見違える
第18話 黄色い声援
ほとばしる汗がじっとりと肌を伝う。
はあはあと乱れる吐息は、次第に荒々しくなるばかりだ。火照った身体から滴り落ちる汗は、とんと日焼けを知らぬ美しく白い柔肌の上をじわり、じわりと這うようにして湿らせていく。
べとり。その汗を吸い、重たくなった衣服がぺたりと肌に吸い付いて離さない。
真剣な眼差しでこちらを見つめる友は涼しげな面持ちをしているが、彼もまたぼくと同じようにぐっしょりと濡れている。
幾度もぼくと彼は絡み合い、お互いの肌が濡れている事を確認し合った。もうどちらがどちらの汗だったのかわかりはしない。
そして友はまだ求めるようだった。その熱い視線に応えようと、こちらも負けじとばかりに見つめ返す。しかし、友の激しい攻めにぼくは思わず怯んでしまった。
ぼくを自由に動かすまいと、友の手が力強く伸びて動きを制限してくる。肌と肌が触れ合う。くそう、奪われてなるものか。だがそこまでだった。必死の抵抗も虚しく、ぼくは奪われてしまったのだ。ああ。
「なにやってんだよ、守屋」
叱咤の声が飛ぶ。
奪われてしまったバスケットボールはもう相手コートへと渡り、ふり返った時にはパサリと音を立ててゴールに沈んでいた。
体育の授業中の事である。
ゼエハアと息を切らし、倒れ込みそうになるのをなんとか堪える。よく覚えておくがいい。ぼくは運動全般ダメなんだ。
どうしてみんなあんなに動けるんだかと不思議に思う。一体どこにそんなムダな体力があったというのだろうか。肩を落として、走り去るみんなを見送った。
体育館の中は熱気に包まれていて、そこら中がムワッとしている。立ち昇る蒸気がこの目に見えるんじゃないかと思えるほどだった。出入り口を開け放って窓を全開にしているけれど、それでも足りないくらいに蒸し暑く感じてしまう。
夏真っ盛りだった。連日の猛暑が容赦なく体育館を照らしつけている所為だろう。それに加えて、ぼくのような生徒が放つ熱気を御しきれていないのではと思う。
早急にクーラーの取り付けを願いたい。
この際だ、ぼくも贅沢を言いやしない。別に扇風機でも構わないのだ。例えボールの軌道が変わるほどの風だろうと、受け入れる覚悟がこのぼくにはあったのだから。
そんな妄想はすぐにかき消された。
「守屋、ゴール下。走れ、走れ」
まあ、現実とは非常なものである。
走れと言われてもなあと思う。へたりへたりと動いてはみるものの。これは走っているのか、それとも歩いているのか。
自分でもよくわからなかった。狭いコート内をあちこちと走り回ったおかげで、ぼくの体力はとっくに尽きていた。
こっちのゴール下に行ったと思ったら、次はあっちのゴール下に行かないといけないなんて、バスケットボールというものは実に忙しないスポーツじゃないか。
ぼくはこっちのゴール下にいるからさ、ここで待ち合わせをしようよという訳にはいかないものかねと妄想する。
「戻れ、守屋。はやく戻れ」
うん、いかないようである。
しかしだ。走れと言ったり、戻れと言ったり。この終わりなく繰り返されるシャトルランは、マラソンをしているのとそう変わらない気がする。
頭がぼおっとしてきて、どっちが自分のゴールだったかもわからなくなってきた。おや、ゴールが二つもあるじゃないか。幻でも見え始めたと思った頃、天の声がそっと囁やいた。
「守屋くん。あなたはもう十分にがんばりました。後は全部まかせときましょう」
ああ、幻聴まで聞こえ始める。でも、まあ。天がそう言うのだからそれに従うべきだろう。
授業の終了を願い、天を仰いでいると、
「守屋、真面目にやりなさい」
再び天からの声が耳に届いた。
また幻聴だ。これは幻聴に違いない。
その声は天と呼ぶのか、頭頂部と呼ぶのか。ぼくが上を向いていたわけだから、まあ、横から聞こえたのだろう。ちらりと天界に目を向けると、先生が腕を組んでいた。
どうやら天界はぼくに厳しいらしい。
ピーと試合終了を告げる笛が鳴る。その音が鳴ると同時にドサリとへたり込んだ。どうにかこうにか時間は過ぎたみたいで、ようやくメンバー交代と相なった。
「いやあ、助かった。危ない所だった。もう少しで天に召されるかと思ったね」
と、軽口を叩くのもままならず。
四つん這いのままでそそくさと這い、転げ回るようにしてコートの外へ出る。
心待ちにしていた試合終了の音色は、まるで天使の鳴らすラッパの福音に思えたほどだった。たとえ鳴らしたのは笛で、咥えていたのが筋肉質の先生だったとしても、ぼくにとっては天使に違いな──。
いやいや、見えない。落ち着くんだ。
ブルリと頭を振っていると、交代メンバーによる試合がすぐに始まった。やれやれとやっとの思いでひと心地つく。だんだん呼吸も落ち着いてきて、ちょっと呆けていた頭も緩やかに落ち着きを取り戻していった。
うん、どう見ても先生は天使じゃない。
うっかりと暑さにやられていたようだった。ようやく頭が冴えてきたらしく、少しずつ今置かれている状況を把握していく。
今日は先生がひとり休みだという事で、ぼくらは急遽、体育館を貸し切って隣のクラスと合同授業を行う事になったのだった。
そして残念な事に、授業内容はバスケットボールの試合。クラス対抗で練習試合をさせられていた。それはぼくのもっとも苦手とするスポーツである。そもそも得意なスポーツなんてありもしないのだけれど。
はあと息をつく。
何もこんな暑い日に好き好んで運動しなくてもいいのにと思う。ぼくほどではないにせよ、暑さでやられている生徒の姿をチラホラと見かける。
ぼくもグッタリと項垂れていく。
キュッキュッ、バンバンという音が右に行ったり左へ行ったりと忙しくしていた。でもきっと誰も試合なんて見てないんじゃないかと思った矢先、キャーと黄色い声援があがった。
ピクリと耳が反応する。ふぅむ、隣のコートの女子達による声援のようだ。疲れ果てていたぼくは息も絶え絶えになりながら、最後の力をグッと振りしぼり。
──は、さすがに大袈裟過ぎだったか。
それでもグッタリと項垂れていた頭を、エイヤと気合いを入れて持ちあげてみた。そっかなるほど。こちらのコートでは我がクラスが優秀な成績をあげているようだった。
なんだか誇らしいじゃないかと、まるで自分事のように得意気になってしまう。はて、さっきまでぼくが出ていた試合は声援がなかった気もするけれど。
まあ、目を瞑っておく事にしよう。
女子はしっかりと試合を見ていたようだった。あるいは隣のクラスの女子が見ているから、男連中がハリきっている所為かもしれないけれど。
男子の動きがいつもよりキビキビとしているような気がする。ぼくも含めてだ。女子の方はどうなのかと、くるりと首を回してみた。
ちょうど隣のコートでも試合が始まったばかりだった。ジャンプボールで溢れたボールがテンテンと転がり、ひとりの女の子が素早くそれを掴んだ。
おや、あの小さいのは鬼柳美保じゃないか。その小さな身体と猫のようなバネを生かし、颯爽とドリブルで切り込んでいる。
ちょこまかとディフェンスをかわしてパスを出し、手早くフリーになった所へパスが返る。そのままナイスシュート。
へえ、中々の活躍ぶりをみせる。
ぼくも黄色い声援のひとつでも送ろうかと悩み、やめておく事にした。ボールが飛んで来かねない。バスケットボールでドッチボールは、ちょっとばかし痛そうな気がするのでご遠慮願う。
ぼくもすっかり大人になってしまった。
ふふんと得意気にしていたら、鬼柳ちゃんとふと目が合う。が、そのまま素っ気なくあちらを向いてしまった。
まあ、つれないねえ。
そうこうしている内にこちらのコートでの試合は着々と進んでいたようで、いつの間にか点差がどんどんと開いていた。
おお、これは本当に強いじゃないか。
女の子に見守られるというのは、これほどまでに力を生むものかとすっかり感心してしまう。こんな事になるのなら、これから先もずっと見守っていて欲しいなと思っちゃうものだ。
テストに受験、面接や就職と。
これからも見守っていて欲しいなと思う事は、山盛りにしてあるのだから。すぐ近くで。或いは真横で。それが無理なら、例え真後ろでも見守ってくれていたら御の字だ。
でも彼女達も自分の事で忙しくなるだろうから、あんまり無茶な事は言えない。仕方ないな、母さんにでも頼むとしようか。
はて、それは効果があるのかしらんと首を傾げる。そんな事を考えていると目の前をロングパスが通り過ぎていった。そしてすかさずレイアップシュート。鮮やかだ。
やはりというか、なんというか。
運動部のメンバーがいい動きをしているようだった。バスケ部、サッカー部、野球部と。運動神経とは真に不公平なもので、一つのスポーツを鍛えたひとは別のスポーツでも通用するようである。
なるほどねと思う。一つのスポーツに通用しないぼくが全てのスポーツに通用しないのは、ある意味道理に適っている訳だ。
ひとり深く納得する。
あいつは野球部、こやつはサッカー部。ほらねやっぱりと、出場メンバーの部活を一つずつ思いだしていきながら自分の事を慰める作業に入る。
おや、彼は。
そんな中、特に目立った動きをしている訳ではないけれ、ど常にいいポジションにいる彼は、……坂本くんだったかな。
なにやらドリブルをする手つきも手慣れているようにも見えるけど、はて、彼はいったい何部だったかな。
お喋りな友人にこっそり聞いてみると、
「あいつは卓球部だよ」
すぐに返ってきた。
へえ、意外と言えば失礼になるのかな。でもあの手さばきは、妙に板についてるような気がした。再び彼の姿を捉えた時には3Pシュートを華麗に決めていた。思わず目を奪われる。
「キャ~、カッコいい」
とはまあ、言わないのだけど。
その後、もう一試合していくかと先生はぼくらを脅かしてくるけれど、あいにくそこで時間切れとなった。
ほっと胸をなで下ろし、
「さあ。終わった、終わった」
引き上げようとしていたら、先生からボールを倉庫に片付けておくようにと、大役を仰せつかってしまった。
なぜにぼくがと理由を求めると、真面目に試合しなかったからだと苦笑われる。
「そんなあ。あれでも本気なんだけどな」
「一番活躍してなかったからな」
と、皆からも満場一致で指名されてしまった。
まったく、困ったものだね。
どうやら天界どころの騒ぎではなく、この世自体ぼくに優しくないみたいだった。ふうとため息混じりに肩を落とし、二つのボールカゴをゴロゴロ押していると、一つのカゴが不意にフッと軽くなった。
おや、と目をやると小さな人影が。
「全然だめだったね」
毒を吐きつつも手伝ってくれる、鬼柳ちゃんの姿がそこにはあった。
ありがたい、のかな。うん、毒がなければ尚の事だったけれど。それでもひとり残って手伝ってくれる、彼女は優しい。
「ね、守屋くんは運動音痴なの?」
……優しいはずだ。たぶん。その含み笑いさえなければきっと。
「声援があればね、ぼくだってやれますとも」
熱弁を振るっていると、
「それ、順序が逆じゃないの」
呆れられてしまう。
それはそうかもしれない。そのジト目で見守られてもしょうがないものである。一向に力は出てこないだろう。
「不思議なものだね」
と肩をすくめておいた。
そんな風に話しながら、体育館の入り口近くにある小さな倉庫へとボールカゴを運んでいった。パチリと電気をつけ、ひょいと中を覗いてみる。
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