第三幕 昔者に挑戦を
その夜、彼は夢を見た。
共に葵屋敷の名を世に知らしめた、主宰の
「お前がいなかったら、今の俺はなかったよ」
空気に乗り切らない掠れた豊島の声に、かつて浴びせられた激昂の面影は欠片も残っていなかった。
「そんなことはありません」
「謙遜するな、自信を持ってくれよ。本当に、感謝している」
葵屋敷は、小劇団時代から、常に満席になることで有名だった。松野が葵屋敷ヘ入団を決めたのも、その背景が一つの理由だ。それでも、入団当時の劇団の知名度はまだまだだった。演劇に関心のない人にも葵屋敷の名前が知られるようになったのは、松野が主演を務めた『ホシのアカリ』という舞台がきっかけだ。
松野が演じた、主人公の
フリーの俳優として独立することを何度も考えたが、豊島は松野をいたく可愛がってくれた。それに、豊島と二人三脚で、葵屋敷を演劇界の重鎮へと押し上げた感覚が、松野の中でも根を張っていたのだ。
しかし、その冠に頼らず、松野重幸として、テレビや映画の舞台に立つことへの憧れは、還暦を間近に控えたその時でさえ拭えず、寧ろ強くなる一方だった。
俺はまだまだ舞台で輝ける。そう信じてやまなかった。
豊島の思いを無碍にしてしまうことにはなるが、松野は豊島の死をもって、ようやく葵屋敷から解放されたのだ。
「俺が死んだら、お前に葵屋敷を任せたい」
生にしがみつくように放たれた声、松野に向けられた懇願の眼差し。夢から覚めても、鼓膜と瞼の裏に染みついていた。
「晴、まだあ?」
玄関から凪咲の声が聞こえたが、松野は姿見の前から動くことができなかった。足元には、クローゼットから引っ張り出した衣服が散らばっている。
ビビットな幾何学模様のシャツ、アシンメトリーなカットのジャケット、シルバーのメタリックパンツ……彼の足元が、一つの現代アートのようでうんざりした。
「芸術家ぶりおって……」
そしてそれらは、松野がこれまでの舞台で身にまとってきた衣装によく似ていた。恐らく、松野への憧れを持って集めたのだろう。
俺が普段からこんな派手な服を着ていると、本気で思っていたのだろうか?
無難な衣服を探し続けて、もう三十分経とうとしている。せっかく見つけたブラウスも、クローゼットから引き出され陽の光を浴びると、肩から袖にかけて魚の鱗のような装飾がされており、ギラギラと視界を突き刺した。
「一体どんなセンスをしとるんだ……!」
松野が普段着こなすジャケットやワイシャツなど、当然あるわけもない。遂に一時間経とうとした頃、彼は渋々、白いパーカーと、色褪せた青いデニムのオーバーオールと合わせ、ようやく鏡の前から離れることができた。
ほっとして、つい右手が顔の前に上がる。その時、はっと我に返った。
裸眼での生活など、いつぶりだろうか。しかし、学生時代から眼鏡を愛用していた彼にとっては、かえって不快だった。眼鏡を押し上げようとブリッジを押す仕草を無意識にしてしまい、眉間に人差し指の甲を突き刺してしまうのだ。
引っ張り出した衣服を戻した時、ふと、クローゼットの中で息を潜めていた小さな棚に目が行った。何気なく、いちばん上の引き出しを開ける。中から滑るように現れたものに、思わず声が出た。
通帳に印鑑、その下には「劇団・宵皐月」と銘打たれた旗揚げ公演のチラシやチケット。ろくに仕分けもされず乱雑に突っ込まれた引き出しの中に現れたのは、一本の伊達眼鏡だった。小道具で使っていたのだろうか。しかも、松野が日常生活で愛用していたものと似ている、丸いフレームの眼鏡だ。
