開いた。


「新たな宰相の選出は王の専権事項です。陛下、この場で新しい宰相をお決めください」


 その言葉と共に、会議室にいた全員の視線がアルスに集中した。重苦しい沈黙が場を支配し、時計の針音だけが響いている。


 アルスは必死に考えた。宰相に相応しいのは、ゴレーム宰相のように自分の仕事を全て代行してくれるような存在だ。そんな人物が他にいるだろうか。


 その時、アルスの脳裏に一人の男の姿が浮かんだ。


 優れた頭脳と実績を持ち、若くして才能に溢れた有能な魔法士。宮廷魔法士として短期間で頭角を現し、アルスが最も実力を測りかねている男——アラン・ヴェサリウス。


「新しい宰相は……」


 アルスは一呼吸置いてから、力強く宣言した。


「宮廷魔法士アラン・ヴェサリウスだ」


 その発表に、会議室は一瞬静寂に包まれた。そして次の瞬間、どよめきが爆発した。


「アランだと!?」「まさか、あの若造が……」「確かに宰相に相応しい位を持っているが……若すぎるのでは」「いや、この緊急事態を乗り切れる人材は限られている」「彼以外に適任者がいるだろうか」


 高官らの反応は様々だったが、最も戸惑っていたのはアラン本人だった。


 アラン・ヴェサリウスは、会議室の片隅で事の成り行きを見守っていた。年齢は二十代前半と若いが、その知性溢れる瞳と整った容貌は、周囲に強い印象を残す。


(王が私を宰相に? 一体どういうつもりだ?)


 アランは混乱していた。これまでアルス王は自分を警戒していたはずだ。それなのに、なぜこの重要な地位に任命するのか。何か裏があるのではないかと疑いたくなるが、王の瞳を見る限り本気のようだった。


 アランは席を立ち、アルスの前まで歩み出た。会議室の視線が彼に集中する中、彼は膝をついて恭しく頭を下げる。


「陛下、その命令お受けいたします。今この時より、私がカーマ王国の宰相を務めさせていただきます」


「やはりお前なら引き受けてくれると思っていた。その頭脳で我を支えてくれ」


 アルスは安堵の表情を浮かべて頷いた。アランの堂々とした態度を見て、会議室にいた重臣たちも納得の様子を見せている。


 しかし、その時一人の貴族が立ち上がった。


「宰相の件については異論ございません。しかし陛下、ザーマイン帝国が我が国に宣戦布告してきた原因は、王が剣聖ルフを任官させたことにあるのではありませんか? その真意をお聞かせ願いたい」


 その質問に、会議室の空気が再び緊張した。


「確かにそうだ」「王の判断が戦争を招いたのでは」「あの時の任官は軽率だったのではないか」


 矢継ぎ早に飛んでくる疑問の声に、アルスは言葉に詰まった。実際のところ、ルフの任官は何も考えずに許可してしまったのが実情だ。しかし、それを正直に答えれば、貴族たちの信頼を完全に失ってしまうだろう。


 アルスは必死に弁明の言葉を探したが、適切な答えが見つからない。焦りが募る中、とっさに口から出てしまったのは——


「ザーマイン帝国が我が国を侵攻してきたのは、実は我の思惑通りだ」


 その言葉が会議室に響き渡った瞬間、場内は騒然となった。


「何ですって!?」「まさか計画的に!?」「それは一体どういうことですか!?」


 どよめく重臣たちを前に、アルスは後戻りできない状況に追い込まれてしまった。もう引き返すことはできない。


「……説明してやろう」


 アルスは覚悟を決めて口を開いた。


「我が国はこれまで外交努力によって戦争を避けてきた。だが、それでは周辺国から軽く見られるだけだ。真の国力を示すためには、時として戦いも必要なのだ」


 会議室は水を打ったような静寂に包まれた。アルスの言葉を理解しようと、重臣たちは必死に頭を働かせている。


「だから剣聖ルフを任官させたのだ。ザーマイン帝国を挑発し、向こうから戦争を仕掛けさせるためにな」


 アルスは自分でも驚くほど堂々と嘘をついていた。


「つまり……」


 一人の貴族が震える声で確認する。


「つまり、陛下は最初から戦争になることを想定しておられたと?」


「その通りだ」


「では、ザーマイン帝国を撃退する策もお持ちということですね?」


「当然だ。当たり前のことだろう」


 そんな策など存在しなかったが、アルスは王としての威厳を保つために断言した。


「流石は陛下!」「まさか敵から仕掛けさせるとは!」「恐れ入りました!」


 賞賛の声が会議室に響く中、アルスはアランの方を見つめた。アランは驚愕の表情でアルスを見返している。


(なぜお前が驚いている? お前が策を考えるのだぞ!)


 アルスは視線でその意図を伝えようとした。アランはその視線を受け止めると、深く頷いて見せる。


「よし、会議はここまでだ。詳しい作戦については、後日改めて発表する」


 慣れない王の演技に疲れ果てたアルスは、急いで会議を終わらせた。


 会議室を出ると、アルスは足早に宰相の病室へと向かった。廊下を歩きながら、彼の頭の中には一つの思いが渦巻いていた。


(アランなら何とかしてくれる……そうに違いない)


 王城の奥深くにある宰相の私室で、ゴレームは静かに横たわっていた。普段の厳格な表情とは打って変わって、眠っているような穏やかな顔をしている。枕元に置かれた燭台の明かりが、彼の蒼白な頬を照らしていた。


 アルスは椅子に腰を下ろし、宰相の寝顔を見つめながら溜息をついた。

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