第二幕 借り物に夢を

 繰り返しの検査の末、退院できたのは、入院から一週間後だった。しかしそれは、しばらくの間は凪咲が常に一緒にいるという条件のもとであった。症状が急変しないか、様子見が必要なためだという。晴は一人暮らしだというので、数日は凪咲と共に、晴の自宅で過ごすことになった。

「晴の家、久しぶりだなあ! 一緒に過ごせるなんて、夢みたい! あたしと一緒にいたら、ぜーんぶ思い出しちゃうかもね!」

 病院からのタクシーの中、凪咲は無邪気にはしゃいでみせる。松野は窓の外をぼんやり眺めていた。景色の手前には、窓ガラスに反射した自分の顔がうっすらと見える。彼の――いや、彼女の不貞腐れた表情が。

「晴はとにかく芝居が大好きなの! 中学生の頃は、よく主役を張ってたんだけど、劇団に入ってからは、主役を魅力的に立てる脇役の芝居が上手になって! とにかく貪欲に、探究と挑戦をする子なんだよ!」

「ふうん」

「中学生の時、文化祭の劇で、ロミジュリやったじゃない?」

「だから覚えてない」

「あっ、そっか……。でね! その時のロミオ役が、晴! あたしが初めて晴の芝居を見て、感動に打ち震えた日。忘れもしない! 剣を手に舞台を駆け抜ける力強さ、ジュリエットに愛を告げる、柔らかくも震えた声、ロミオの瞳は光に溶けて――!」

 まるで一人芝居をする役者のように、凪咲は狭い車内で大手を振って語る。ふとその動きが止まったかと思うと、彼女は膝の上に乗せていたリュックサックを、松野の眼前に突きつけてきた。

「ほらこれ! あたしたちの、友情の証!」

 薄い布生地に、わざとらしい茶色がべっとりと単色で塗られた、小柄なリュックサック。そのファスナーに付けられた、星型のキーホルダーがきらりと揺れる。凪咲はそのキーホルダーを、まるで小魚をすくい上げるように、優しく手のひらに乗せて掲げた。安直なラメに彩られた表面には、「2014.09.07」と刻まれていた。

「あたしが演劇部に入って、晴と一緒に舞台を作った、初めての日。この日から、晴とあたしの夢は始まったんだ……!」

「……あの」

「なに!? なんでも聞いて!」

 凪咲のきらきらした目を真っ直ぐ見つめて、松野は冷たく言い放った。

「思い出話が聞きたいんじゃない」

「あ……ごめん」

「話したいだけだろ……」

「そんなことないよ! 何かのきっかけになるんじゃないかなって!」

「さっきから、あんたの視点でしか話してない。どうせ話すなら、もっと客観的なものにしてくれ。あんたも劇団員ならな」

「あたしは、照明なんだ!」

「なら尚更だろ……」

 ところが、それきり凪咲は黙り込んでしまった。ちらりと目をやると、何を話したらいいのか考えている様子で、首を傾げたり腕を組んだりしている。

「なんでも聞いていいと言ったな?」

 そう言うと、彼女は勢いよくこちらを振り返って、ぱっと表情を花開かせた。

「もちろん!」

「じゃあ聞くが」

「うん!」

「私は両親と関係が悪いのか?」

 すると、言いようのない質量を持った空気が、車内を包んだ。凪咲は戸惑った様子で、目を泳がせていた。

「なんでも聞いていいと言っただろう」

 意地悪げに口角を上げて言うと、凪咲は眉をひそめた。

 自分の娘が頭から血を流すほどの大怪我をして入院しているというのに現れない。退院後も様子を見てやろうとしないで、一人暮らしの部屋に戻す。松野自身、家庭を持たなかった身分とはいえ、普通の親ならそんなことはしないことくらい分かる。普通なら。

「あらかた察しはついている。芸術を追い求めようとする奴を、すんなり理解できる人間のほうが少ない」

「……そういうわけじゃ、ないんだけど」

 凪咲は見上げるように、松野を見つめて言った。

「お父さんは失踪して、お母さんは亡くなったの。あたしが知ってるのは、それだけ」

「ふうん」

「一人ぼっちになった晴を拾ってくれたのが、光芒座の座長だった。だから晴にとっては、光芒座が家族みたいなものなんだよ」

 やがてタクシーは速度を緩め、大通りから脇道へと曲がった。ビルの影が途切れ、古いアパートや小さな商店が身を寄せ合い始める。

「ん……?」

「どうかした? 何か思い出した!?」

「この道……」

「そう! もうすぐ晴の家だよ! 少しずつ思い出していこうね!」

 車のそば、すれすれを行くコンクリートの壁には、掠れた落書き。空を切り裂く電線。在来線の乱暴な走行音が、微かに聞こえてくる。住宅街は静かだが、都会の喧騒の残り香が漂っていた。表舞台の賑わいを舞台袖で聞く、遠い日の感覚に似ていた。