眼鏡を手に取ろうとした時、彼の目は通帳に向いた。一瞬戸惑ったが、ここまで迷惑を被っているのだ。それに、今後はここで生活をしていくのだから知っておくべきだろうと、無理やり理由づけして、通帳を手に取った。
中を開くと、直近の残高は、一五〇万弱あった。二十五歳で彼氏もおらず、しかもバイトで生計を立てていると聞いていたのに、随分潤っているじゃないか。
「あっ! かっわいー!」
玄関に腰を下ろしていた凪咲は、こちらを振り返るなり、目を輝かせて立ち上がった。
まるで仔犬のように、松野の周りをうろちょろする。朝から耳をつんざくやかましい音にうんざりだ。
しかし、しばらくは、圦浦晴として生活しなくてはならない。俺の役者魂が試される絶好の機会だと考え直し、彼は眼鏡を押し上げた。
「あれ? 晴、眼鏡なんか使うっけ?」
「なんとなく落ち着くから」
「もしかして、あたしとお揃いにしたかったとか!? きゃあ! 嬉しい!」
「うるせ……」
「しかもそのパーカー! 誕生日にプレゼントしたやつ! ほら、あたしも今日着てるんだ!」
そう言って、彼女は着ていたグレーのパーカーのフードをかぶってみせる。その頭上についた猫耳が、ぴょこんと揺れた。
「ね、かぶってみてよ!」
「ちょっ……!」
抵抗する隙もなく、凪咲の手は松野のフードを引っ掴んだ。フードをかぶせられ、むっとして顔を上げると、彼女の目とぶつかる。その瞳に、間抜けな猫耳の自分の姿が映った。
「やっぱり、似合ってる!」
「はあ……」
光芒座の稽古場は、市民センターの会議室だった。
中に入ると、数人の男女が、机や椅子を畳んで部屋の隅に寄せていた。
「おはようございますっ!」
凪咲の高らかな挨拶に、彼らは一斉に視線を向け、その目を大きく見開いた。
「晴! 戻ってきたのか!」
いちばんに歩み寄ってきたのは、台本を手に壁に寄りかかっていた男性だった。窪んだ目元が、ぎょろりと目玉を際立たせている。しかしその瞼は柔らかい曲線を描き、口元も柔和に微笑んでいた。寝癖を直していないのか、ぼさぼさの髪をわしゃわしゃと、大きな左手で掻く。
「座長の南雲さん」
隣から凪咲が言う。南雲は微笑みのままに、右手を差し出してきた。
「
小さな手は、彼の肉厚な手に包み込まれた。
「記憶は、まだ全く?」
「ええ……」
「そうか。まあ、気長にやっていこう。なあに、大好きな芝居をすれば、ある日突然、落雷の如く記憶が戻るだろう!」
「……はあ」
「じゃあ、まずは自己紹介するか! みんな、集まれ!」
南雲の掛け声に、机と椅子を片付け終えた三人の男女が並んだ。
「一人ずつ紹介するね!」
と、凪咲は、いちばん左にいた女性を指した。
「まずは、音響の
「久しぶりー、晴ちゃん」
奏は表情をとろけさせるように目尻を下げて、柔らかに微笑んだ。ふんわりとパーマのかかった短い茶髪が跳ねる。松野が小さく会釈したのを見ると、彼女はきょとんとした表情で、首を傾げた。
「あれえ、なんか、いつもの晴ちゃんと違うねえ。眼鏡、してたっけ?」
「ちょっと、気分で」
「そっかあ、おじいちゃんみたいで、可愛いね!」
どうせ俺のセンスはジジイだろうよ、と言いかけて、慌てて口をつぐんだ。
「それに、前はもっと元気にお返事してくれたのに……」
「だから、奏さん……晴は記憶がないんスよ」
と静かに突っ込んだのは、奏の隣に立っていた、背の高い男性だ。
「ええ!? そうなの、晴ちゃん!?」
「マジで何回やるんスか、このくだり……」
「ええっと、この人が、
凪咲が慌てた様子で二人の間に入って言う。
「舞台セットから小道具まで、なんでも作れる器用さん!」
「ども……って言うのも、変だけど……」
作業着姿の彼は、こめかみを伝う汗を拭って言う。乱れた髪は、タオルでまとめて隠していた。がっしりとした身体つきをしており、その手もまた、多少の傷はものともしないような頑丈さが窺えた。
その隣では、鋭い目をした女性が、こちらを真っ直ぐ見つめていた。
「で、この子が、
凪咲が紹介すると、彗は一歩前に出て、松野の前に立ち塞がった。
「光芒座の女優、彗です」
「……ほお」
その瞳は吸い込まれそうなほど大きく、きりっと上がった目尻が、彼女の中の自信を感じさせる。身長は晴よりも低いが、胸を張ってこちらを見上げ、長い髪をまとめたポニーテールが揺れた。俳優としての出で立ちが、すでに優雅だ。
「いつもの調子に戻ってきたねえ、彗ちゃん」
と、奏がにこにこする。一方で、凪咲は少し慌てた様子でいた。
「あの、彗ちゃん……晴はまだ、」
「晴さん、あなたの記憶が戻ろうと戻るまいと、ずっとライバルだと思ってますから」
「す、彗ちゃん……」
「芝居では、絶対に負けません」
強い眼差しで見つめる彗と、おどおどする凪咲。その間に立つ松野は、飄々とした態度を崩さず、「そうか」とだけ返事をした。
「よし! これでようやく、光芒座も再スタートを切れるな!」
南雲が、ぱんっ、と高らかに手を叩いた。
「それじゃあ、稽古を始めよう! 晴は、今日は見ているだけでいいからな。無理はするなよ」
南雲の声には、確かに父親のような温かみがあったが、松野には耳障りに響いた。まるで新人扱いだ。こんな感覚は何年ぶりだろうか。
「これが、今回の公演の台本だ」
差し出されたのは、A4用紙をクリップで留めただけの紙の束だった。
「晴、こっち」
凪咲に腕を軽く引かれ、会議室の隅のパイプ椅子に誘導される。
「それじゃあ、まずは第一幕から始めるぞ!」
南雲の号令に、劇団員たちが動き始めた。樹は、実際に使うハリボテを模した木枠をてきぱきと並べ、奏はサンプラーに小さなスピーカーを直接繋いで準備する。
会議室の中央が、即席の舞台に変わるのは、あっという間だった。道具を運ぶ音、台本をめくる紙のこすれる音、咳払い――その全てが、松野の耳には懐かしかった。だが同時に、狭苦しい空間と素人臭い準備が、彼の神経を逆撫でする。
「準備はいいな? それじゃあ、彗、いこうか」
中央に立った彗は、静かに頷いた。
舞台は、中世ヨーロッパのとある小さな国。吟遊詩人・ルシアは、歌と詩で民を癒し、王国の信頼を得ていた。この主人公を演じるのが、彗である。
小柄な身体つきからは想像もできないほど、彼女の歌声は芯を持って響き渡った。狭い会議室では、大きすぎるほどだ。素人にしては悪くない。記憶喪失である晴に向かって、宣戦布告してきただけのことはある。
第一幕では、ルシアが信頼を得るまでの過程と、民から慕われ幸せな日々を送る様子が、彼女自身の語りと歌声によって紡がれた。松野はそれを聞きながら、台本をめくり、この先の物語を把握する。
第二幕で登場するのは、王の側近である魔術師・カイル。彼はルシアの才能に嫉妬し、彼女の声を奪う呪いをかける。声なき詩人となったルシアは王国から追放され、あてもなく彷徨うことになる……。
「オーケー! いい感じだな!」
一人芝居を終えた彗は、静かに息を整えていた。歩み寄った南雲は台本を手に、彼女に演技指導を始める。
「すごいね……」
隣に座る凪咲が、ため息を混じらせて呟く。
「彗ちゃんはね、本気でプロを目指してて、オーディションにもよく行ってるの」
「ふうん」
「晴も、よくオーディションに行ってたんだよ。時々、会場で彗ちゃんとばったり、なんてこともあって」
なるほど、だから俺に対して、あの眼差しだったというわけか。
松野は、再び台本に目を落とし尋ねた。
「このカイル役は、もしかして私?」
「そう! でも、どっちが主役のルシア役をやるかって、南雲さんも悩んだみたいなんだけどね」
南雲の指示により、樹が木枠の位置を変え始めた。カイルが登場する第二幕を飛ばして、第三幕の稽古を始めるようだ。
「彗ちゃんも晴も、光芒座にはなくてはならない役者だよ」
「そりゃ、この人数じゃあな」
「そういうことじゃなくて!」
第三幕では、声を失い、カイルに操られた民たちから王国を追い出されたルシアが、盲目の灯台守・エリナと出会うところから始まる。ルシアはエリナの光を得て、声なき詩を身体で表現し、物語を再び民へと届けようと立ち上がるのだ。
スピーカーからあふれる安っぽい波音に、ルシアが顔を上げる。雄大な海を前に、遠くを見つめ、立ちすくんでいた時だった。
「そこに、誰かいるのですか?」
すぐそばでした声に驚いて、松野は振り返った。
「この堤防には、あまり近づかないほうがいいですよ。いつも波が高いですから。今日は、いつにも増して」
凪咲が、台本を手に台詞を放っているのだ。
「私は、エリナ。この道を真っ直ぐ行った先の灯台で、灯台守をしています。あなたは?」
柔らかく透き通った声。ルシアは答えようとするが、喉からは空虚な息が漏れるだけだ。
圧倒的な歌唱力もさることながら、彗の声なき演技もまた、確かな実力を感じさせた。身体の動き、息遣い、表情。技術はまだ甘いが、ルシアの動揺と絶望を訴えかけている。
「まあ、声が……。良ければ、灯台にいらして。少しお休みになりませんか?」
ルシアの目に、戸惑いの色が浮かぶ。少しの間の後、また穏やかにエリナは言った。
「私、目が見えないのです。あなたがどんな方なのか、この瞳に映すことはできませんが……でもその足音、とっても重い。疲れておいででしょう?」
声の出ない役者と、姿なき役者。物語が進む中で深まるルシアとエリナの絆と同じように、彗の動きと凪咲の声は、シーンを重ねるごとに呼応し合っていた。
第三幕が終わると、南雲が拍手しながら、凪咲の元へやってきた。
「だいぶ上手くなってきたな、凪咲」
「ありがとうございます!」
「え……照明なんじゃ?」
松野が思わず問うと、凪咲は照れくさそうに笑って答えた。
「実は、今回の舞台は、南雲さんが私にも役をくれて……。エリナは盲目の灯台守だから、あえて声だけの出演にすれば、不思議な印象を与えられるんじゃないかって! って言っても、当日は録音した音声を流すんだけどね」
「光を使ってルシアの詩を表現するエリナに、凪咲はぴったりということさ!」
すると、南雲は松野のそばにしゃがみ込んで言った。
「どうだ、芝居の感覚は思い出せたか?」
「はあ……」
「もしだったら、少しやってみないか? 第二幕」
「カイルを?」
「そう。熱心に稽古を観ていたじゃないか。台本も何度も読んでいたようだし。本当は、芝居がしたくてうずうずしてるんだろ?」
茶化すような調子で言われ、松野はむっとする。
「カイルとの掛け合いも、彗に練習させたいしな。もちろん、台詞は覚えてなくていい。台本を持ったままやってもらって構わない」
若造が、馬鹿にしやがって。俺を誰だと思っている。
そう吼えたくなるのをぐっとこらえて、静かに答えた。
「少し時間をください」
その言葉に、南雲はにんまりした。
「よし、一旦休憩だ! 十五分後に、第二幕の稽古を始める!」
南雲がそう告げると、劇団員たちはそれぞれ散らばった。椅子に座ったまま大きく伸びをする奏、壁にもたれて台本を読む彗、樹は木枠の支えを覗き込むように屈んで、ドライバーを手に作業を始めた。
