第15章『こども』

第43話

 七月二十二日、火曜日。

 午後五時過ぎに『魚庭カルチャーなにカル』のスタジオ収録を終えた。

 敦子は中野一彩を連れ、テレビ局内――番組制作のオフィスを訪れた。かつてはここで働きたいと願ったこともあったが、今はどうでもよかった。

 朝枠番組のデスクへ向かい、プロデューサーと思われる男性に近づく。敦子は鞄から名刺を取り出した。


「はじめまして! 中野かずさのマネージャーをやっております、ペタルーンの大西と申します!」

「ああ、かずさちゃんの……。で、用件は何? 大体予想はつくけど」


 椅子に座ったまま――明らかに疲れている様子の男性は名刺を受け取り、ぼんやりとふたりを見上げた。

 敦子としては、まだ話を切り出しやすい状況だった。


「どうか、中野を使って頂けないでしょうか? この子、そちらの番組に出たいがために、最近は政治や野球を勉強してますし……トークも上手いです」

「そうですねん。朝早いんも、全然余裕ですわ」

「へぇ、嬉しいなぁ。うん、いいよ……是非ともゲストでお願いします」


 男性は立ち上がると、頭を下げた。

 思ってもいなかった反応に、敦子は嬉しさよりも驚いた。


「ていうか、ウチなんかでいいんですか? かずさちゃんバラエティ慣れしてるし、欲しいなとは思ってたんですが、如何せん高嶺の花で……」

「滅相もございません! 中野もニュース系は初めてで、至らぬ点もあるかもしれませんが、勉強させて頂きます! 出演料おかねの方も、相応で構いませんので!」

「ありがとうございます。うち、頑張るで!」


 詳しい出演予定日スケジュールは後日の連絡となり、口頭でだがひとまず契約を交わした。

 敦子は一彩と、オフィスを後にした。


「あっちゃん、ありがとな!」

「いや……私、何もしてないけど……」


 実際に一彩を宣伝し、営業活動を粘るつもりだった。あっさりと締結し、拍子抜けだった。

 男性の言い草から、それだけ一彩に価値がある。意外とも言える結果に、敦子は一彩の需要や売り方について、良い意味で見直さなければならないと思った。


「あとは――朝起きないとだね。朝というか、夜中だと思うけど」


 いざ決まると、敦子はその意味で少し憂鬱だった。

 起床が苦だからではない。前後のスケジュールには余裕を持たせるよう、気をつけないといけない。


「ちょうど夏休みやし、大丈夫や」

「何言ってるの。お仕事と補講で大体は埋まってるんだし……余裕無いよ」

「えー。十七歳の夏休みは、一生に一度やねんで」


 いつもの冗談じみた口調ではなかった。一瞬だが、一彩が歳相応の『女子高生こども』として駄々をこねるのが伝わり、敦子は驚いた。

 タレントである以前にひとりの人間なのだと、ふと感じた。


「ちなみに……もし時間あったら、どんな夏休みにしたいの?」

「そうやなぁ。海にプールに……花火大会とお祭りも行きたいわ」


 ありふれた回答だと、敦子は思った。かつて自分が一彩と同じ年齢だった時に、ひとしきり楽しんだ。

 そのような『普通』とは無縁なのだと改めて確かめると同時、少し不憫に感じた。


「花火とか夏祭りなら、仕事帰りに連れていってあげるよ」

「ほんまか!? いやー、あっちゃんは頼りになるなぁ。うちの気持ちがわかってくれる、敏腕マネージャーやで」

「そんなことないよ」


 敦子は照れて、謙遜した。ただ仕事をこなしているだけだと、自分に言い聞かせた。

 そのようなやり取りをしながら、自動車に向かった。あとは一彩を自宅まで送り届けて、今日は一段落つく。

 自動車を走らせ、車内の冷房がようやく効いてきた頃――先ほどの会話の流れから、敦子は踏み込む決意をした。


「ねぇ、一彩ちゃん……私の前任って、どんな人だったの?」


 四月に敦子が営業部へ異動するきっかけとなった人物を、訊ねた。

 敦子はこれまで、気にしないようにしていた。いや、意図的に避けていた。ろくに面識も無いのに、本社転勤という事実だけで――比較すると劣等感に苛まれるだろうと、無意識に決めつけていた。