 細い路地の影に溶け込むように、そのアパートは立っていた。鉄階段を上がる足音が鋭く響く。前を歩く凪咲は、二〇三号室の扉の前に立つと、鞄から取り出した鍵を差し込んで、ドアノブを回した。

「さ、どうぞ!」

 玄関に足を踏み入れると、薄桃色の清潔感が彼を包み込んだ。窓から射し込む日差しはカーテンを通って淡いピンク色をまとい、小さなワンルームを柔らかく満たしている。

 部屋の真ん中まで来た時、松野は立ちすくんだ。

 家具は必要最小限に抑えられ、小綺麗に整えられていた。シングルベッドは主張の少ない花柄のシーツで覆われ、古びた木製の机が窓際に寄り添い、その脇には小さな本棚が控えめに佇む。隅に追いやられている台所は、一人用の小さな冷蔵庫と簡素な流し台が静かに息づいていた。

 生活の痕跡は少なく、まるで舞台の端に置かれた小道具のように、華やかさを拒んで景色に馴染んでいる。その理由は、彼の目の前に立ちはだかる壁が物語っていた。

「すごいよねー。よく集めたなーって思うよ」

 壁を見つめ、唖然と立ちつくす松野のそばで、凪咲は呆れたように笑った。

 白い壁は、松野の若かりし頃から最近に至るまでの、舞台や映画のポスター、パンフレットで埋め尽くされていた。鋭い眼差しでこちらに訴えかけるモノクロの青年探偵、穏やかに微笑む中年のサラリーマン……松野の人生の変遷を辿るように、狭い部屋に圧倒的な存在感を放っている。

 改めて見回すと、見ず知らずの部屋だというのに、覚えのあるものが散在している。机の下敷きに挟まれた、公演チケットの半券や舞台のパンフレット。本棚に詰め込まれた、DVDに雑誌。そのどれもに、「松野重幸」の名前が刻まれていた。

 過去の自分たちから逃げるように、レースカーテンを開ける。

「お腹空いたよね? あたし、作るよ!」

 しかし、次の瞬間襲われた衝撃に、彼は凪咲への返事も忘れた。

 アパートそばの往来を、手を繋ぐ親子や、犬を連れて歩く人が見える。

 この窓から見える景色、そして、さっきタクシーの中で気がついた感覚は、やはり勘違いではなかった。

 このアパートは、松野の自宅から数分の距離だ。

 流石に偶然だと思いたかった。しかし、あのノートに挟まっていた数枚の写真のことが思い返される。

 やはり、健全なファンではない。こんな奴の部屋には、とてもいられない。

 視線を逃がそうとしても、過去の栄光が嘲るように、自分を見つめている。小さな手足におよそ五十年の威厳を裏切られ、柔らかな声にかつての冷徹さを奪われた自分を。

 思わず俯いた先に、病院から持って帰ってきたボストンバッグが目に入った。そのそばにしゃがみ、詰め込まれたままの中身に手を伸ばす。

 そこには、彼女自身が関わってきた作品の台本や、彼女が執筆した脚本なども入っていた。

 彼女が演じたキャラクターは様々だったが、元気な少年や面倒見のいい姉など、明るく希望を与えるキャラクターが多い。演技の幅は狭いようだ。

 くたびれた一冊のノートを手に取り、ぱらぱらとめくってみる。中にはいくつかのタイトルと、そのあらすじが書かれていた。

『灰の星』『枯れ木の剣』『夜明けの影』……どれも老人たちが主人公。拾い読みすると、老人が過去の栄光と向き合い、若者に道を譲る姿を描く物語のようだ。

「青臭いにもほどがあるな……」

 力を失った老人たちが悔いなく散っていき、若者がその意志を継ぎつつ、自分の足で踏み出していくという、ご都合展開。そしてそのモデルは、もはや考えるまでもない。

「俺をこんな安い主人公に仕立てやがって……」

 起承転結は整ってはいるものの、詰めの甘い展開が目立つ。通ったとしても、一次選考が関の山だろう。

 表紙の後ろには、『目指せ! ヒノデテレビ脚本大賞受賞!』と、でかでか書かれていた。


「冷めないうちに食べよ!」

 食事の並んだテーブルを挟んで、二人は向かい合って座った。さりげない香ばしさをその湯気にまとう味噌汁、炊き立てのご飯は粒が立ち、卵焼きはムラのない黄金に包まれている。

 箸を手にし、静かに味噌汁を啜った。温かな出汁の旨みが舌の上を滑らかに転がる。卵焼きをつまんで口に入れると、切り口は柔らかで、優しい甘みが穏やかに口の中に広がった。