松野は徐に立ち上がって、扉のほうへと足を向けた。
「晴? トイレ?」
「コーヒーを淹れに」
「あたしも行く!」
と、凪咲もパイプ椅子から飛び上がった。
「他に飲みたい人! 一緒に淹れてくるよ!」
「じゃあ、先にお湯を沸かしておくから」
そう言って会議室を後にし、給湯室へと向かった。
台本は、パイプ椅子の座面に、わざと置き去りにした。物語でのカイルの立ち位置は頭に入っている。台詞もそれほど多くない。給湯室に到着し、ポットに水を入れ、ボタンを押すまでの間に、彼は頭の中でカイルの台詞をすっかり思い浮かべることができていた。
所詮は小劇団の戯れだ。今に俺の芝居を思い知らせてやる。
しかし、マグカップを取ろうと伸ばしたその手は、その瞬間ぴくっと動きを止めた。
食器棚のガラス戸に映る、貧相な少女の姿。短い茶髪が揺れ、大きな瞳がこちらを見つめ返していた。
自分に与えられた、カイルという役。カイルはルシアに言う。「その声、俺が奪ってやる」と。
「ふざけやがって……奪われてんのは、俺のほうだ」
精一杯毒づいてみても、声は高く柔らかい。こんな声で、どうやってカイルの冷徹さを演じればいい?
かつての低い声を絞り出そうと、喉を震わせてみる。しかし出てくるのは、掠れた息だけ。
「くそっ……!」
苛立ちに任せて拳を握るが、細い指は頼りなく震えるばかり。こんな身体で、俺の芝居はどこまで通じるんだ?
松野は食器棚を乱暴に開けると、マグカップに手を伸ばした。取っ手をいくつか、指でいっぺんにまとめて取り上げる。
その時、一つの取っ手が、その指からするりと逃げた。カップは重力に引かれ、床に向かって一直線に落ちる。松野が声を上げる間も与えず、カップは床の上で悲鳴を上げてはじけた。
その時、給湯室の空気が冷えた気がした。しゃがみ込んだ松野の目は、飛び散った破片のそばに立つ、くたびれた靴先に向いていた。
「おやおや、大丈夫ですか」
顔を上げると、黒いロングコートに身を包んだ男が、こちらを覗き込んでいる。彼もしゃがみ込むと、カップの破片を拾い始めた。
「ああ……すみません」
「気負うことはありませんよ。形あるものは、いつか壊れるさだめです」
男の妙な言い回しに、松野は訝しげに顔を上げた。
まるで煙のように、風に吹かれてかき消えてしまいそうな、儚げな色をした真っ白い短髪。前髪は少し長く、深い窪みに埋まる目にかかっている。青白い顔は、骸骨に薄い皮膚を貼りつけただけのような、不気味な輪郭をしていた。
「コーヒーはお好きですか? ワタクシ、淹れるのが得意でして」
袖から覗く手もまた、骨のように細い。彼はいつの間にか破片を拾い終え、立ち上がった。
「一杯、お淹れしても?」
松野はようやく気がついた。
ここは、誰でも使える市民センター。他の会議室では、別の劇団が練習をしているのだろう。こいつはきっと、役になりきったまま、同じ劇団員である俺を茶化そうとしているんだ。松野の中に、いつかの悪戯心が蘇って、ここは一つ乗っかってやろうと思った。
「私は、コーヒーにはうるさいぞ」
「さようでございますか」
男は穴の空いたような笑窪を作って、嬉しそうに微笑む。
「自宅には、豆を挽いて飲むためだけの部屋もあるんだ」
「それはそれは、素晴らしいこだわりをお持ちで」
男はフィルターに湯を注ぐ。立ち上る湯気に遅れて、コーヒーの香りも迫り上がってくる。
「芝居がお好きですか?」
「そりゃあ」
「やはり、舞台に立たれるほうが?」
「まあな。動き一つで、観客の感情をどうとでもできる、その感覚がたまらない」
