Case 3-2 禁断ノ研究

「……それから一年ほどして、妻は逝ってしまったよ。私と、幼い亜里紗を残して、静かに、ね」


 望は、絞り出すような声で言った。


「葬儀の間、私は泣きもしなかった。

 泣くことができなかった。

 現実味がなさすぎて、どこか他人事のようで……

 でも、終わった後、家に戻ってきて……彼女のいない食卓、空いた椅子、風の音すら響く静かな寝室を前にして、私は、崩れた。


 妻は最期に、娘のことを頼むと私に残して亡くなった。

 だが、私は娘がいるというのに、食事を作ることもできず、話しかけられても反応せず、部屋の隅で膝を抱えるだけの毎日だった……

 あれは、生きていたとは言えない。


 そして、そんな私を見て、銀野が動いた。


 ある日、彼が私を訪ねてきたんだ。無理やり私を連れ出して、研究室に連れて行った。そして、こう言った――“脳内干渉装置を使ってみないか”って


 ……そのときに、私はようやく気づいたんだ。私にも“消したい過去”ができてしまったんだと。

 人の記憶を消したいなんて、他人のことだと思っていた。

 だが、妻の死という現実は、私にとって……耐えられない重さだった。


 心では、消したくないと思っていた。

 妻との記憶を忘れてしまうなんて、そんなのは裏切りだと……

 でも理性では、娘を、亜里紗を育てなければならないと焦っていた。

 壊れたままではいられなかったんだ。


 ……私は、やむなく、銀野の提案を受け入れた。

 手術を受け、脳内干渉装置を首に取り付けた。世界で初めての人間として、な。」



 その声は苦みを帯びた。


 「だが……結論から言えば、それは失敗だった」


 南部の目が細められた。望はそのまま続けた。


 「私の装置は、つらい記憶にモザイクをかけるはずだった。

 ……だが、逆だった。私の装置は、楽しかった記憶にモザイクをかけたんだ。


 私は、彼女と過ごした“日々”を覚えている。

 笑ったことも、話したことも、手を握った感触さえも……

 けれど、その“内容”が、ぼやけている。

 映像がノイズで霞んでいるような感覚だ。声も、輪郭も、消えていく夢のように……」


 望の手が膝の上でぎゅっと握られた。


 「だが、不思議なものでな。楽しい記憶が霞んだことで、私は立ち直れたんだ。

 泣き崩れたりはしなかった。

 心の奥底に張りついていた痛みが、静かに和らいだ。

 ……そして、私は、父として、亜里紗を育てることができた。」


 しばしの静寂のあと――


 「……それでも、会いたかった。

 ……もう一度、彼女に会いたかった。

 楽しかった記憶の霧の向こうにいる彼女を、どうしても、もう一度見たかった。」


 その切実な声は、部屋の空気に沁み込むように響いた。


 「だから私は……手を出した。あの、禁断の研究に」


 「それが……クローン実験計画だったんですか」


 静かに、しかし明らかな怒りと緊張を孕んだ声で、南部が問うた。


 金城望は、まっすぐにその言葉を受け止めるように頷いた。


 「そうだ。私たち“ロボット覚醒派閥”は、私が提案したクローン実験計画を主軸に、研究を進めることになった」


 その声には、もはや言い訳も誤魔化しもなかった。

 まるですべてを晒すことを覚悟した者の声音だった。


 「表向きはこう説明していた。

 “ロボットの機械的な脳構造をベースとしたAIでは、人間の思考の複雑さや感情には到達できない。ゆえに、シンギュラリティも絵空事に過ぎない”と。

 そして、“同じ脳構造を持つクローン人間を作成し、AIと比較することで、効率的に人間の脳の構造や可能性を把握する”と

 ……それが、我々の計画の表向きの顔だった。まぁ、この理由でも表社会にはその事実を公言できないほどのタブーだったがね。」


 説明の途中、南部の喉がゴクリと鳴った。

 彼は重々しく口を開いた。


 「だが……本当の目的は、安定して、奥さんのクローンを作り出すための、技術の蓄積だった、と」


 望は、返答せず、ただ静かに目を閉じ、深く頭を垂れた。


 「……すまない」


 その謝罪は、悔恨の色を滲ませながらも、確かに本心からのものだった。だが――


 「……あなたのことが、さらに嫌いになりました」


 南部は、まるで唾を吐き捨てるように言った。


 「あなたが自分の妻を思う気持ちは理解します。でも、命を弄んでまで叶えていい願いではない。被験者の命を、なんだと思っているんだ……

 あんたは、俺にとって、最悪の上司で、最悪の研究者だ。」


 望は、黙ってそれを受け止めた。否定も、弁明も、返しはなかった。


 部屋には重たい沈黙が落ち、かすかに鳴る空調の音だけが、冷たく響いていた。

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