「美味しい?」

 箸を止めない松野の様子を嬉しく思ってか、凪咲はにこやかに尋ねる。松野は咀嚼に合わせて、曖昧に頷いて見せた。

「明日は、ちゃんと野菜とか用意するね」

「……甘いほうなんだな」

「えっ?」

「卵焼き」

「あ……好きじゃなかった?」

「別に」

「逆に、何か作ってほしいもの、ある!?」

「特にない」

「そう……じゃ、食べられないものは?」

「……きんぴら」

 俯き加減に口を動かしていると、ふと、テーブルのそばに放ったままのノートに目が行った。凪咲もそれに気がついて目をやり、「あっ!」と嬉しそうに身体を跳ねさせる。

「夢ノート! 少し思い出した?」

「いや……」

「あたしにもよく見せてくれたなあ。いつか絶対シゲさんと同じ舞台に立つんだって、晴、いつも言ってた」

 確かに、ノートの最初のページには、『シゲさんのような、大喝采を浴びる俳優に!』と、丸まった癖のある字で、力強く書かれていた。見るに耐えず、慌ててページをめくったのが思い出される。

「その夢も、もう叶わないけど……」

「……え?」

 不意に飛び出した凪咲の言葉に、顔を上げる。目が合うと、凪咲は逃げるように、そっと目を伏せた。

「あ、ごめん……」

「どういう意味だ? 私が記憶喪失になったから?」

 怪訝に尋ねると、今度は凪咲が、ぎょっとした表情で言った。

「晴……本当に、覚えてないの?」

「だから、何も……」

「……ショック、受けないでよ?」

「どういう意味だ!」

 苛立ちに任せて声を荒らげる。しかし次の瞬間、被せるように放たれた凪咲の言葉は、松野の脳天までを一瞬にして貫いた。

「シゲさんは、もうこの世にいないんだよ」

「……は?」

「小劇団の旗揚げ公演に、ゲストとして呼ばれてたんだけど、初日の上演直前に、心臓発作で……」

 小さな手が震え出し、指先に力が入らない。喉の奥から叫びたい衝動に駆られるのに、言葉にならない。

 俺が……死んだ?

「晴、すごく楽しみにしてて、初日の会場にも行ってたんだよ。それからしばらくは、抜け殻みたいになってた……」

 あの日の景色を、必死で思い起こす。しかし、煙草を吸いに楽屋を出た瞬間、彼の記憶は闇に覆われ、それ以上のことは何も思い出せない。

「本当に心配したよ。後追っちゃうんじゃないかって。でも、三日もしたら、けろっとしてた」

 凪咲の目は、松野に対して、本物の晴の姿を投影しているように見つめていた。当時の彼女を取り戻そうとするかのように話を続ける。

「もうびっくりして! 晴が、晴じゃなくなっちゃったんじゃないかって! でも違った。晴は、自分の進むべき道を見つけたんだ! シゲさんが見せてくれた世界を、自分の芝居に昇華するんだって!」

 凪咲の背後の壁に整然と飾られた、様々な姿の自分。彼らの視線が、今の松野を試すように怪しく光る。

 睨み返す松野の瞳にも、鋭い光が宿った。

「……で、今の私に、劇団に戻ってきてほしいって?」

 冷ややかに吐き捨てると、凪咲はどきっとしたように肩を震わせた。それから、慌てた様子で、ぶんぶんと首を横に振る。

「そ、そんなつもりじゃ……いや、そりゃあ、戻ってきてほしいのは本音だけど……今はゆっくり休んで、落ち着くのが先だと思うし……」

「明日の稽古は?」

「え?」

「その、こうぼうざ? の」

「で、でも、記憶がまだ!」

「家でじっとしていて、戻ると思うか?」

「それは……」

「舞台に戻れば、何か思い出すかもしれないって言ったのは、あんただろう」

 今、考えるべきことは、起こってしまったことの原因追及ではない。凪咲の言う通り、本当に自分が死んだのなら、原因を突き止めたところで、元の身体に戻ることはできない。

 それに、仮に戻れたとしても、待っているのは味気のない役だけだ。

 小娘の夢? 笑わせおって。しかし、俺の再起には利用できる。

「本気で言ってるの、晴……?」

 眉間に皺を寄せ、心配そうな眼差しを向けつつも、彼女の声は少し跳ね、喜びを隠しているようにも聞こえた。

「『今』を演じるんだ。過去でも未来でもない、今この時を」

 俺の芝居を、こんなところで終わらせてたまるか。この身体を己のものにして、もう一度頂点に立ってやる。

 その瞳は、かつての謎めいた輝きを取り戻していた。

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