「なるほど、舞台に立っている役者も、観客を観ているということですか」
男は、骨ばった手をしなやかに動かし、コーヒーを注いだ。松野も思わず見惚れてしまうほどに、その動きは優雅だった。
「さあ、どうぞ」
ぽっかりと空いた深い穴のような漆黒が、マグカップの中に揺らめいている。松野が手を伸ばすと、男は「おっと」と呟いた。
「今度は落とさないでくださいね」
「馬鹿にするな、子どもじゃないんだ」
「でもほら、そんな小さな手じゃ、なにかと不便でしょう」
身体のことを言われ、松野の中に再び苛立ちが込み上げた。細い目で睨みつけると、男は相変わらずにやにやしている。
「きっとワタクシのコーヒーは、こだわりの強いあなたでも、口にしたことはないでしょうね」
「相当な自信だな。毒でも盛ったのか?」
嫌味に冗談を言って、カップに視線を落とし、口をつける。すると、男が「ふふ」と小さく笑ったのが聞こえた。
「まさか。死人に毒を盛っても仕方ありません」
「……え?」
顔を上げると、目の前にいたはずの男は、忽然と消えていた。
給湯室には、松野がただ一人佇むだけだった。人数分用意したマグカップには全て、いつの間にかコーヒーが注がれ、静かに湯気を立ち上らせていた。
「さあ、いよいよカイルの登場だ」
休憩を終えると、劇団員たちは素早く自分の立ち位置に戻った。松野もパイプ椅子から腰を上げる。コーヒーの苦味はもう、その舌から消えていた。
舞台中央へと歩を進める。晴の小さな身体が、風になびくように軽々と動く感覚に、松野はまた苛立ちを覚えたが、それを押さえ込むように、静かに深呼吸する。
落ち着け。俺は、松野重幸だ。この身体は借り物に過ぎない。借り物なら、使いこなせばいい、使いこなしてやる。それを今から証明するんだ。
松野は眼鏡を外すと、オーバーオールのポケットに突っ込んだ。それを合図に、南雲の声が空気を裂いた。
「第二幕! よーい、スタート!」
彗が顔を上げ、ルシアとして松野を睨みつけた。
「裏切るのか、カイル? 私を、そして王国を!」
彼女の咆哮に、松野は目を細める。正々堂々相見えようと一歩踏み出したが、未だ慣れない軽さが膝を揺らし、バランスを崩しかける。
落ち着け――! 彼のプライドが叫ぶ。
「ルシア、お前の詩は、民を惑わす毒だ」
静かに、嗜めるように――しかしその声はやはり、高く柔らかな音だ。
その時、目の前のルシアが、わずかに口角を上げたのが分かった。
「一体何を言っている?」
嘲笑っているのは、ルシアか、それとも――。
その言葉は、松野の俳優魂に火をつけた。
空気を震わすかつての響きを、彼は喉の奥から引っ張り出した。
「王に仕える詩人は、この俺だけでいい」
その台詞は、異様な迫力を帯びて会議室に広がった。空気が変わったのが、松野にも感じられたのだ。
彗の瞳が、わずかに揺らいだ。その隙を見逃さず、松野は自慢の冷ややかな眼差しを繰り出す。すると、彼女の表情は固まった。それは松野の――いや、カイルの嗜虐心を掻き立てた。
「ルシアよ、汝の歌声など、雑音にすぎん。我が魔術の前では、すべての希望は氷結する運命だ」
カイルはその手をゆっくりと持ち上げ、細い指先をルシアに向けた。そして、息を吐くような微かな声で呪文を唱える。その声は、ルシアにさえ届けばいい。自分だけが呪いを受ける孤独と絶望を味わわせてやる。
ルシアは膝から崩れ落ちそうになりながらも、立ち直ろうと首を振った。その様子に、カイルは邪悪に微笑む。
もっとだ、もっと怯えてみせろ! お前が震えれば震えるほど、俺の恐ろしさを思い知らせてやれるんだ!
