一章 学び舎
第2話 朝
「だあああーーー」
と絶叫しながら走っている。爪先が地面を噛み、太もももはち切れんばかりに地面を踏んでくれている。
「過去最高に速い」
呼吸も困難な乾いた喉が呟いたかどうか、頭をよぎっただけの言葉かもしれない。
まだ腹筋に余力があり、前傾を保てる。
「うおおーーー」と叫んで校門を越えた。
と思った瞬間、なにかに蹴つまずいた。
ひゅ、と身体が浮き上がり、頭から地面に落ちてゆくのが、スローモーションではっきりわかった。
あ、死んだな。
南無阿弥陀仏を三回唱える。その間に、柔らかいものにぶつかった。併せて身体を包んだ温もりは極楽浄土のそれかもしれない。
「大丈夫?」
天使のような声音が耳元をくすぐる。阿弥陀さまという雰囲気ではない。なかなか応えられなかったのは、天使の豊満な胸元から発する甘い芳香に惑わされたからだ。はあ、はあ、と鼻息が荒くなるのを我慢したが、できていなかったかもしれない。
「あの」と後頭部を撫でられ、その優しさにはっとした。
胸の谷間に顔を埋めたまま視線だけを上げる、と、くりくりした大きな瞳が困ったようにこちらを見つめていた。白い肌にある真赤な唇は薄く濡れ、丸い輪郭をなぞって垂れる黒髪は五月雨のように細くきらめき、また細い指に掻き上げられて、耳裏に戻ってゆく。傾げた首の角度も芸術的で、分度器をもって計れば黄金角だったろう。
その間も休むことなく、後頭部を撫でられている。
「おお」と呻いて、また胸の谷間に顔を埋めた。「おお、天使よ」
「天使ではないけれど」
「助けてくれてありがとね。あたし、稲荷美々子。みっちゃんって陽気に呼んで」
「じゃあ、みっちゃん、いつまでこうしているつもりかしら?」
「いつまでもこうしていたい」
さすがに引っぺがされて、春の朝のまだ寒い風の中に晒される。
「名も知らぬお人よ。もう一度温もりを」
「ダメです」
微笑みつつ去ってゆく天使の背中を追いかけてゆく。横に並んで、
「あたしもね、走りたくて走ってたわけじゃないの。寝坊しちゃってね、全寮制って初めて住むから。お母さんいないんだよ、驚いちゃった」
ぴく、と黒髪の下の薄いまぶたが痙攣したように見えたのは神が美少女に嫉妬した結果の一瞬の作画崩壊だったかもしれないし、単純に気のせいだったかもしれない。いまは、美しいコマ割りが続ている。
「痛かったでしょう? あたし、人類最速だったから。エネルギー的には五馬力くらいあったでしょう?」
「そんなでもありませんでした」
「ほほう、タフだねえ、見た目によらず」
一歩下がって彼女の全身を眺めてみたが、スカートの裾から覗くふくらはぎの確かさと、胸の豊かさしかわからず、楚々とした所作と併せて、全体としては華奢な印象がある。カバンを両手で持って太ももに前に下げた様子といい、一歩踏み出すローファーの香りといい、これぞ楚々と辞書に乗せたい。
「それで、優しいあなたのお名前は?」
「至輝愛菜といいます」
さらさらとボブの黒髪が柔らかく流れる。美々子は自分の髪を撫でてみた。細い赤毛が一本抜けて、それを星の養分にしてやった。
「シキちゃん? シキってどんな字書くの?」
「輝きに至ると書いて至輝です」
「名は体を表すね」美々子は手を打った。「輝きに至るほどかわいい」
おそらく、行き過ぎる人のすべてがそう思っているだろう。前や後ろの新入生はもちろん、上下左右、下は地面だからないけれど、上層階や左右翼の校舎から顔を覗かせている上級生の端々までが彼女を目で追っている、というふうに美々子には見える。
「みんなも見惚れております」
「みっちゃんの奇行に目を惹かれてるんじゃなくて?」
「あたし?」と自らの鼻頭を指さし、「ご冗談を」
ほほほ、と笑う。
「これくらいで奇行といわれちゃたまらないよ」
「わたしにはその台詞がたまらないけれど」
「至輝ちゃんの方がいい? 愛菜ちゃんの方がいい?」
「うーん」と悩んで傾げた顔もかわいい。「どちらでも」
「じゃあ、愛菜ちゃんだ。仲良しは名前で呼ぶって、自然の摂理で決まってるの」
「それは、ずいぶんと壮大な……」
「太陽は東から昇り、西に沈む。風は高気圧から低気圧に吹く。生命は海から生まれて大地に還り、苗字で呼ぶより名前で呼ぶ方が親しい。これすべて自然の摂理」東から西に指をやり、「愛菜ちゃんも新入生ね。リボンが緑」
セーラー服の胸に結んだリボンのことだ。愛菜は片手を下げたカバンに残したまま、もう片手で緑の布に触れていた。まるでいま初めてその色を見たような不思議そうな顔で、薄い布地を白く細い指の間でこね回している。
「そうですね」と涼やかな声でいう。「同じ一年生です」
「同じクラスかしら」人差し指と親指を擦り合わせると、空間にディスプレイが出現する。その中に、ぽぽぽ、とウインドウが連続して開く。「クラス分けは……」いいながら、ウインドウに指先を当てて一つずつ飛ばしてゆく。
「歩きながらの端末操作はいけません」
「でもお」
「わたしは一のBです」
「ははは、だったらあたしもおんなじだ」
ははは、と笑うと、愛菜は困ったように笑って返していた。
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