異世界に移住したら、なぜか恋愛相談ばかり受けてます
千明 詩空
第1話 社畜を卒業しました!
青木野乃花がこの村にやってきたのは、四月の半ば。桜の花びらがまだ山裾に舞っていた日だった。
東京での社畜生活に区切りをつけたのは、会社の上司に言われた何気ない一言が引き金だった。
「有給?そんなの取ったらプロジェクトが止まるだろ?」
たったそれだけの言葉に、張りつめていた糸がぷつりと音を立てて切れた。すぐに退職願を出し、翌週には段ボール三箱だけを積んで、この村へと引っ越した。
——晴れて無職、いまや肩書きは「古民家暮らし見習い」である。
「はー……空気、うまっ……」
野乃花は深く息を吸い込みながら、見上げる。築百年の古民家は、ところどころ軋みを立てるものの、まるで生き物のようにあたたかく、懐の深い空間だった。元の住人は十年前に亡くなり、手入れだけされて空き家として放置されていたらしい。
初日は掃除と荷解きで終わったが、翌日は「ご近所さんへのご挨拶」という社会的義務が待っていた。
そして、そこで彼女は、第一の異変に出くわす。
「ごめんくださーい。青木野乃花と申しますー。昨日から、あの古民家に……」
扉が開いた瞬間、思わず声が裏返った。
現れたのは、耳が異様に長く、髪は銀の絹糸のように滑らかで、目元の陰影すら幻想的な美形だった。ひと目見ただけで“人間じゃない”と直感でわかる。なんというか……エルフ?いや、エルフじゃん。
「やあ、新しく来た人だね。ようこそ、久須美(くすみ)村へ。ぼくはリュシアン、畑を耕してるよ」
リュシアンはにこやかに手を差し出す。あまりに自然すぎて、こっちが動揺するのが失礼な気すらしてくる。
「え、あ……あの、コスプレ……?」
「ん?ああ、耳?生まれつきさ。こっちの人はみんな、ちょっと変わってるっていうか、うん。気にしない方がいいよ」
気にしない方がいい……と言われても、気にするのが普通の反応だろう。けれど、野乃花はふと、「まあ、いいか」と思ってしまった。東京の人混みの中で、自分を擦り減らしてきた日々を思えば、こんな“非日常”も案外悪くない。
——次に訪れた家では、体格のいい男が出てきた。額には小さな角が二本、目は赤く、肌は浅黒い。
「うちの畑に入ったら火を噴くからな。冗談だけど」
「へ、へえ……ご挨拶に伺いました。昨日から住んでる青木野乃花です」
「おお、あんたが。俺は茨木源次郎。地元じゃ“鬼の源さん”って呼ばれてる」
冗談めかして笑うが、どう見ても“鬼”にしか見えない。というか、鬼って実在したっけ?
しかし源さんの奥さんが出てくると、これまた何か空気が変わった。目が合った瞬間、野乃花の背中を冷たいものが這った。
「……野乃花さん、いらっしゃい」
細い声、透き通るような肌。なのに、足音がしない。影も見えない。
「あの……奥様は……?」
「うちのは……幽霊でな。まあ、気にすんな」
気にしないで済むレベルじゃない気もするが、村の空気はどこまでも穏やかで、不思議と怖くなかった。むしろ、「ようこそ、異種族たちの村へ」と歓迎されているような感覚すらあった。
夜、自宅の囲炉裏の前で一人、おにぎりを頬張りながら野乃花はぽつりと言った。
「……東京より、こっちの方が人間らしい生活してる気がするのって、どういうことなの」
その夜、古民家の天井裏で、白い着物の少女が笑った気がした。
翌朝、野乃花は畳の上で目を覚ました。窓の外は小鳥のさえずり、木々が風に揺れる音、そして――
「おい、飯まだかー」
天井裏から聞こえる不穏な声。
「……うわ、本当にいたの?」
ゆうべの白い着物の少女は、夢じゃなかったらしい。
恐る恐る天井裏にのぼると、そこには十歳ほどの、しかし年齢不詳の少女が正座していた。ぼんやりと光を放ち、輪郭が少し透けている。
「……おにぎり、おいしかった」
「え、見てたの?」
「見てたよ。あと、匂いもした。すっごく、いいにおい」
幽霊って匂い感じるのか?そんな疑問を抱きつつも、少女の目があまりに無垢で、怖いより先に同情が勝った。
「……名前、ある?」
「うん。鈴音。むかし、この家にいたの」
「ああ、そっか。よろしくね、鈴音ちゃん」
握手を求めたら、手はすり抜けた。
「まだ慣れてないみたい。触れられるのは、おじいちゃんの仏壇くらい」
この家には、かつてこの子と、その家族が暮らしていたのだろう。東京では幽霊なんて非効率の塊だと笑われそうだが、ここではなぜか、普通に「いる」のが自然だった。
昼過ぎ、買い物がてら村の共同商店に行くと、見慣れた顔ぶれが並んでいた。
レジにはエルフのリュシアンがエプロン姿で立っており、棚整理をしているのは鬼の源さん。奥の喫茶スペースには、誰ともつかぬ半透明の青年が本を読んでいる。
「いらっしゃい、青木さん。今日は何をお探し?」
「えっと、味噌と醤油と、あとは洗剤……」
普通の村のように振る舞う彼らと接しているうちに、野乃花はだんだんと自分がおかしいのか、彼らがおかしいのか、境界がわからなくなっていった。
ふと、店の奥に佇んでいた老婆と目が合った。背は曲がっているが、目だけは若い。いや、異様に輝いていた。
「おまえさん、よう来たなあ」
「え……?」
「この村には、呼ばれた者しか来れんのじゃ。道があっても、地図にない。“向こう”の生活に疲れた者が、流れ着く場所じゃよ」
「……観光協会の人ですか?」
「わしは“境の見張り”じゃ。あんたがこの村に馴染めるかどうか、しばらく見させてもらうよ」
老婆の目が、冗談にしては深すぎた。
その夜、古民家の囲炉裏で焼いた魚と味噌汁を食べながら、野乃花は思った。
「もしかして私、異世界に来たのかな。でも……」
不思議と、不安がなかった。どこかで、「ここに来るべくして来た」とすら思っていた。
スマートフォンは圏外、Wi-Fiもなし、テレビは砂嵐。
けれど、焚き火の火が揺れて、幽霊が隣にいて、エルフが野菜をくれて、鬼が手伝いに来る。そんな毎日が、どこか愛おしかった。
――ふと、襖の向こうから音がした。
「ぅ……ぅ……ひ、ひと、こわい……」
びくりとして襖を開けると、そこにいたのは――見たことのない、青い肌の、小さな少女。
「……また増えてる……」
数日後、村の寄り合いで、野乃花は正式に「村人」として受け入れられた。
リュシアンが言った。
「歓迎するよ、野乃花さん。僕たちは、君みたいな人を待ってた」
なぜ「待っていた」のかは、まだわからない。だが、野乃花は笑って答えた。
「うん。よろしくね」
新しい日々が、ここから始まる。
たぶん、ちょっとだけおかしくて、でも確かに幸せな、異種族との共同生活が。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます