第3話十年の約束
朝の光は船室に届いていなかった。薄暗い通路に、赤子の寝息だけが確かにあった。機械の低い脈動と溶け合うその小さな鼓動が、いつの間にか船の空気を変えている。
レアはエプロンのポケットからポータブル・ナノスキャナを取り出し、慣れた手つきで赤子の胸に軽く触れた。端末のディスプレイに細かな波形が現れ、ピッ、ジーと診断音が淡く返る。声は包み込むが、目は医師の厳しさを宿している。
「表面的には落ち着いているわ」レアは静かに言った。「体温、呼吸、心拍は正常。ただし、この波形の裏側に規則的な高周波が重なっている。簡単に言えば、内側で何かが規則的に囁いているようなものよ」
メティスが端末に視線を落とし、眉を寄せる。「ノイズの周期が規則的だ。外部接続の痕跡に近い。微弱だが皮膚下でエネルギーエミッションが検出されている」
沈黙が伸びる。アドラスは赤子を抱いたまま黙していた。布団越しに伸びる小さな指先、薄い睫が光に揺れる。胸の奥で、冷たい何かがはじける――家族を失ったあの日の火の匂い、横たわる小さな手の感触が断片となって彼を取り巻いた。ポッドの青光がその瞳を浮かび上がらせ、拳がわずかに固くなる。
メティスは端末を操作して短い断片音声を再生した。機械加工された女性の声が冷然と告げる。
「……あなたにお願いしたいのは、その子を無事に十年保護すること。十年後、あなたが探している相手に会わせてあげるわ」
言葉が部屋の温度をさらに下げた。カルマンは肘をつき、興味を含んだ笑みで言う。「取引だ。うまくやれば報酬以上の価値が出る」
マクリルは腕を組み、低く言った。「利用すれば足跡を残す。追跡者が来れば、ここも俺たちも終わりだ。まずは安全の確保が最優先だ」
議論は次第に尖りを帯びる。カルマンは可能性と利益を煽り、マクリルは現実の脅威を突きつけ、メティスは解析が示す冷たい数字を差し出す。アドラスの胸には依頼主の「十年」が繰り返される。守ることは慈愛の延長だけではない。復讐への糸がそこに絡んでいる。
場が熱を帯びたとき、レアが手を打ち、静かに切り出した。
「一旦休みましょう。ご飯にするわ」
彼女の動作は料理人のそれで、短い沈黙の後に湯気と香りが会議室を満たす。温かなスープ、香辛料の切れ、焼きたてのパンの甘い香り。器が配られると、箸音やスプーンの触れる音が緊張をほどいていく。
食事中、場の空気は少し柔らいだ。カルマンは食材の由来を冗談めかして話し、ほころびを作る。マクリルは黙して噛みしめるが眉を解かず、アドラスは赤子を抱きながら、食の匂いのなかで目を閉じる。レアは何度か赤子を覗き、そっと額に指先を走らせた。母性と医師性が自然に共存している。
食事が終わると、メティスは席を立った。「解析を続ける。情報は武器になる」そうだけ告げ、解析室へ向かう。背中には誰にも見せない焦りと責任が宿っていた。
解析室の蛍光は冷たく、メティスはノイズの海に沈む。アルゴリズムを微調整し、周期的パターンの中から人工的なビートだけを掬い上げる。波形が整うたび断片的な文字列が画面を横切る。恒星系名の欠片、旧軍のコードに似た配列がちらついた。
メティスは息を吞んだ。完全な座標ではない。だが確かな「らしきもの」が浮かんでいる。彼女はデータを暗号化して保存し、短いログを書いた。最初に確認したときの冷たい震えを抑え、再び会議室へ戻る。
円卓に戻ると、全員が彼女を見た。メティスは端末を差し出し、画面に断片化した文字列と拡大波形を映す。
「ノイズから恒星系名の断片と、旧軍の基地コードに類似したパターンが出た。完全ではないが、ケイアー領域近傍の可能性が高い」メティスの声は平静だが、端末の光が小さく震えた。
カルマンの目が細まる。「近場なら行きやすい。調査の価値は十分だ」
マクリルはため息をついて応じる。「移動すれば燃料と時間、追跡リスクが増す。準備が必要だ」
アドラスは赤子を抱いたまま立ち上がる。胸に当てた小さな鼓動が、彼の意思を確たるものにする。ゆっくりと、しかし揺るがぬ口調で言った。
「復讐に使うと言われても構わない。だがこの手で守るのは俺の意思だ。誰にも渡さない」
その言葉が部屋の重心を変えた。レアは短く頷き、ログ保存の指を動かす。「暫定方針を提案するわ」彼女の声は柔らかく、しかし決然としている。「この子の安定化と詳細検査は私が率いる。解析で出た座標断片はメティスが保持。外部に情報を出すのは厳禁。全体行動の最終判断はマクリル。異常があれば即時中断」
カルマンは計算めいた笑みを浮かべるが、賛同の色も見せる。彼は口を開いた。
「考えろ。利用できるものを見逃す理由がどこにある?」
マクリルは渋い顔で腕を組み直し、短く「了承だ」とだけ言った。メティスは端末を閉じ、軽く「了解」と返した。合意は暫定だが、行動への扉は開かれた。
会議が解けると、皆は各自の仕事へ戻る。アドラスは自室へ向かった。ドアを閉めると外の喧噪は消え、静寂が広がる。彼は赤子を膝に座らせ、視線を落とした。小さな胸の鼓動。人差し指をゆっくり差し込むと、赤子が反射的にその指を握り返す。記憶の火が鮮烈に過る。燃える家、横たわる娘、消えた笑顔――復讐の炎は冷めていない。だが今は、守るという行為がその炎に別の形を与えている。
ノックもなく、レアが入ってきた。手ぶらで、ただそっと隣に腰を下ろす。エプロンの端にまだ少しソースの跡が残っている。
「ねえ」レアは柔らかく語りかける。「私にも探している子がいるの」
アドラスは顔を上げ、驚きと戸惑いを混ぜた視線を向ける。レアは続けた。
「名前も顔もはっきりしない。最後に見たのは遠い戦場の夜だった。夜の爆風と煙が記憶を削ぎ、写真は灰に消えた。だから名前や顔は断片でしか残っていない」彼女の声は少し震えたが、すぐに落ち着きを取り戻す。「それから私は衛生兵としてあちこちを回り、ご飯を作り、人をつないできた。あなたがこの子を護りたいという気持ち、私は分かる。私にとってもそれは復讐でも執着でもない。『再会』を願う気持ちよ」
アドラスは赤子と自分を見つめ、言葉少なに応じる。「お前も探してるのか」
レアは小さく頷き、アドラスの手を取って赤子の指先に触れさせる。「あなたは一人じゃない。私も、船も、あなたと一緒に守る。だけど忘れないで。守るということは、その命を最初に守ること。利用したり手放したりするのは別問題よ」
アドラスはその言葉を胸に収め、赤子の温もりを確かめるように抱き締める。小さな指が彼の人差し指に絡みつき、現実が柔らかく繋がる。決意には温度が混じり、怒りだけでは進めない道が見えた。
廊下の向こうで、メティスが抽出した座標断片が端末の片隅で小さく点滅している。行き先はまだ輪郭だけを見せているが、船は静かに舵を切り始めていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます