第16話 誰が射抜く

 ほどなくして英語の授業は始まった。いつもならば上の空になる所だったけど、今日はそうも言っていられない。早速この授業で試してみるとしよう。


 鬼柳ちゃんは隣のクラスなので、実行犯はぼくという事になった。耳をそばだてて聞き耳を立てる。もちろん英会話を聞き逃すまいとした訳じゃあなかった。


 聞いていたのは、周りみんなの呼吸だ。


 目立たないようじっと息を潜め、そっとタイミングを見計らう。カチカチとシャープペンシルを持て余す音。授業とは関係ない会話がわずかに聞こえ、窓際の生徒がそれとなく外の様子を気にし始める。


 みんなの集中力が段々と途切れてきた。そんな頃合いを待っていた。木村先生が教科書を片手に歩き回り、ぼくの席の脇をすり抜けていく。


 その瞬間、スッと手を挙げた。


「先生。落とし物です」


 それがみんなに見えるよう、高く高く、なるべく高く。天まで届くように掲げる。掲げたラブレターは鬼柳ちゃんお手製の偽物で、中身はからっぽだ。


 真剣な思いなんてこれっぽっちも詰まっていやしない代物。ぼくの真剣な好奇心ならちょっとは詰まっているかもだけど。


 あなたが恋泥棒ですという、まるで手品みたいな手紙も抜いておいた。ネタの割れた手品ほどつまらない物はないからね。


 ただ、やっぱりこれも手品になっちゃうかなと、軽く肩をすくめておく。


 中身のないラブレターはハートのシールさえ貼らなければただの手紙に過ぎない。だけどただの手紙も、オリジナルを書いた本人にはラブレターに見える事だろう。


 先生は口を曲げ、ぼくからラブレターを受け取った。そしてクラスのみんなに誰の落とし物だと確認を取ったりするけれど、まあ、当然誰の反応もなかった。


 そりゃ、そうだった。教室の中に犯人がいたとして、みんなの前で名乗り出るのはちょっぴり恥ずかしい。


 とくに落胆はせず、成り行きを見守った。


「じゃあこれは先生が預かっておくから。心当たりのある者は後で取りに来なさい」


 そう言って先生は教科書の間にスッと挟む。そのあとはまるで何事もなかったように、淡々と授業は再開されていった。よくある事なのか、さすがに慣れた対応だった。


 しめしめ、うまくいったぞとほくそ笑む。よし、後は先生を見張るだけでよかった。犯人がこっそりと現れるのを待つとしよう。


 一応まわりの表情から犯人がわからないものかと、クラスの女子の表情をちらりと窺ってみる。こんな事態に慣れていたのは先生ばかりなようで、生徒はさっきの手紙はなんだろうとざわついていた。


 女子はそのあたり敏感なようで、察するものでもあったのか。クスクスと笑っている子や、ヒソヒソと噂話をしている子たちをチラホラとみかける。


 ううん、自然とアゴに手をやっていた。そして撫で撫で。ふぅむ、わからなかった。犯人と思しき姿は見当たらない。ただ高橋杏奈、その人だけは物言わず、じっとまっすぐに黒板を見つめていた。


「それは、本当なの?」

 と鬼柳ちゃんは逐一確認を取ってくる。


「本当本当。信用ないなあ」

 

 にやりと口元を緩めつつだったけど、教室であったやり取りをそのまま伝えた。ちょっとばかし、このぼくの見事な手腕を脚色して話した節はあったけど、ナイショにしておけばバレないだろう。


 状況をつぶさに話し終えたぼくに、鬼柳ちゃんはジト目で感謝の意を伝えてくる。ブラボーと、スタンディングオベーションをするのを忘れているようだったけど、それはこの際見逃しておいてあげようと思う。


「それじゃあ、守屋くん。見張るよ」

 

 大きな目をきらめかせ、総立ちになっているようだったからさ。


 それから二人してずっと先生を見張っていた。それとなく交代をしながら職員室へ覗きに行きもした。ラブレターを回収する人があればすぐにわかるはずだ。


 ここで鬼柳ちゃんの全クラスの名前を覚えているという能力が役に立つ。先生の元を訪ねるクラスメイトの姿を見れば、誰が差出人かはっきりするだろう。


 彼女ならではの芸当だった。到底マネできるものじゃなく、こっちはそんな便利な能力の持ち合わせはない。


 まあ、さすがのぼくだって自分のクラスの名前ならわかるはずだったから、問題はなかったと思う。たぶんね。


 だから差出人はもう袋の鼠。ぼくらの好奇心からくる監視の目。この包囲網はそう簡単に破れるものではないはずだった。


 でも──。


「来ないね」  

 

 呟くと、

「そうね」

 気のない返事があるだけだった。


 ぼくらの思惑は外れてしまった。


 休み時間、昼休み、放課後と。待てど暮らせど、ラブレターを取りにくる素振りを一向にみせなかったのだ。


 何人かの女子が先生を訪ねてはいたけど、みんな先生とおしゃべりをしにきただけで手ぶらで帰っていく。いたずらに時間だけが過ぎていった。


 はて、これはどうなっているのだろう。


 どうして取りにこないのか。いくら教師といえど、思いの丈を綴った恋文が他人の手中にあるこの状況。ぼくだったら耐えられない。いても立ってもいられなくなる。


 もっともぼくなら、中身を見ずに耐える事もできそうにないけれど。本物のラブレターを持つ鬼柳ちゃんはよく耐えているものだと感心しきりだった。


 凄いなあと感嘆の視線を向けると、彼女はそっと静かに瞳を閉じていた。やっぱり中身を読みたい誘惑に耐えようと必死に抗っているのかなと思ったけれど、どうやら違ったらしい。


 パチクリと開かれた両眼は、覗き込むぼくの姿を捉えずに教室の外へと小さな一歩を踏みだしていた。


 でもすぐに立ち止まった。そして不思議そうに小首を傾げながらくるりとこちらに向き直る。


「何してるの? 職員室に行くよ」


 おや、さっきのは耐えていたのではなく推理中だったのか。そして何かが見えたというのだろうか。その大きな瞳は自信に満ち溢れていて、そのほっぺたは柔らかく持ちあがっている。


 ふぅん、面白いじゃないか。鬼柳美保。きみの推理をみせてもらおうではないか、なんて。尊大な心とは裏腹に、小さな探偵の背中をぼくはこそこそと追いかける。


 ──はい。ついて行きますとも。


「失礼します」


 ガラリと職員室のドアを開けて、中へと入っていく。ぐるりと見回してみると職員室の中はがらんとしていた。


 もう時刻はとっくに夕方。部活の顧問をしている先生方はクラブや部活の指導にと忙しくしていた。多くの先生が出払った後のようで、何人かの先生がぽつりぽつりと残るだけだった。


 きょろきょろと首を回してみると、木村先生が自分の席に着いているのが見える。山と積まれたノートに隠れるようにして、机と向かい会っていた。そういえば今日はノートの提出があったのだった。


 鬼柳ちゃんが背伸びをしながらまだ首を回していたので、先生はあっちだよと指をさして教えてあげる。


 すると、きろりと睨まれてしまった。


 肩ぐるまをしてあげるわけにもいかないからさ、という言葉がちょっと余計だったのかもしれない。見えないのではという心配は無用だった。彼女もそこまで小さくはない。


 鬼柳ちゃんには見えているらしい。しっかりと標的をその目に捉えているようだった。


 迷うこともなく、鬼柳ちゃんはまっすぐ木村先生の元へ向かう。その後に続いた。カルガモの親子を思い出しつつの事だ。


 グワッグワッと近付くぼくらに気が付いたのか。先生は走らせていたペンを置いて笑顔で迎えてくれた。爽やかで人当たりの良い、柔和な顔付きをしている。生徒達の間でも評判が上々だ。


