第19話 再生
ネットの熱狂が、初めて俺たちに具体的な「恵み」をもたらしたのは、あの侵入者騒動から数日後のことだった。
「お、お兄ちゃん、郁美さん! ちょっとこれ見て!」
朝食後の穏やかな時間に、小町ちゃんの素っ頓狂な声が響いた。彼女がノートパソコンの画面をこちらに向ける。そこには、俺たちの旅館の公式チャンネルの管理画面が映し出されていた。
チャンネル登録者数:【1,064,252人】。
最初のPV動画は【1000万再生】を突破し、ニジちゃんのペット動画も、投稿から数日で【300万再生】を達成している。
そして、その下に表示された収益見積額の欄には、俺が生涯かけて稼ぐはずだったサラリーマンの退職金すら、霞んで見えるほどの天文学的な数字が、まるで現実味のない記号のように並んでいた。
「……ゼロ、一個多くないか?」
「すごーい! これ、ゼロの数あっとる!? これだけあれば、旅館、ピカピカにできるよ、お兄ちゃん!」
「広告収益、海外からの高額な投げ銭、関連動画からの流入……。私の初期予測をさらに上回る数値だ。興味深い……」
純粋に大喜びする小町ちゃんと、冷静に分析する郁美さん。俺は、手にしたコーヒーカップを落とさないようにするので、精一杯だった。
その日の午後。俺は、目の前の大金に浮かれることなく、二人に向かって静かに、しかし力強く宣言した。
「この金で、旅館を直そう」
俺の口から語られたのは、単なる改築計画ではなかった。
祖父と母が守ってきた、趣のある柱や梁、美しい組子細工の欄間はそのまま残すこと。その上で、老朽化して危険な部分を補強し、最新の耐震工事を施すこと。トイレや風呂、厨房といった水回りの設備は、快適性を重視して、最新のものに入れ替えること。そして、年老いた母や、将来訪れるであろうお年寄りのために、館内をバリアフリー化すること。
それは、この旅館の「魂」を守りながら、未来へと繋いでいくための、再生の計画だった。
その提案に、小町も郁美も母も、力強く頷いた。
漠然としていた「旅館の再生」という目標が、初めて具体的なプロジェクトとして、確かな輪郭を持った瞬間だった。
◇
それからの日々は、嵐のように過ぎ去っていった。
郁美さんの持つ人脈と情報網、そして潤沢な資金を元に、日本でも最高腕と謳われる職人たちが、この人里離れた旅館に集結した。
最初にやってきたのは、宮大工の『塔野組』と名乗る、いかにも頑固そうな棟梁だった。彼は最初、俺たちのことを「ネットのあぶく銭で道楽を始めた若造」とでも思っていたのだろう。しかし、俺が、この旅館の歴史や、祖父の想いを語り、ただの一本の柱も無下にしないよう、頭を下げて頼むと、彼の目の色が変わった。棟梁は、黒光りする大黒柱を、まるで我が子を慈しむかのように撫で、「……良かろう。この家の魂、ワシらが未来に繋いじゃる」と、短く、しかし力強く応えてくれた。
次にやってきたのは、世界的な評価も高い、一流の庭師だった。彼は、庭の真ん中に鎮座する、あまりにも異様なダンジョンゲートを見て、絶望するどころか、「面白い……。これほどの『借景』は、生涯お目にかかれるものではない」と、目を輝かせた。
そこからは、まさに職人たちの饗宴だった。
ギシギシと鳴っていた床は、その趣を残したまま、静かで頑丈なものに張り替えられた。最新のキッチン設備が、古い厨房に静かに設置されていく。棟梁たちは、古い柱や梁を傷つけないよう、ミリ単位の精度で耐震補強を施していった。
その傍らでは、ニジのための、小さな
庭師は、ダンジョンゲートを隠すのではなく、むしろ庭の中心に据え、その周囲に苔や、魔力に親和性の高いという珍しい草木を配置していく。まるで、古来からそこにある、神域への入り口のように、その景色を再構築していった。
俺も、ただ見ているだけではなかった。職人たちの手伝いをし、彼らの技術を学び、この家が生まれ変わっていく様を、その肌で感じていた。
そして、数週間後。
職人たちが帰っていき、旅館には、久しぶりに本当の静寂が訪れた。
だが、それは以前の、寂れた静けさではなかった。自信と、誇りに満ちた、新しい静寂だった。
俺たち三人は、生まれ変わった旅館の中を、ゆっくりと見て回った。
玄関には、車椅子でも楽に上がれる、緩やかで美しいスロープが設置されている。
磨き上げられた廊下には、温かみのある木製の手すりが、隅々まで取り付けられていた。
客室は、昔ながらの落ち着いた和の空間はそのままに、畳は新しく張り替えられ、空調は最新式の静かなものになっていた。
そして、一番変わったのは、風呂場だった。檜の香りが清々しい、真新しい浴槽。そこからは、ガラス窓越しに、完璧に計算され尽くした、新しい庭の景色を眺めることができる。
かつては庭の「異物」でしかなかったダンジョンゲートが、今は、まるで神秘的な鳥居のように、静かに、そして荘厳に、そこに鎮座していた。
俺は、こみ上げてくる感情を抑えきれなかった。
これが、俺たちの旅館だ。祖父が愛し、母が守り、そして俺たちが、未来へと繋いだ、俺たちの家だ。
縁側に出ると、ニジが、完成したばかりの自分だけの社の中で、嬉しそうにぷるぷると震えていた。
俺は、その小さな神獣と、隣で微笑む小町ちゃん、そして、どこか満足げな顔で庭を眺める郁美さんを見つめる。
ようやく、俺たちの本当のスタートラインに立てた。そんな気がした。
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