 相手が未知である以上、現在も『謎の劣等感』が消え去ったわけではない。

 しかし、先日の美澄沙樹との些細なやり取りから、向き合わなければならないと思った。

 こちらの事業所に居た頃は五名ほどを担当していたと聞いている。現在の敦子と同じく、少なくとも一彩と芽依を兼任していたようだ。


「ああ、白石さんな……」


 敦子は後部座席から、白けた声が聞こえた。ルームミラーを見ると、一彩が窓の外をぼんやりと眺めていた。


「仕事はめっちゃ出来たけど、うちはどうも好かんかったわ。あっちゃんの方が、全然やりやすいで」


 一彩の言う仕事とは『営業』を指すのだと、敦子は察した。

 それには優れていたようだが、人間性は――相性の可能性もあると思うことにした。自分の主観が無い状態で『他人』を悪く言いたくなかった。


「へぇ。一彩ちゃんはそうなんだ」


 だから、敦子はそれ以上訊ねなかった。

 他にも訊きたいことはあるが、一彩の態度からも、踏み込んだことに日和った。


「たぶん、芽依も同じとちゃうかな……」


 敦子の知りたいことのひとつを、一彩から付け加えられた。

 しかし、あくまでも一彩の意見――個人の推察でしかない。芽依が『彼女』を好いて尊敬していた可能性も考えられる。

 それでも、敦子はそのように考えたくなかった。矛盾している自覚があるように、敦子の頭はぐちゃぐちゃにかき乱れていた。



   *



 敦子は午後八時半に帰宅した。風呂と夕飯を終えると、午後十時前になっていた。

 リビングのソファーに座り、冷えた缶ビールを飲みながら――なんとなく、テレビで報道番組を眺めていた。番組の内容は頭に入らない。


 ――オーディション落ちたん、これが初めてとちゃいますしね。


 敦子はここ最近、テレビCM撮影で沙樹が何気なく漏らした言葉が、頭から離れなかった。

 あの時は適当に相槌を打ち、訊ねなかったが――つまり、芽依がオーディションを受けたのは今回が初めてではないことになる。

 確かに『月灯りのレコード』のオーディションに際し、芽依は初めてと言っていない。しかし、事前の対策としては、さも初めて受けるかのような素振りを見せていた。

 そう。敦子は、騙されたように感じていた。

 敦子もまた、芽依に対しては嘘をついた事例がいくつもある。結果的には『お互い様』だが、都合よく考えると敦子は驚き、残念であった。

 そして、腑に落ちないところもあった。


「どうして黙ってたんだろう」


 芽依の意図がわからない。芽依にどのような利点があるのか、想像できない。

 因果があるのかもわからないが――敦子はそれを知ろうとして『前任者』の影が浮かんだのであった。

 自分の知らない過去にオーディションを受けたのは事実だ。その際、ふたりに何かあったのだろうか。それを知る人間は、当事者以外に居ないのだろうか。


「はぁ」


 敦子は溜息をつき、ソファーで横になった。

 一彩に探った手応えとしては、あまり良くなかった。一彩がふたりについて何か知っているとは、考え難い。

 悶々としたまま十分ほどが過ぎ――敦子は身体を起こした。


「よしっ」


 テーブルに置いていた社用の携帯電話を取り、芽依に電話をかけた。午後十時を過ぎているが、時間を気にしなかった。

 かつて仕事の失敗で落ち込んでいた時、芽依から遊びに誘われたことを思い出した。深夜の通話は、あの時以来になる。

 コール音が数回続き、途切れた。


『敦子さん? 次のオーディション、決まったんですか!?』


 芽依の第一声がそれだった。食い気味の口調に、敦子は少し戸惑った。


「ごめん。それはまだというか、追々で……」


 敦子は困ったように苦笑し、本題へと移った。


「芽依ちゃん、もうちょっとで夏休みだよね。夏休みに入ったら、私と遊びに行かない?」

『え?』


 驚く――というより、芽依も戸惑った様子だった。

 無理もないと、敦子は思う。次回のオーディションどころか仕事外の提案に、反感を買うことすら覚悟していた。


「ほら、芽依ちゃんの大好きなデートだよ。私とデートしよう」

『は、はぁ……』

「来月末からCM流れたら、忙しくなると思うし……オーディションも受けるし……時間ある時にリフレッシュして、生気を養っておこうよ」

『そういうことなら、まあ……』


 敦子は強引に丸め込んだ気がしたが、ひとまず芽依を頷かせた。

 言葉にした意図が、敦子に全く無いわけではない。しかし、それらはあくまで聞こえの良い建前だった。

 本音としては、結局のところ――敦子は芽依との信頼がまだ不足していると考えた。

 芽依の過去を探ることは、諦めた。芽依だけでなく敦子も互いに、隠し事の無い関係を築きたい。そのために歩み寄る姿勢を、改めて見せた。


『ちなみに、どこへ遊びに行くんですか? ナイトプールですか?』

「ゴメンね。やっぱりそこは行けないけど……それとは別で、夏らしいところに行こう」

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