「その声、俺が奪ってやる――永遠にな!」
轟く雷鳴のごとく吐き出したと同時に、カイルは腕を振り下ろした。その瞬間、舞台の空気が凍りつき、静寂が重く落ちた。
ルシアが震える手で首を押さえ、とうとう膝をつく。カイルはその様を、恍惚とした表情で眺めた。
彼女は唇を噛んで、恐る恐るカイルを見上げた。その目は、王国を担う詩人の気高さを忘れた、ただの少女の目だった。
その時、松野は我に返った。激しく脈打つ心臓、血潮の流動、身体の内側から湧き上がる熱。
観客の感情を支配し、舞台を掌握するこの力が、確かに蘇っている。驚きが喜びに変わり、喜びが確信へと昇華して、彼の口角は裂けんばかりに上がっていた。
やっぱりだ。俺はまだやれる。俺の芝居は死んでない!
五十年ぶりの高揚感。かつての栄光を再び手にする予感が、身体を震わせた。
「晴……お前」
南雲は、それ以上の言葉が出ないようだった。
そうだろうとも。俺の芝居が、若造のお前に語れるはずはないんだ。
微塵も動くことを許されないような空気を、松野は作り出していた。会議室には、彗の荒い呼吸だけが、唯一響いていた。
その興奮は、夜になっても収まることはなかった。まるで子どものように、毛布にくるまっても胸が躍り続けて眠れない。松野はたまらず起き上がって、夜風にでも当たろうと、眠る凪咲を置いて、真夜中の町へ出て行った。
闇をまとった少し冷えた風が、松野の熱を程よく冷ましてくれた。アパートの前まで戻ると、コンビニで買った煙草を咥え、火を点ける。大きく息を吸い込んだ時、喉の奥を鋭い痛みが襲った。
「ぐっ!? げほっ! ごほっ!」
みっともなく咳き込んだ拍子に、咥えていた煙草を落としそうになった。その時にやっと、自分の立場を思い出す。
「くそ……こいつ、煙草もまともに吸えんのか」
再び煙草を咥え、今度はゆっくり煙を吸う。まずはふかして、慣れさせていくしかないか……。
「随分と、恐る恐る吸われるんですねえ?」
その時、耳元で響いた素っ頓狂な声に、松野は飛び上がった。
「うぐっ!? げほっ! げほっ!」
「今時、煙草なんか流行んないでしょう? しかも紙なんて。無理してカッコつけることないですよ」
振り返ると、そこには、給湯室で出会った男が立っていた。夜風にはためく季節外れのロングコートは、闇さえも従えるようだ。
「なんっ……で、ここに?」
「いやあ、あの会議室での芝居、素晴らしかったですよ。その感動をお伝えしたくてですね」
「はあ?」
会議室にいたのは、光芒座の人間だけだったはずだ。
「劇団の関係者ですか?」
「関係者! いい質問ですね。正確には、あなたにとっての関係者です」
「どういうことです?」
「あなたに、ちょっとしたお話をしに参りました」
「スカウトなら、もう少し時間と場所を選ぶべきだと思いますが」
そう吐き捨てて、松野は踵を返した。家を知られては厄介だ。少し散歩して、この男を撒かなくてはならない。
面倒ごとを増やすのはごめんだ。今は光芒座で俳優としての地位を確立してから、オーディションや事務所なんかを段階を踏んで吟味していくべきだ。不本意とはいえ、せっかく手に入れた第二の人生なのだから。
「残念ながら、ワタクシにはそのような立派なことはできません」
時間を稼ごうという魂胆か、芝居がかったような男の声が、松野の背中を追う。松野は返事もせずに、歩を進めた。
「ワタクシは、あなたが今いちばん知りたいことをお伝えに、参上したのですよ」
しかし、次の瞬間飛び出した男の言葉に、遂に松野は足を止めてしまった。
「知りたいでしょう? 圦浦晴のこと」
「……なに?」
振り返ると、男の輪郭は、薄暗い路地の闇に溶け、その境界線を曖昧にしていた。しかし、にやりと耳まで裂けるほどの笑みだけが、真っ白い歯によって鮮明に浮かび上がっている。
「ね? 松野重幸さん?」
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