 女子には特に。


 羨ましい限りだねと、少しひねた視線を向けておく。先生の机にはぼくらのノートが広げられていた。どうやら宿題の採点をしていたようである。


「おお、どうした。ふたりして」


 目があったので訊いてみる。


「先生。あの手紙は、誰か取りに来ましたか?」


「うん?」

 目と口が跳ねあがり、

「ああ、これか」

 と机に手を伸ばす。


 そこにはラブレターが無造作に置かれていた。うん、やっぱりまだあったのか。


「誰も取りに来てないな。なんだ、守屋。その事を気にしてまだ居残っていたのか? 鬼柳もそうなのか?」


 おや、と思う。先生、それって──。


 そしてぼくの隣でソワソワ、モジモジとし始めた鬼柳ちゃんにもおや、と思う。突然どうしたというのだろう。


 照れていたりするのかな。


 木村先生は甘いマスクと物腰の柔らかさから、女生徒に人気があると聞いている。例に漏れず、鬼柳ちゃんも甘酸っぱい想いでも持っているのかもしれなかった。


 ニコッとほほ笑んで、

「どうしたんだ、鬼柳」

 それを言う先生も察していそうな気がした。


 なおさら身悶える鬼柳ちゃんを見てぼくも薄っすらと察してきた。ああ、これは違うなと。そういえばと思い出す。鬼柳ちゃんは名字呼びが嫌いなのだった……。

 

 先生が相手だからか。ぼくが呼んだ時と違って、名字で呼ばないでとも言えず、悶えているのだろう。くつくつと笑い声を殺していると、鋭い視線がつき刺してきた。おっといけない。


 気を取り直し、鬼柳ちゃんはぶんぶんと髪をなびかせてからペコリと頭を下げた。


「まずは先生、ごめんなさい。そのラブレターは偽物なんです」


 どこから取り出したのか、いつの間にかその手に本物のラブレターを持っていた。


「本物はここにあります」


 そして先生の目の前にそっと置き、

「これを下駄箱に入れたのは先生ですね」

 そう言った。


 虚を突かれた先生は眉根をあげ、それから腕を組んで、ふむと息をついた。そして授業をする時みたいに優しく問いかけてくる。


「どうしてそう思うんだ」


 その声はとても落ちついたものだった。柔らかい笑顔のまま、まっすぐ鬼柳ちゃんを見つめている。負けじと彼女も大きな瞳で見つめ返していた。


「実は、三年の根本先輩が見てたんです」


「おお、それはいいブラフだね」

 

 思わず声に出しちゃいそうになったのを慌てて手で押さえ込む。


 喉を鳴らすことで事なきを得たと思う。


 確かに先輩は差出人の姿を見ているのだろうけど、それが誰だったのかまでをぼくらは聞き出せていなかった。


 でも、ヒントならあった。


 ぼくが今日、朝会った人の中に差出人がいる。あの時ぼくはスリッパを借りようと職員室に行ったので先生とも会っていた。


 先生が差出人なのかと考えてみる。だとすると納得できる事がいくつかあった。


 根本先輩に偽物のラブレターだと言った時の事だ。ラブレターを眺め、すぐに偽物と信じてくれた。その理由は、先輩が見たラブレターの差出人が本当は男だったからじゃないだろうか。


 なのに女の子の字で書かれていたから、すぐに話を信じたんじゃないのか。一瞬、目にしただけの字の違いだなんてそんなの普通は分かりっこないはずだった。


 でも男女の字の違いというなら話は別だ。とてもわかりやすい。女子は丸く、男子は尖る。ましてや先生の字とくれば、ぼくらはよく目にしているのだから。


 それに何より納得する所は、根本先輩が漏らしたあの言葉を置いて外にない。先生と生徒の恋だったのなら、それはあってはいけない事なのかもしれなかった。


 木村先生は目を閉じ、ううんと唸る。


「そうか、見られていたのか。なら認めるしかないよな」


 それは大人の余裕というものだろうか。堂々としたものだった。新任の教師であるはずだけど。落ち着きがあるというのか、貫禄があるというのか。大人と子どもの差を見せつけられたような気がした。


 しかし、認めちゃったよこの先生。


 これは結構な問題になるんじゃないのか。いち教師がいち生徒にラブレターを贈っただなんて。それがダメとは言わないけれど、褒められた行動だとは思えなかった。


 そこまで考えて、あれ、と首を傾げる。そしてラブレターにずいっと指を差す。


「でもこれは、先生が書いたものじゃないですよね」


 鬼柳ちゃんが複製してくれたオリジナルのラブレター。その隅っこには控えめに、読んでくださいという丸っこい文字が鎮座してあった。もちろんそれは、ぼくの知っている先生の字ではなかった。


 先生に尋ねたつもりだったけど、答えてくれたのはなぜか鬼柳ちゃんだった。どこかうっとりとした面持ちで、きらきらと瞳を輝かせているのがとても気にかかる。


「それを書いたのはね、高橋杏奈なの」


 ふぅむ、高橋杏奈が書いたラブレター。それを木村先生が、彼女の下駄箱に入れている所を根本先輩に見られた──、と。


「なるほど、逆だったんだね。告白されていたのは、先生の方だったのか」


 はは、と先生は頭をなで、

「突然渡されちゃってな」

 とはにかんだ。


 なんと、そもそもは手渡された物だったのか。それならいくつかの謎が紐解ける。


 ラブレターのどこにも名前が書かれていなかった事。未開封なはずのラブレターを迷わず、彼女の下駄箱に入れれた事。ぜんぶ高橋杏奈。本人から直接渡されたと考えるなら、不思議な事は何もない。


 そう言えばさっき、ぼくと鬼柳ちゃんがやって来た時だって先生は疑わなかった。手紙の話を切りだしたあの時、ぼくの隣には鬼柳ちゃんがいたのだ。


 傍にもう一人少女がいたら、

「その子の手紙なのか?」

 と聞いても良さそうものなのに。


 先生は尋ねもしなかった。それは誰が書いた物かを既に知っていたからだ。へえ、とも、ほお、とも。言葉にならない感嘆の声が漏れだす。それはまあ、なんとも妬ましいものじゃないか。


 なかば放心状態のぼくをちらりと眺め、先生は片眉だけを器用にあげた。


「気持ちは嬉しいんだけどな」


 ラブレターにそっと手を這わす。


「それでもやはり教師と生徒だから。そこはしっかりと一線を引いておかないとな」


 そう口を引き結ぶ先生の手元にあるラブレターには、開けられた形跡がなかった。そうなんだ、淡い思いを綴ったその恋文は読まれる事がなかったのか。


「じゃあ。先生は断るつもりでラブレターを返却したという事ですか」


 開けられることのなかったラブレター。きっとそれが、高橋杏奈に対する返事なのだろう。先生は頷く代わりに瞳を閉じ、ほんのりとほほ笑んだ。


 一つの想いが今日、実る事もなく土に還るはずだった。


 だけどそれを見ていた根本先輩がうっかりと掘りおこしてしまった。自らの想い人が禁断の果実に手を伸ばさないようにと、つい手を出してしまったのだろう。


 それがなぜか巡り巡ってぼくの下駄箱に来たという訳だった。手出しさせまいとして手を出し、おまけに足を置いていくなんて。そんなの笑い話にもなりゃしない。


 それにしてもと呆れ返る。あの先輩はいつも下駄箱を見張っているのだろうかな。それはものすごい執着と言える。


 まったく、執念とは恐ろしいものだよ。

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